ペトリコールの痕味



この雨が、一生やまなきゃいいのにって、
いつも本気で願ってるよ







 梅雨はまだ当分先で、今は春と呼ばれる季節だ。

 この時期の天気予報は平和なもので、一週間の天気にはお日様のマークがずらりと並んでいた。
 おひいさんの言葉を使うなら、正に"いい日和"
今日は一日中、この天気が続くでしょう。そんなアナウンサーの言葉を鵜呑みにし、今日も傘を持たずに外へと出た。
 然し、忘れた時に不幸はやって来て、自然は時に人間の思考を上回る。油断大敵とは、読んで字の如くであった。


 用事を終えて外へ出ると、地面は水浸しで、空からは槍のように鋭い雫が降っていた。空が泣いている、それも大号泣だ。傘を持っていない時に、これ程まで降るものかと、なんらかの意図を感じざるを得ないほど降り注いでいる。
 帰ったら直ぐさま風呂に浸かりたい所だが、残念ながら寮で待っているのは空っぽの湯船と子犬だけだ。

(おひいさんは外出中……いや、そもそもあの人は湯の入れ方とか分かんねぇだろうな)

 吐いた息は、随分と冷たい気がした。朝はあれ程暖かく感じた春の陽気なんて一片も残さず退去してしまい、あるのは湿気とアスファルトから上がる冷気のみ。
 通り雨である可能性は高いが、いつ止むかも分からないまま待ちぼうけるのは流石に馬鹿馬鹿しい。何処かに暇を潰せる場所はないかと、辺りを見渡したら、喫茶店らしい建物を見つけた。看板も、OPENというボードも掛かってはいない。ひょっとしたらただの住宅なのかもしれないが、その時はその時で謝ればいいか、と。自分にしてはなんとも楽観的な考えが浮上した。

 この雨を凌げる場所なら、最早何処でも構わない、と。
 アスファルトを水とともに蹴り上げながら、その建物の前へと移動する。曇りガラスの窓には、暖色の光が滲み出ていた。

「あの〜、すいません」

 少し押しただけで、扉はあっさりと開いた。
その隙間から見えた光景は、キャンバスなどの機材が雑多に並んでおり、喫茶店ではなく、アトリエである事が判明する。

 その中心で、木製の椅子に腰を掛けた女性が、驚いたようにこちらへと視線を送っていて、外の雨よりも鋭く、冷たい空気に当てられたような気がしたのだ。

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