ソイツを初めて見た時の印象は鈍臭い奴≠セった。
 石神千空の目から見た彼女は、ひどく不器用でクソ真面目で、トロそうな新米教師だった。生徒に混じったところで遜色ない青さがある彼女は赴任初日から慌ただしく校内を駆け回っていて、それを見た多くの生徒達はクスクスと声を押し殺して笑っていたものだ。チョロそうな奴が来た、と。
 幸いなことに特段不良少年、少女のいない模範高ではあったため絵に描いたようなイジメはなかったものの、生徒達からの彼女の評価は他の教師より一段から二段は低かった。
 彼女はいつも笑っていた。生徒に揶揄われても、他の教諭に見下されても、モラハラ紛いの発言、飲み会の強要というパワハラにも、彼女は常に笑顔を浮かべていた。性質は様々であれ、彼女は疲れを表に出すこともなく常に、笑顔を保ち続けた。
 まるで、その笑顔は自分自身を守る殻のようで。
 阿保くさ、と、千空は純粋にそう思った。大人の事情なんてものは掃いて捨てるほどあることを理解しつつ、しかしそれを加味しても彼女の言動はすべて取るに足らない自己保身に過ぎないと心の中で一蹴していた。嫌なら断ればいい、態度が悪い生徒は叱ればいい、むしろそうするのが大人としての役割だろうと。それを放棄するのは、教員としての自覚が足りていないのではと感じるくらいだった。


「──笑えば良いと思ってんのか?」

 故に、ある日千空は尖ったナイフを彼女の胸に穿った。
 その日、部活指導の研修で科学部を視察に来た彼女は部員達に囲まれていた。十五、六、七の子ども(ガキ)が考える質問など建設的とは程遠い内容で、《スリーサイズ》《彼氏がいるか》《休日の過ごし方》など、とかくどうでもよく、加えてひどく不躾な内容も少なくなかった。
 圧倒的な軽視の眼が連なり、奇異の視線をただ笑って受け止める彼女に、千空は実験の手を止めるほど、苛立ったのだ。笑えば良いと思ってるのか、と。
 千空の問いかけは部屋の温度を一気に下げた。普段、怒りを露わにすることのない千空が醸し出した空気は全員の口を閉じるには充分で。
 シン、とした空気に千空自身すら戸惑いを覚えた。が、特にこれといったアフターケアをするほど、彼は人の心の機微に頓着しなかった。
 しかし、苛立ちを胸に押し殺したまま、自分の実験を各々が再開し始めて数十分後、千空は自身の認識を改めることになる。
 普段の千空なら部員の実験の様子も視界の端で観察していた。しかし担当教諭もいて、且つまがりなりにも科学を部活で専攻する学徒であるから、逐一彼らの実験手順を一から十までみっちり見ているわけではない。しかもその日は、千空自身の苛立ちも相まって、部の空気はひどく澱んでいた。
 つまりは、誰もが注意散漫になっていた。
 窓際のテーブルで実験をしていたのは、入部したての一年生だった。理科は得意ではないが友人の誘いで科学部に入ったと言っていた、いずれ幽霊部員になりそうな部類の生徒。普段なら何かしでかさないかを目端で捉えていたが、その日は千空の注意も逸れていたため、気付いたのは彼の手にフラスコ≠ェ握られているのを見た時だった。

(…待て)

 水素の発生音の実験。小学生でも行う簡易的なものだ。塩酸にアルミニウムを混ぜると溶け合い、水素が発生する。そこにマッチで火を点けて近づけるだけの実験。
 しかし、それは必ず試験管で行わなければいけない。何故なら──

「っ、それから手を離せ!」

 フラスコで実験をすれば、爆発する危険性が高いからだ。
 気づいた時には遅かった。きょとんとした生徒の顔、ギョッとして固まっている担当教諭の顔、全てがスローモーションに見えた。次に起きる惨状に、しかし誰もが身構える余裕すらなく、起きる未来を待つしかなかった。

 ──間に合わない。

 しかし、その未来は訪れなかった。訪れるはずの惨状な、生徒の側に唯一いた、彼女によってへし折られた。
 フラスコが暴発し、周囲に破片を離散させる直前、いくら体が反応したところで顔を背けるのすら困難な状況で、彼女だけは速かった。
 彼女は、そのままであれば顔中に破片が食い込んだであろう生徒の腕を後ろから引き、片足を出して足を引っ掛け、後方へと仰向けに倒れ込ませた。滑らかな動作で自ら生徒の前に立つと、頭をしっかりと抱える。千空が叫び、フラスコが爆発するまでのコンマうん秒の間に、彼女は生徒の身に傷をつけないための動作を流れるようにやってのけた。
 彼女が生徒を抱えた刹那、フラスコは爆発離散し、彼女の背中に破片が飛び散った。破裂音が鼓膜を激しく揺らし、女生徒が悲鳴を上げる。担当教諭は唖然と口を開けていた。
 幸い、フラスコ程度のガラスは彼女の服を突き抜けるには至らなかったが、代わりに顔を上げた彼女の頬には赤が一閃。破片の一部が皮膚を裂いたのだろう。しかし、彼女は意に介する様子もなく、黙然としていた。
 その場にいた誰もが目を瞠った。彼女の挙動にも感情の色が一切消えた瞳にも、何もかもが普段の彼女からかけ離れていたからだ。
「平気?」至極、冷静な声音でに語りかけた彼女に、生徒が首をぶんぶんと縦に振る。生徒の頭のてっぺんから爪先までつぶさに視線を走らせた彼女は、怜悧な瞳で生徒を見据えた。

「うん、大丈夫ならいいけど、ちゃんと試験官を使うように指導はあったよね?」

 風が止んだ湖面のように、一切の波風が消えた表情。いつだって笑みを貼り付ける彼女から表情が消え、能面を被ったような面持ちになっていた。
 彼女は、この時初めて、怒ったのだ。

「次からは気を付けなさい」

 一オクターブ低い声音に生徒が背筋を正す。「すみません」と叱られた小学生のように縮こまる生徒の頭を撫で、彼女は「分かればよろしい」と苦笑した。平謝りする生徒に、自分も反応が遅れたから、と逆に謝る姿はいつもの彼女で。
 状況を呑み下した担当教諭が慌てて彼らに駆け寄り怪我の度合いを確認する様を遠巻きに眺めながら、千空は彼女を見据えた。

(…マジかよ)

 自分が叫ぶ直前に、彼女は動いていた=B
 フラスコで実験をしたら何故危険なのかは理科の教諭なら既知だが、現代文の教諭がそんなことを覚えているとは到底思えない。大方、事前の千空の説明を聞いていたのだろうが、それでも生徒全員分の注意事項を把握し、且つそれを踏まえて観察するということができる性状の教師でもないと思っていた。
 しかし、事実彼女は動くことができた。彼女だけが状況に気づき、千空が叫ぶ前に生徒を庇う動作ができた。驚異的な対応力に他の生徒も目を瞠ったことだろう、自分然り。


「──あれ? お見舞いに来てくれたの?」

 薬品の匂いが充満している保健室に足を運べば、彼女は丁度養護教諭に頬に消毒と絆創膏を貼られている最中だった。「嫁入り前の子が何やってんだい」と、彼女の親ほどの年齢の教諭にパチンと頬を叩かれた彼女は「入る予定ないですよ」と、へらりと笑う。
 所要のため席を外した教諭見送り、千空は彼女の横に足を運んだ。「傷は?」ぶっきらぼうに尋ねた彼に、彼女は苦笑する。「平気だよ。すぐ治るから、こんくらい」ペシペシと傷口を叩いた彼女は、千空をマジマジと見ると、ふ、と笑みを溢した。

「大丈夫だから、ね?」

 いつも生徒に向ける、穏やかな顔。感情を排した先程の瞳とは打って変わって柔らかな視線。コロコロと変わる面相に、千空はぽつりと漏らす。

「…アンタ、相当変わってるな」
「えぇ…いきなりどうしたの」
「自信なさげにヘラヘラしてる割に妙なところで度胸あるわ、なんだよ二重人格か」
「びっくりするくらい失礼だね? 君」

 頬をひくつかせる彼女は片眉をあげたが、すぐにその表層を穏やかなものへと変える。

「自信ないとかあるとかに関わらず、生徒が危なかったら助けるのは先生の役目だからね」

 眉尻を下げる彼女に、しかし千空は渋面を崩さない。「テメエが怪我してたら世話ねぇだろ。あと、監督不行き届き、てなら俺の責任もある」と憎まれ口を叩く不良生徒に、彼女はぱちりと目を見開いた。
 と思えば、今度は吹き出し、くすくすと笑い出す。尚、顔を顰める千空に「や、ごめん。監督不行き届き、て…」と、ひとしきり小さな笑いを溢した彼女は、彼に一言謝り向き直った。

「あのね、石神君」

 幼児に諭すような口調で、彼女は言った。

「大人は、子どもを守るものなんだよ」

 普段はへらりと笑い、生徒の質問攻めをのらりくらりと交わす彼女は、はっきりとした口調で、千空に告げた。
 それは、彼にとって運命的とも言える出来事となった。


(…変わらねぇな、三千七百年経っても)

 苦く、しかし自分が彼女の評価を変えた出来事を、村への帰路で千空は思い起こした。
 教育者として大人を復活させる。現代人の知識を少しでもストーンワールドの住人に伝授する。そんな、とってつけた理由で数少ない復活液を千空は彼女に使用した。もっと使う相手はいたろうと詰め寄られれば首を縦に振らざるを得ない。
 しかし、千空にとって彼女は、信頼に足る大人だった。
 何が起きても、何があっても、彼女は子どもを守る立場を崩しはしない。他者から軽んじられ、自分自身を信用していなくても、それでも自分の立場と相手の立ち位置を理解し、行動する冷静さが彼女にはあった。咄嗟の判断力という点では、ともすれば自分を上回るかもしれない。
 自分自身のやるべきことを判断できる人材は貴重だ。生きてきた中で指で数えるほどしか大人と深く接してこなかった千空にとって、彼女は数少ない、信頼できる大人だった。

「…誰か言ってやるか、バーカ」

 けれど、それを伝える気など毛頭ない。
 せいぜい悶々と考えれば良いと、科学少年は底意地の悪く口角を上げた。



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