恋一色



幼心は秋の空模様よりも変わりやすい
だからこれも、一時的なものであるはずだ







 ――驚いた。
 少女が落としたスケッチブックを拾っただけで、真逆泣かれるとは思っていなかったから。

 最近ではめっきり減ってしまった朱色のランドセルを背負った少女は、その大きな目を涙で濡らしていた。
 涙袋では抑えきれず、黄金色の瞳から溢れた雫は、まるで蜂蜜のようだと思ったが、哀愁に塗れた表情を見るに涙の意味はそんな甘い物とはかけ離れているようだ。

「……ねぇ、これ、貴女のだよね?」

 状況に困惑しながらも、紛れもなく彼女の落し物であるスケッチブックを差し出した。……それの何処がいけなかったのだろうか。少女はそれに目を落とすと、一等瞳を潤ませた。
 スケッチブックの表紙はクレヨンやら絵の具やらの染みで汚れていて、相当使い古された代物なのだと一目で分かった。少女とはなんの接点のない自分がそう感じるくらいだ。きっと、少女にとってもそれが大切なものである、筈なのに。

「違います」

 怒気を孕ませたような低い声が、幼い少女の口から発せられる。まるでそのスケッチブックが親の仇であるかのように、鋭い目で射抜いて。ポカン、と呆気に取られる私を置いて、絨毯のように地面を覆う桜の残骸を踏み躙りながら赤いランドセルが遠退いていく。

 ひらひらと舞う桜が、もう見えなくなった少女の涙を代弁してくれるように地へと降り注いでいた。




「それで、持って帰ってきちゃったんだね」
「……うん」

 スケッチブックを手に取り、日和くんは少しだけ困ったように眉を下げた後、「凪砂くんらしい」と態とらしい程に笑った。

「でも、他人に関心がない凪砂くんがお節介を焼くなんて珍しいね」
「……お節介なのかな」
「話を聞いた限りでは、きっとこのスケッチブックは落としたのではなくて、捨てたんだと思うからね」
「……こんなに大事にしていた物を?」
「う〜ん、ひょっとして、凪砂くん中身見てないね?」

 当たり前のようにスケッチブックを開く日和くん。勝手に中身を見るのは失礼だと思う。そう言えば、「捨てたんだから、もう彼女のものじゃないね」と返されてしまう。それなら拾った私が所有者になるんじゃないかな。…まぁ、どちらでもいいか。
 日和くんは、スケッチブックの1頁目を、見せつけるようにテーブルに開いた。

 それは、まるでアルバムのようだった。

 少女にとって、このスケッチブックこそがカメラなのだろう。思い出そのものが、絵という形で納められている。
 絵自体は子供らしい夢溢れるもので、一概に巧いと云えなければ下手だとも云えない、そんな愛嬌のあるものだった。
 よく見れば、表紙の裏側にはしっかりと少女の名前と思われる“みょうじなまえ”という字が描かれていた。走り書きのように描かれたそれは、絵の方へと気持ちが急かされている事を感じさせて、微笑ましい気持ちになる。なんとなく後ろめたい気分で頁を捲っていたがいつしかその意識は消え、勝手に手が動いていた。

 白い背景の方が少ないほど書き込まれた絵は、後半に連れて完全に白が隠れる程の出来になっていった。絵の方も、最初と比べると段違いに上達していて、それでも相変わらず楽し気な画風は変わらないのだから不思議なものだ。

「凪砂くん、次のページ捲ってみて」
「?うん」

 言われなくてもそうするつもりだったけど、首を傾げながら頁を捲った。

 ……眦が僅かに動いた。黒のクレヨンに拙く塗り潰され、その上から更にカッターナイフのような鋭利なもので蹂躙された画用紙の下には、どんな絵が描かれていたのだろう。
 悪意が見て取れるその幼心の悪行に、あの子が流した涙の訳が分かった気がして、重い息を吐いた。

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