ふたりぼっちのリズム



 湯船に浸かると、溜まった疲れが身体から出て行くような錯覚がする。この安アパートのお風呂には追い焚きの機能はなく、湯船は既にぬるま湯となっていたが、それでも久しぶりの湯船には、いま抱えている悩みや不安を溶かすような、そんな効果があった。
 貯金を切り崩して成り立っているこの生活に節約は基本で、暖かい春はいつも湯は入れずにシャワーだけで済ませていた。だから今は、すごく贅沢をしている気分だ。
 たっぷり湯を堪能したあと、名残惜しさを感じながらも私は湯船を出た。体を拭き、安っぽいパジャマを纏うとそのまま風呂場の扉を開けた。

「あ、おかえり〜!」

 お風呂上がりの私を、スバルくんは当たり前のように出迎える。もう我が家のように溶け込んでいる彼の姿に、湯船に置いてきたつもりでいた悩みが、また戻ってきたような気がした。

「……先に寝ててもよかったのに」
「え〜?そんなことしたらなまえは床で寝ちゃうかもしれないじゃん!」

 まさしくそのつもりだったので、思わず黙り込んでしまう。それに、やっぱり、と言いたげに口を尖らせたスバルくんは、先に自分が布団へと潜り込むと、ぽんぽんとシーツを手で叩いた。

「ほら、おいでおいで!一緒に寝よう!」

 人懐こい笑顔が向けられる。こうなったら、私がそれに応じない限り寝ないのだろう。スバルくんは案外賢く、意外と計算している可能性がある。だって、このように自分自身を人質に取るような真似をされたことは今回が初めてではなかったから。
 床で寝ることは諦め、私は素直に空けられた空間へと入り込んだ。一人用の布団は狭くて、暖かった。
 かちり、と電気を消す。暗闇の中で、お星さまよりも明るい双眸が浮かんでいた。あんまり見過ぎてもいけないと思い、私はその瞳から逃れるように目を瞑った。

「ねぇ、なまえ」

 なんとなく頭が冴えて、眠れない。そんな誰にでもある夜の中で、スバルくんはふと声を上げる。

「俺ね、なまえに会ったら話したいことがたくさんあったんだけど、いざ会っちゃうと、うまく言えなくてさ」

 スバルくんの話に、私は目を瞑ったまま耳を傾けた。昔聞いたものよりも少し低くて、静かな声。彼と再会してから、私は彼のらしくない一面ばかりを見ている気がする。

「だから、いま聞くね」

 
「なんでなまえは、仕事やめちゃったの?」

 その言葉に、頭が真っ白になった。まさか、そんなことを言われるとは思ってもなかったのだ。

「俺たちのこと、きらいになっちゃった?」

 寄るべないその声は、すぐに夜へと溶けて消えてしまった。
 何も言えない私は、ただ首を振った。まだ目は開けられない。そんな卑怯な私を、彼は何も言わず、慰めるように頭を撫でた。
 彼の愛はいつも無償だった。見返りなどは決して求めない真っ直ぐで輝かしいそれに、私は、いつも何かを返したくて仕方がなかった。そうでもしないと、夜空を過ぎ去っていく流れ星のように、瞬く間に消えてしまいそうな、そんな輪郭の無さが彼にはあった。

 暖かいはずの布団の中で、手足が急速に冷えていくような心地がした。目を瞑ってもわかるスバルくんの温度。それがなんだか、さむくて、さみしい。

「……ねよっか、なまえ」

 それを言ったっきり、彼は別人のように黙り込んでしまった。決してだれかを責めない優しさが、ささやかですきだったのに、今は利用しているようで胸が痛い。

 お互い「おやすみ」とも言えないまま、一日目の夜が始まる。
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