「眠れないんだね、茨」
閣下のその発言に、手に持っていたスケジュール帳が手から滑り落ちた。
「そんなことありません。昨夜は珍しく直ぐに寝付くことが出来て、見ての通り万全の状態であります!」
「……珍しく、ね。それって、昨夜以外は寝付けなかったって言ってるようなものじゃないのかな」
ひくりと、口の端が引き攣る。
自分が言葉で揚げ足を取られるとは、いつになく負けた気分だ。この男には自分の動揺など手に取るように分かったのだろう。心配げに男の睫毛が下を向いた。
「……朝起きて、隣にいたはずの人間がいなくなっていた時、ひどく焦るんだ。
ひょっとしたらこのまま、一生私の元に帰ってこないのではないか、と。一度考えると、もう、眠ることさえ出来なくなってしまう」
――正しく、その状態なんだろう?
付け足されたその言葉は図星以外のなにものでもない。ただ、一つ訂正する点があるとすれば、貴方の幸せな憂いとこちらの悩みは全くの別物であるということだ。
……眠れないのは、そんな繊細な感情からではない。彼女がもう二度と、自分の元に現れることはないと確信を得ているからだ。
「結婚って、なんだろうね。少なくとも私は、彼女と幸せになるためではなく、小鳥のように何処かへ行ってしまいそうな彼女を繋ぎ止めたかっただけなのかもしれない」
「……随分と情熱的ですね」
「君もそう在るべきだよ、茨」
ああ、耳が痛い。この神を地上に引き摺り下ろした人間は一体どこの誰なのだろうか。今までどうでもよかった事が、知りたくて堪らなくなった。然し、何もかも今更である。
「一度、素直になるべきだ。
……君達は今、同じ道を踏み外して居るだろうから」
熟熟、意味の分からないことを仰られる。道を外すどころか、俺と彼女は、最初から同じ道すら歩いていないというのに。
困った顔でこの尋問を乗り切ったって、事態が何一つ進展しないのはわかっていた。
そろそろ、終わりにすべきかもしれない。
少し遠回りになったが、聞きたいことはすべて聞き出した。あとは自分が覚悟を決めるだけだ。
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