ゼロスタートのストーンワールドで車を開発し、気球を作り出し、通信機器まで備えた。工業製品だけでなく、穀物畑を、鉱山を開発し、百人超の人々を養う算段をつけた。そんなことをやってのけたのが、齢二十にも満たない青年と後の世の人々が知れば、間違いなくそれは偉人として後世まで語り継がれることになるだろう。稀代の科学者、奇跡の申し子、科学の寵児、賞賛は止むことなく、彼の偉業はそれだけでは足りないくらいだ。
石神千空は、ストーンワールドの、まごうことなき神だった。
「さしずめ、東のエデンなのかな、此処は」
石油ランプを木製のデスクの横に起き、ぽつりと千歳は呟いた。手にした赤鉛筆で子ども達のテストを採点していく。紙も鉛筆もストーンワールドで手に入れることができている事実を、彼女は未だに実感できないでいた。石器時代からの時代の進み具合が一足飛び過ぎて、現実感が薄れてしまう。
まるで、本当に神のようではないか。違うのは、現実に即した科学力で全てを成し得ていることくらいで。
人力(マンパワー)は必要なものの、彼は持ち前の知識を駆使して前に進もうとしている。常に未来を見据える千空に、彼女は一抹の不安を覚えていた。
石化の謎を解き、全人類を復活させる。科学に真摯だからこそ、科学が培ってきた文明を再興させる彼の意志は理解できた。
しかし、誰もがそれを、望んでいるわけではない。
「──まだ、起きてるのかい?」
戸口が開き、背中に届いた声に彼女は振り返ると眉尻を下げる。「眠れなくて」と、机の上の紙を指し示せば、「手伝うよ」と、彼─西園寺羽京は紙束と赤鉛筆を手に取ると手近な椅子に座った。
見回り担当でもないのに申し訳ない。滑らかな動きで手伝いを始めた彼に、千歳は制止の声をかけた。
「いいよ。船造りで疲れてるんだから、早く休んで?」
「そこまで疲れてはないよ。力仕事より測量とかの方がメインだったし」
「けど…」
「僕も眠れなくて夜風に当たってたから、ついでに手伝わせてよ」
ね?、と目を細められればそれ以上断るのは無粋というもので。小さく息を吐いた彼女は「なら、お願いするね」と淡く微笑んだ。
紙に鉛筆を走らす音が室内に響く。夜半に出歩く人間などおらず、皆が寝静まった村内は静けさに包まれていた。
物静かな中での沈黙。黙々と己の作業を進めつつ、しかし彼女の思考はぐるぐると迷走していた。
「…船が完成したら、石化の謎を解きに外洋に出るんだよね」
ふと、彼女が小さく羽京に問いかける。意図が読みにくい問いかけに、彼は手を止めることなく応えた。
「そうだね。地球の裏側なんて、本当に夢みたいな話だけど」
「…うん。そうだね。うん、…うん」
カリ、と彼女のペンが止まる。コツコツと同じところを突きながら、視線は、ぼう、とどこか虚空を見つめていて、心ここに在らずと体現するかのような様相だった。
「どうかした?」
「………え?」
羽京の問いかけに、彼女はたっぷり三秒は置いて顔を上げた。互いに手を止め、視線を交錯させる。
「え、なに?」
「どうかしたのかな、て」
「どうか、て…」
「何か思うことがあるんじゃない?」
やんわりとした声音。それでも、相手を探るトーンだ。西園寺羽京は人の心の機微を捉えることに長けている。
洞察力が高すぎる、と以前クロムがぼやいていた姿を思い起こして千歳は苦笑した。
「…西園寺君って鋭いというか、恐いよねぇ」
困ったように眉尻を下げる彼女に羽京は更に踏み込む。
「ちなみに千空のこと?」
「っ、」
「あたりかな」
「…ほんと、嫌になるなぁ」
邪気のない笑みを浮かべる癖に容赦がない。のらりくらりとかわそうとしたところで、やんわりと詰問されるのは目に見えていた。
白旗を挙げた千歳はペンを置き、石油灯の淡い焔を見つめながら呟いた。
「あの子を見ていると不安になるの」
「…不安?」
「…優しすぎるな、て」
斜に構えた態度にニヒルな笑み、偽悪的に振る舞う姿は凡そ優しさとはかけ離れているが、彼の本質は他者への平等だ。それは、誰よりも人を信じ、想う姿勢だった。
「科学を前に真摯だから、すべての人類を救うことに揺らぎがない。…それが、不安なの」
一本筋の通った主張を通すのは、法治国家の中で安全が保障されているから為せることだ。
「善人悪人なんて主観が入る選択をせず、等しく命ならば救う、ていうのはこの世界では過酷だよ。殺すより生かす方が難しい。けど、」
「彼は、そこを曲げないだろうね」
彼女の言葉の先を羽京が拾う。意味深に紡がれた言葉には重みがあった。
科学は他人を支配するためでも力を誇示するためにもあるわけではない。ただ、世界の原理として在るだけでそこに善悪も何もない。だから、それを行使する対象を選別する意味がない。
理屈は分かる。それでも、納得して送り出すことができるかは別だ。
「いつかあの子の前には壁が立ちはだかる。科学の外側から来た、人の悪意が。人が増えるほど思惑も増えて、うねりになった総意が悪意や憎悪に変わった時に争いが起こるから」
「…確かに。現実問題、ホワイマンと戦おうとしている以上、衝突は起こり得るだろうね」
「うん…だから、恐いの。いつか、あの子が傷ついて、最悪、死んじゃうんじゃないか、て」
楽園はいつまでも続くわけじゃない。指先一つで他人を蹂躙する力、他国を撹乱する技術、凡ゆる争いの種が旧世界にはあり、それに多くの人間が翻弄されてきた。憎悪、嫌悪、嫉妬、憤怒、負の感情は人の数だけ湧出する。
誰もが、楽園を目指すわけじゃない。
「正しさが最善とは限らないから、あの子の進む道を信じたいけど、やっぱり…いろいろ、ね」
不安を吐き出すように言葉が紡がれる。言葉にすることで今後の方針が変わるわけではない。それを理解しつつも、子ども≠フ前では覆い隠した心情が今は吐露された。
しばしの沈黙が流れる。押し黙ってしまった彼女に応えるように、羽京は紡いだ。
「彼の科学に対する真摯な姿勢も、人を死なせない理想も咎められることではないけど…うん、そうだね…」
思案するように瞑目した彼は緩慢に瞼を上げると、薄らと目を細め、手にした鉛筆を置く。ひとつ息を吐き、諦念にも似た苦情を浮かべた。
「彼を見ていると、期待と不安が綯い交ぜになる。全人類を救うことができると一ミリも疑っていない彼だからこそ、他の皆がついて行くけど、これでいいのか、て」
「…西園寺君も思ってたの?」
「これでも、一応社会に出てた大人だからね。千歳さんが感じていることと似たようなことは思ったことがあるよ」
西園寺羽京は海上自衛隊で潜水艦のソナーマンをしていた。災害派遣の経験もあるなど、大人、としてのステップをある程度は踏んできた部類だ。
「本当は僕を含めた年長者がもっとしっかりしてないといけなかったのに、結局、自分より年若い子達に全てを押し付けた。力も知識もカリスマ性も、僕には足りないものだった」
霊長類最強の男、獅子王司に呼び起こされた彼は司帝国が築いた牙城で幹部として一目置かれていた。しかし、司ほどのカリスマ性がない彼にできたことは諍いを止める程度で、結果、司の石像破壊を食い止めることはできなかった。
大人、としての自覚があればあるほど、自身より幼い子達が地に足をつけながら足掻き、そして深く傷つくのを見るのは歯痒かったろう。
「不甲斐ないと思うことはたくさんあるよ」と、吐露した彼に彼女は言下に首を振る。
「西園寺君がそれなら、私なんてどうなるの」
陰鬱な面持ちになった羽京に彼女はへらりと眉尻を下げた。
「大人は子どもを守るもの、なんて昔は言ってたのに、この体たらくだから笑えないよ。全然…なにもできない大人だ」
法治国家が崩壊すれば、守るどころか頼ることしかできない。知識も行動力も理念もある彼とは比べるのも烏滸がましい、歳を食っただけの大人だった。
或いは、自分も同じくらいの歳なら、彼の理念に賛同し、何も迷うことなくついていけたのだろうか。
詮ない思考に浸った彼女を、しかし羽京は否定した。
「千空は、千歳さんのことを何もできない大人とは思ってないと思うよ」
子ども達の答案用紙に視線を落とし、口元を緩める。
「千歳さんは、教えるのが上手いのは勿論なんだけど、それって状況に合わせた言葉とか、教える項目が的確なんだと思う。状況判断力が高いのはかなり武器になるから、千空はそれも見込んで君を復活させたんじゃないかな」
「…そうだと、いいんだけどね」
羽京の推察に彼女が力無く笑む。自信のなさが現れた相貌を一瞥した彼は、答案用紙の束の角を揃えながら紡いだ。
「いろいろ思うところは僕にもあったけどさ、前を向いて歩き続けることを止めたら、きっと何も変わらない。救えない。だから、皆が自分が今できることを最大限しようとするのなら、僕らに止める術も権利もないんだよ」
タン、と束になった用紙を持ち、千歳の机の上に置いた彼が、首を僅かに傾けて微笑んだ。
「不安に思う気持ちは分からなくないけど、もう少し、彼を信じてあげてもいいんじゃないかな」
「…信じる?」
「彼の選択を。彼の、人類を救おうとする選択も──」
──君を選んだ選択もね。
羽京にかけられた言葉に千歳は、ハッ、と目を見開いた。
「私を…選んだ…」
嗚呼、そうだ。何をうだうだと自分は悩んでいるのか。
その言葉はスッと彼女の心に染み渡り、狭窄的になっていた思考を解した。解された思考により、俯瞰的に己を分析できた。
自分はきっと不安だったのだ。ただそれだけだった。千空の行く末ではなく、自分で良かったのか、と。自分は本当に大人として振る舞えているか、と。ただ、自分本位な不安に怯えていただけだった。
なんて、大人気なかったのだろう。
自分がこうして後ろ向きになっている最中も、彼は常に前を見続けて、歩みを進めている。壮大な理想ではなく、目に見える現実≠セけを見て一歩、一歩前に進んでいる。
進む過程で、自分を復活させるという選択を彼はしたのだ。悩み、傷つきながらもその選択を、彼はしてきた。
それを信じなくて、何が大人だ。
「…ありがとう、西園寺君」
憑き物が落ちたように口元を緩ませた彼女は、「ちょっとスッキリした」と、はにかむと、石油灯の淡い光を見つめる。
夜間作業をしたいと溢した自分に、さっさと寝ろ、とぼやきながらも次の日にはきちんと用意されたランプだ。
ぶっきらぼうで、けれど一等心根の優しい科学少年の相貌を脳裏に思い浮かべる。
「私は、私ができることをするしかないもんね」
ならば、自分が必要とされる時に役に立てば良い。誰よりも人を、科学を信じる、純粋な瞳を持つ彼を自分自身も信じて、そしてその盾となることができるようになろうに。自分の世界を信じる彼を信じ抜いて、その背を後押ししよう。
だって自分は、オトナ、なのだから。
小さな決意を固めた彼女に、「お役に立てたなら何よりだよ」と、羽京は柔らかく微笑むと、じっ、と石油灯を僅かに見つめる。ぱちりと彼女が瞬きする間に、パッ、と、取手を手に持つと、彼女の採点用紙を裏返して、戸口へと進んだ。
「そろそろ寝ようか。深夜作業は明日に響くから」
ヒラヒラと、石油灯を振り促す彼に、彼女は呆気にとられたが、直ぐに困ったように笑った。
「そうだね。なんか肩の力抜けたら眠くなっちゃったし」
残りの採点用紙を片付けて、二人揃って小屋を出る。顔を上げれば、雲ひとつない空に眩いばかりの小さな光が無数に散らばっていた。人工光に汚染された街中では見ることのできない自然の美しさに気づいたのはこの世界で目覚めてからで、未だに慣れないその輝きに見入る。
煌々と一等美しく力強い光を放つ月を見上げ、彼女は彼との会話を思い起こした。月明かりに照らされ、ニヒルに笑った彼。
《教えてやんねーよ》
「……そういえばさ」
ふと、羽京の声が耳朶を打ち、物思いに耽っていた意識を慌てて浮上させた。「ん?」と視線を下ろして彼を見遣れば、にこりと邪気のない笑み。
「名前」
「…名前?」
「この世界の人達は苗字がないから、苗字呼びはちょっと分かりづらいと思うんだよね」
彼の言葉に、言われてみれば、と彼女は頷く。
新人類の人々に苗字はない。全員がファーストネームで呼び合うため、千空ら旧人類のことも、彼らは名前で呼ぶ。しかし、旧世界でも基本的に苗字で相手を呼んでいた彼女は名前呼びになれておらず、自然と呼んでしまうのは相手の苗字になっていた。
「だから、名前で呼んでくれないかな?」
彼にしては突飛なお願いに、彼女の目が瞬く。ぱちりぱちりと瞼を開けて閉じて。
若干の抵抗感に眉尻を下げたが、羽京の無言の視線に根負けし、思案するように、うん、と唸ると、おそるおそる紡いだ。
「えと……羽京…君?」
慣れない呼び方に首を捻り、眉根を寄せた彼女に羽京は笑みを崩さずにもう一押しした。
「呼び捨てでいいよ」
「え…あ…、えっと…」
「ほら」
「えぇ…」
物腰柔らかというのに圧が強い。
相変わらず人の良い笑みを浮かべる羽京から僅かに視線を外した後、そろりそろりと彼を見る。
「………羽京?」
この答案で正解か?、と言いたげな視線を寄越した彼女に、羽京は僅かに目を細めた。
「…うん、それでいい」
「…それでいいって…」
当惑する彼女を他所に、羽京はくるりと背を向けて歩き出す。佇立する彼女がその背を見つめていると、三、四歩ほど歩いた後、ぴたりと両脚を揃えて立ち止まった。
くるりと、首を回して、彼が視界の端に彼女を収める。
「おやすみ──千歳」
耳朶を打った少々弾んだ声音に目を丸くする彼女を置いて、彼は再び前を向くと、さっさとその場を離れた。
ぽかんと、呆気にとられた彼女はそのまま彼の背を見送る。が、数秒遅れて気恥ずかしさがどっと押し寄せ、うずくまり、ぎゅっ、と己を抱きしめた。
阿保か、自分は。純情な女子高生でもないだろう。
長く、長く息を吐いて、吸って。上手く呼吸ができない体を叱咤する。
そうして、恨めしげに去りゆく背に向かって吐き捨てた。
「おやすみ」
──羽京。