窓ひとつない閉鎖空間を照らすのは人工灯だけだ。方位感覚が目視では分からない中、頼りになるのはレーダーと自身の耳。ディスプレイに表示される情報のみが自分達の生死を握る羅針盤だった。外部からの攻撃を受ければ一蓮托生で、全員が海の藻屑となる。
川の流れ、海洋生物の鳴き声、融雪、氷の軋む音、音の乱反射の中から潜航に必要な情報を拾っていく。音が予想以上に鼓膜を揺らすため、一度瞑目して意識を研ぎ澄ませる。
潜水艦の耳として、ただ黙して彼は音に集中した。
「──なに呑気に寝てんだ、羽京」
不遜な態度が滲んだ声に意識が浮上する。眩い陽光が視界を覆う前に、耳はつぶさに環境音を拾った。葉が擦れる、獣が駆ける、虫がさざめく、自然の音が鼓膜を潤す。
「…おはよう、千空」
「おはようじゃねぇよ。こんな場所でなに寝こけてんだ」
こんな場所、という単語に不審感を覚えて起き上がる。視界も徐々に良好になり、くるりと首を回せば石神村から外れた森の中のようだった。
どうして自分はここで寝ていたのだろうか。測量作業で来ていたのか。なら、何故意識を飛ばした?一緒に来ていたはずのクロムはどこにいる?
「ボサっとしてんな。村に帰るぞ」
当惑する羽京を他所に千空は彼に背を向けて歩き出す。違和感を覚えつつ、置いていかれるのは避けたいとふらつく体を叱咤して立ち上がり、羽京はその背を追いかけた。
いつも通りの日常、見慣れた景色、聴き慣れた音。しかし、それに妙に胸がざわつく。形容し難い違和感は刻々と増していって、前方を歩く彼に羽京は声をかけた。
「千空、待ってくれ。何か変だ」
「ア? んだよ、変って」
「分からない。けど、なんか変なんだ」
木々のざわめき、川のせせらぎ、鳥獣の鳴き声、全ていつもと変わらないはずというのに、胸のつっかえが取れない。言い知れぬ不快感に名をつけることができず、子どものような言葉を口走る羽京に「なにか、てなんだよ非合理的すぎんだろ」と、千空は鼻で嗤った。
そうだ。非合理的だ。羽京とてそれは理解できていた。言葉にできない違和感など状況判断において不必要で、しかし羽京の体全体が訴えている。強烈な違和感を。
警戒信号を置き去りにして森を抜ける。見慣れた道の先に石神村が見えた。多種多様な科学グッズ、器材が並び、人々が忙しなく働いている。いつも通りの光景がそこにあった。「あ! 千空ー!」「羽京ー! おかえりー!」「ご飯の時間だよー!」自分達を迎え入れる声に違和感が頭の片隅へ追いやられる。村の住民達の出迎えに、羽京はほっと胸を撫で下ろした。
嗚呼、取り越し苦労だったか。最近、やたら夢見が悪いから、だから──
「…っ」
しかし、刹那、彼の耳朶を"あり得ない"音が打った。
「なんで…」
千空の背を追う足が止まる。距離が開いていく。
「あり、得ない」
これは、この音は、地上で聞こえるはずのない音だ。訓練でしか聞いたことのない音。それは、高度な誘導システムによって対象を屠る、精密ミサイル。
それは、その音は、旧世界の艦には海上、海中問わずに配備された巡航ミサイル──トマホークの追尾音。
「駄目だ! 千空!」
出迎えに来た子ども達に囲まれ、気怠げな表情を浮かべていた彼が、羽京の叫びに視線を動かした。
瞬間、眩いばかりの閃光が村を覆った。
思わず目を瞑り、身を屈めた羽京は両手で頭を覆う。鼓膜がやられたのか、耳には何も届かない。葉の擦れる音、鳥獣の鳴き声、子ども達の笑い声、生活音が全てかき消えた。まるで、あの深海の潜航のように。
おそるおそる、目を開ける。半開きの瞳に映った光景に、羽京は立ち尽くした。
「……うそだ」
網膜に投影されたのは、赤赤赤赤赤。おびただしい数の死体と血。抉り取られた地面。塵芥となった家屋が赤く炎柱を立ち上らせている。散乱したヒトは動く気配がなく、かろうじて動く体達も虫の息だった。
なんだ、これは。なんで、こんな。
惨劇は目の前に広がっている。というのに、羽京の耳には何も聞こえない。なんの音も彼の耳には届かない。炎が弾ける音も、呻き声も、何もかもが聞こえない。
「千空、クロム、カセキ…、みんな、何処なんだ」
ヨタヨタと地獄絵図と化した村の中を歩く。見知った顔が幾つも転がっていて、嘔吐感を抑えて歩き続けた。
さっきまで笑っていた顔が、何個も何個も何個も──
「なんなんだ、これは…っ」
体の底から溢れ出た絶望感に膝をつく。自責の念すら生ぬるいほどの無力感に押し潰されそうになった。
どうして、どうして、とうわ言のように呟く彼の耳に、ようやく、ひとつ声が届く。
「羽京」
凛と、涼やかな声。耳に心地良いその声に、羽京は重たい面を上げた。
視界に、入った彼女に、息が止まる。
「あ、ぁ…」
転がった幾人もの仲間達の中に彼女はいなかったと理解した瞬間、薄情なことに安堵した自分がいた。愚かで、浅ましく、それでいてひどく人間的な感情だった。
手を彼女に伸ばす。揺れる指先を彼女に向ければ、彼女もまた伸ばし返した。
そうして、名前を呼ぶ。
「千歳」
舌に乗せて、その名を紡いだ。焔に囲まれて、その身を茜色に染める彼女が、口を動かす。
「うきょ─」
う、と形作られた唇は、しかし最後まで音を発することはなかった。
頭上から絶望の矢が降り注ぐ。村を焼き尽くした絶望が再度、羽京の目の前に顕現した。破裂、爆発、虫の息の全てのものを破壊し尽くす、破壊兵器。
その一つが、彼女を喰い殺した。
音は、聞こえない。何の音も、耳に届かない。ただ、再び炎に呑まれる村を羽京は呆然と見つめるしかなかった。あまりの絶望に、叫ぶことすらできなかった。
目の前の光景は鮮烈に網膜に焼き付けられるというのに。
彼の耳は、まるで深海の中のように、寂寞だけを感じ取った。
「──っ、は! あ、ぁ…!」
布団の上で、羽京は意識を取り戻した。カッ、と目を開き、上体を勢いよく起こす。全身の汗腺から汗が吹き出して寝巻きを濡らしていた。服が体に張り付く不快感があったか、それに勝るほど鼓動が五月蝿いく、呼吸が煩わしい。落ち着かない体に脳内がパニックを起こしていたが、状況を一つずつ観察し、全てが"いつも通り"なことを確認すると、震える体を無理くり抱き締めて大きく息を吐いた。
大丈夫、大丈夫だ。此処は現実、これはリアル。自身にゆっくりと言い聞かせ、現実と意識を結合させていく。
大丈夫。"まだ"誰も死んでいない。
脈拍も正常に戻り、呼吸も安定してきた羽京は自嘲気味に笑った。嗚呼、またか、と。"まだ"、というのに自分はどうしていつも、同じ夢を見るのか。"あの時"からずっと、村を焼き尽くされる悪夢は己から離れず、ぴたりと付いてきている。
ひゅるりと、窓から風が入る。少しばかり肌寒い外気はむしろ今はちょうど良くて、自然と彼の足は外へと向かった。塵芥となった家屋を"見た"せいもあるのか、今はただ、夜風に触れたかった。
薄雲のかかる夜空は星が霞んで、一等、光を放つ月くらいしか存在を主張できていない。そんな星空の下、一人当てもなくぷらぷらと歩いた。この、胸の奥につっかえる感情を持て余して。
似たような夢を、羽京は何度も見ていた。正確には、司が眠ることになった日からだ。何度も何度も、繰り返し眼前に現れるそれは、羽京の中にある恐怖を呼び起こす。
多くを失う。多くを奪われる。それはまるで、己の咎を責め立てるように──
「──羽京?」
当てもなく歩いていた脚が止まる。耳朶を打った声に、自然と体が震えた。脳裏に浮かんだのは夢で見たあの茜色に包まれた情景で。
だからなのか、やけに緩慢に彼女へと視線が移った。ゆったりと、あの情景が広がっていないようになどと、子どものように祈りながら。
「どうかした?」
上げた視線の先、彼女──千崎千歳は、羽京を不思議そうに見つめ、こてん、と小首を傾げた。
*
初めて見る顔だった。
西園寺羽京という人間はいつだって物事に動じず、状況を分析して冷静に対処する、そんな大人だ。子ども揃いの科学王国の中でも年長者として常に平静を保ち、ゆったり、或いはどっしりと構える大人。それが千歳から見た西園寺羽京という人間だった。
だから、その顔は初めてだった。焦燥の二文字を顔に貼り付け、よたよたと、あてもなく歩く様はあまりにも見慣れなくて。
故に思わず声を掛けた。掛けない方が良かったかもしれないが、自然と口から声が漏れ出てしまった。
「どうしたの? 顔真っ青だけど」近づけば、彼は罰が悪そうに顔を背ける。所在なさげに揺れる視線が如実に心内を体現していた。
「…ちょっと、眠れなくて」
言葉を一つ一つ選んでいる。澱みなく会話をするタイプの彼が、だ。視線は地面に落とされ、声は尻すぼみ。
適切な言葉を探した間を読み取り、千歳はさらに問いかけた。
「嫌な夢でも見た?」
ぴくりと羽京の肩が揺れる。ゆっくりと揺れていた視線を千歳にスライドさせた彼に、彼女は淡く微笑む。
先を促す表情に、羽京は僅かに項垂れた。
「うん、少し…」
まるで、幼い子どものような言い方に、彼女の目が僅かに見開かれた。きゅっ、と握られた拳に庇護欲のような、母性本能が少しばかりくすぐられる心地になる。
(焦り…いや、不安? なら…)
よし、と心中で頷き、千歳は彼の手を取り、ぐいぐいと引っ張った。「え? え?!」と、目を丸くして、しかしされるがままに手を引かれる彼を連れ、村中を歩き、最終的に押し込んだのは自身の作業部屋兼寝室。
「え、と…千歳?」
パタンと後ろ手に戸を閉めた彼女に羽京が遠慮がちに声をかける。仲間とはいえ、大人の女性の部屋に入り居心地が悪いのか、そわそわと辺りを見渡していた。
背中を丸める彼に、彼女は木製のイスを差し出す。
「話してみなよ」
「え…?」
「眠れないんでしょ?」
ね、と柔らかに目を細める彼女に、羽京は口籠った。
「…けど、千歳は眠いんじゃない?」
「やることあって起きてたし、眠くはないよ」
「やること?」
おうむ返しに聞いた羽京の視線が、彼女の作業机へと移る。一冊の和装本と、石油灯がその上にはあった。
本を見つめる羽京に、千歳は恥ずかしげに眉尻を下げる。
「書き物、ていうのかな。日記みたいなの付けてるの。自分が目覚めるまでのこと、目覚めてからのこと、目覚める前に此処で起きたこと全部」
いつか、いつかと願い続けた先。暗闇から解放されたら必ず綴ることを彼女は決めていた。記録文書、というには情感溢れているが、事実に即した内容を伝えようと彼女は毎日、書き続けている。写真で、蓄音機で刹那を記録できても、日々の情景を詳細に記録するには書くのが一番だ。
「文明が復興するまでの記録なんて、最高に貴重でしょ? いつか重要文化財になったりして」
戯けた調子で宣えば、ふっ、と羽京から笑みが溢れた。「なるとしたら文明復興してから百年は先だよ」と苦笑した彼に、「読んでみる?」と千歳は本を差し出す。
手に取った羽京は、パラパラとページを捲り、文字を視線で追うと、感嘆の声を上げた。
「…凄いね、細かい」
ペルセウスの工事の進捗から小麦畑の収穫量などの全体のデータ、子ども達の学習の進み具合や、ちょっとしたハプニングなどまで。そこには、科学王国の営みそのものが記載されている。細かく記述されたそれを見れば、その日、何があったかを垣間見ることができ、写真や蓄音器の音声と併せれば、記録文書としては十分な内容だった。
「目覚める前のことは色んな人に聞き取りして書いたけど、不足分があったら教えてね。追加するから」
恥ずかしげにはにかんだ千歳に羽京は本に視線を落としながら答える。「不足なんて」と、微笑みながら眺めていた彼は、しかしひとつページを捲った刹那、表情を強張らせた。目を瞠った彼の顔がみるみる曇る。
「羽京…?」
どうしたんだと、彼が見ていたページを覗き込んだ彼女の目に、ひとつの文言が映った。
《獅子王司 冷凍保存》
一年前、まだ草花の芽吹きを迎える直前に始まった武力と科学の争いは、春を迎えた季節に収束を迎えた。科学王国の勝利に終わった戦いは誰一人の犠牲を出すことなく終わったように見えたが、戦闘終了の後に頭領だった獅子王司が部下に肺を貫かれ、負傷。石化光線による治療を試みるため、一時的な冷凍保存を試みる。
記載してあったのは、彼女が人伝に聞いて書き記した、一年前の争いの話だった。
「…夢をね、見るんだ」
ふと、羽京がぽつりと漏らした。僅かに震えた声に、千歳は無言で先を促す。
「司が眠ってから、夢を見るんだ。…この村が、襲撃されて大勢が…死ぬ夢を」
陰鬱な面持ちになった彼は、訥々と語り出した。潜水艦のソナーマンとして乗艦していた頃の記憶から始まり、そして最後には自身に近しい兵器で村が殲滅される夢の光景。目覚めては悪夢に憔悴し、しかし夢を見る時にはそのことを忘れている。まるで、何度でもその光景を見せつけるためのように。
「誰一人犠牲を出したくないと豪語しておいて僕にはその力が不足している。それを痛感してるから、こんな夢を見るんだろうね」
旧世界を、正確には旧世界の体制を作り出したオトナを忌み嫌っていた司が眠りについてから、そのオトナ達が開発した殺戮兵器で村を焼かれる。因果応報を突き付けるような、自身の無力さを痛感させるような夢。
本当に自分はこのままでいいのか。
本当に、進む道は間違っていないのか。
彼は、それを何度も自問してきたのだろう。復活者の中では年長者の彼が抱えてきた悔恨に、千歳は押し黙った。
たかが数年、されど数年。若い時分の数年は大きなものだ。その数年の社会生活の中で培ったオトナという立場は、この世界であろうと決して崩れはしない。
(…違う)
否、自分達の戒めとして、"崩したくない"のだ。崩したら、自分がここにいる意味すら分からなくなってしまいそうで。
「この前、君にはあんなこと言ったのに。案外、僕の方が堪えていたのかなぁ」
苦笑しながら、しかし晴れない面持ちに、千歳は首を振った。
大人としての無力感に苛まれているのは自分だけではなかった。彼もまた、獅子王司の石像破壊を止めることができず、また司自身を救うこともできず、自責の念に苛まれてきた。
苦悩する羽京の姿に、彼もまた、一人のオトナなのだと自覚する。
千歳は、彼が手にしていた本を抜き取ると机に戻した。二人、椅子に座って互いに向き合う。
「信じるしかない、て理屈では分かってても難しいよね。ずっと、不安は付き纏ってくる。誰かが、或いはみんなが犠牲になるかもしれないと思うと、余計にね」
「守るなんて言えるほど知識も力もあるわけじゃないけど…。けどさ…守りたいと思うんだ、彼らを」
「…うん、分かるよ」
深く頷き、千歳は瞑目した。
年齢差が大した意味を持たなくなった世界でも、それでも自分達が生きてきた世界で庇護すべき子だった彼らに、おんぶに抱っこだけは避けたい。踏み込んで言えば、オトナとして守りたい。肉体的、精神的、どちらでもいい。迫り来る悪意の壁になる程度でもいいから、
たとえ、それが自分達の我儘(エゴ)であっても──
《センセイ》
「"だから"私達も進むしかないんだよね」
ゆっくりと瞼を上げ、羽京に微笑んだ彼女に彼は僅かに目を見開いた。俯いていた面が上がり、視線が彼女と交錯する。
手放しの盲信ではなく、地に足がついた信頼。科学的知見を元に可能な事をやり遂げてきた彼を信じ、前に進む為の覚悟がこの先きっと必要になる。
自分で本当に大丈夫か。
彼らを大人として、守ることができるのか。
そんな不安すら、抱けないほどの脅威が来る可能性があるのなら尚更──
「"それでも"自分自身を、信じなきゃいけない。…羽京が私に教えてくれたことだよ」
自分を選んだ彼を信じる。彼の選択を正しいものに導くのもまた自分だ。たしかな未来を掴み取るために路を照らす、光になれるように、自分自身すら信じるしかないのだ。
硬い決意を抱き、微笑む彼女に、羽京が僅かに俯く。「…うん、そうだね」と、口元を緩めた彼の相貌に、もう影は落ちていなかった。
顔を上げたその顔は付き物が落ちたように穏やかで、はにこんだ彼は年相応より幼い、まるで高校生くらいの面立ちに見える。
その相貌に、千歳は胸に情動が込み上げるのを感じた。
立ち上がり、スッ、と彼の前に立つ。きょとんと目を丸くした彼の頭に、千歳は手を置いた。「へ?」と、間の抜けた声が彼から漏れる。
「偉い偉い」
「……え、え?」
「なんか安心したよ、そうやって話してくれてさ。この前は私が聞いてもらったから…私だって同じ大人として聞き役にもなりたかったし」
励まされるだけは性に合わない。何かしたいと強く願うのはエゴかもしれないが、それでも、対等な存在として何かできればとは感じていた。
ふと緩んだ口元に、はにかんだ相貌に胸が詰まって、思わず伸びた手。頑張ったね、偉かったね、と親戚の子ども達にやる感覚を思い出して。
「眠るの恐いなら添い寝してあげようか?」
戯けた調子で目を細めてみせる。他意はない、ただの戯れだ。陰鬱な空気が微かに残る室内をちょっとばかし明るくしようとした問い掛け。
意地悪く笑んだ千歳はしかし、ぱちりと瞬いた後に瞑目した羽京から返された言葉に、固まった。
「…それ、良いかもね」
「へ?」
「人肌恋しいのかもだし」
「え、わ…ちょ、えっ…や、タンマタンマ!」
撫で撫でしていた手をするりと掴まれて指を絡ませられる。そのまま流れるように手首を掴まれ、至近距離で極上の笑みを向けられれば、さすがに彼女も焦った。意地悪く笑っていた顔は一転。事態の変化ぶりに理解が追いつかず、ひどく混乱した顔に羽京は変わらず穏やかな笑みを崩さない。
「ほら、隣に人が居たら安心して眠れるかもしれないしね」
「そんな小さな子どもじゃないんだからっ」
「頭撫でて、偉い偉い、て言ってくれる程度には子どもでしょ?」
「子どもはこんなに力強くないんですけど…」
手首を痛めるほどではないが、振り解けるほどでもない。絶妙な力加減に改めて彼が男性で、元自衛官ということを認識させられる。
子ども扱いはまずかったか。何かしらのプライドを刺激してしまったか。或いは本当に子ども心をくすぐられたか。なんにせよ乗り気になった羽京を宥めなければと思惟を巡らせていた千歳の体が、唐突に人肌に包まれる。鼻腔を抜ける他人の──羽京の匂いに彼女は更に緊縮した。
「…羽京?」
背中に回された腕が、自分を包んでいる。顔に似合わず筋肉質な体躯。気恥ずかしさが沸き立ち、身じろぎした彼女の体はもう一度しっかりと抱きしめれ、彼女は再び当惑した。
抱き締める腕は大人のそれで、けれど行為そのものはまるで子どもだ。身じろぎしても離さず、問いかけに答えず、ただ黙って自身を抱きしめてくる彼に、千歳も大人しくされるがままとなる。
「羽京…」
困惑気味にもう一度彼を呼ぶと、ふと、その腕が微かに震えているのが伝わってきて。
「ありがとう、千歳」
ぎゅ、と回された腕に力が入る。消え入りそうな声を耳で拾って、千歳は思わず、手を伸ばした。湧き上がった感情のままに、彼の背に手を回して、その背をさする。何度も、何度も。
大丈夫だから。
そう、伝えるように──
「何してんだこの淫行教師」
ドアの開く音と同時に聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。反射的に「ひ」とか細い声が漏れて、けれどしっかりと固定された体はもちろん言うことを聞かず、結果、ギギギと壊れかけの人形のように首の方向を戸口へ回すことしかできない。
視界の先に、彼、を収めて、千歳は苦笑した。
「…コンバンハ、石神君」
「おー、夜の挨拶する時間でもねぇけどな?」
「そ、そだねー」
気まずいことこの上ない状況だ。とりあえず誤解をされているので離れようと羽京の背中をタシタシ叩いた彼女に、彼はあっさりと腕を離した。冷や汗ダラダラの彼女と違い、彼は涼しげな笑顔を千空に向ける。
「ごめん、起こしたかな?」
「起きてたんだよ」
「そっか。遅くまでお疲れ様」
なに普通に会話をしているんだ、この男。心中でツッコミを入れた千歳に、千空の視線が移る。
「で? アンタはこんな時間まで何してんだ」
「え、えーっと…人生相談?」
「テメエの部屋で人生相談してたら体密着すんのか」
「ちょ、言い方! いや、そうじゃなくて、いろいろあるの! というか、ノックもせずになんで入って来てんの君はっ」
プライバシーの侵害だ、とストーンワールドではもはや概念すら危うい主張をした彼女の言に、千空は鬱陶しげに嘆息する。「ごちゃごちゃ五月蝿ぇな」と後頭部をかいた彼に、彼女が今一度口を開きかけた刹那、隣の羽京がそれを制した。
「まぁまぁ。僕も甘えて部屋に入ったのは良くなかったし。そろそろ失礼するよ」
「おー、明日もたらほど働いてもらうからな。さっさとクソして寝やがれ」
「ちょ、石神君、言い方っ」
悪態をつくこの性状はどうにかならないものか。焦った彼女に「いいよいいよ。じゃ、おやすみ」と羽京は手を振り、その場を後にした。何事もなかったかのように去る背中は流石だと、分かりやすく慌てた自分との違いに感嘆を覚える。
「今後は未成年の目に毒なモン見せんなよ、淫行教師」
しかし、羽京に続いて戸口へと進んだ千空が、くるりと振り向いて投げかけた一言に、再度彼女は固まって。
二の句をつけずにその場に立ち尽くした彼女を残して、千空は口角をたっぷりと上げるとその場を後にした。
*
偶然と言えば、偶然だった。石神千空がその場にいたのは、全くの偶然だった。
昔から何かに没頭したら、食事も睡眠も忘れて無心に取り組む癖があった。腹の虫が鳴ったところでようやく気づき、頭を回すために糖分を取る。さらに思考するのに必要だから睡眠もとる。円滑なクラフト作業のためには食事と睡眠は欠かせない。
しかし、人より少しだけ稼働時間の長い自分は、眠りに入るのか遅かった。夜更けまで白夜に宇宙工学について質問攻めをしていた時は、「もう限界だ…」と相手が寝落ちするまでノンストップ。その癖はストーンワールドでも抜けておらず、今日も皆が寝静まる時間までペルセウス号の設計のスケジュールの見直しをしていた。そして疲れ目となり、いい加減休めと体が頭痛で訴えたことで作業を停止。外の空気を一杯吸おうと扉を開けた先に、偶然があった。
彼女が、彼を連れて歩く姿を、偶然見た。
「──今日も遅くまで作業をしてたんだね」
前を歩く羽京の声に、千空の意識が浮上する。そのまま面を上げれば、彼は相変わらず穏やかな笑みを湛えていた。その笑みが、キツネに化かされたような、或いは何かを見透かしているような、無性に腹立たしい笑みに見えて千空の声は自然と尖った。「おー、こちとら死ぬほど忙しいわ」と、ニヒルに口角を上げつつ、棘を含んだ声音に羽京は「そっか」と変わらない。
それが、まるで大人の余裕のように見えて。
「色恋沙汰にうつつ抜かすほど、暇じゃねぇからな」
いらぬ言葉を吐いてしまう。非合理的な言葉を、他ならぬ、合理主義の自分が。
まろびでた言の葉は戻すことができず、千空自身も己の失態に内心舌打ちをした。目的を達成できるのなら過程はさしてどうでもいい。大樹と杠が付き合おうと、自分がバツイチになろと、誰が誰とどうなろうと知ったことではない。そんなこと、わざわざ明言するほどでもないというのに。
「暇、ね」
含意ある羽京の物言いに、千空の片眉が上がる。胸の奥に御しきれない感情を覚えた。それは「んだよ。意味深だな」と、不必要な問いかけを重ねる程度には持て余す感情だった。
拗ねたような声音を、羽京は見逃さなかった。
「暇じゃないけど構う程度には、彼女のことが気になるんだね」
「……は?」
「千歳のこと」
スゥ、と丸い瞳は細まり、千空を射抜く。
「夜に彼女が抜け出した後、帰ってくるかいつも確認してたし、この前は付いていってたよね」
ひとつひとつ、確信を持った確認に千空は口を噤んだ。全て見られていた事実に居心地の悪さは拭えない。
「君にとって、彼女は特別なのかな」
一方的な質問にしかし千空は動じる気配は見せなかった。相変わらずの不敵な笑みを湛えて、羽京に返す。
「復活させたものの、メンタルやられて使い物にならなくなっても夢見が悪ィからな」
「…素直じゃないなぁ」
「事実だ。アイツは妙に自己評価が低い。そのくせ、大人だ大人だと気張るからタチが悪ィんだよ」
それでも、復活させたのは自分だ。それは、疑いようのない事実だった。
彼女の何が自分にそうさせたのか。俯瞰してみれば理解できるし、並べ立てる根拠も持ち合わせている。しかし、それ以上の感情を突かれると、脆い。
石神千空は合理主義の塊のような男だ。同時に物事の道理も理解している。
故に、自身の感情の変化に疎いわけでもない。信頼に足る大人だけでは済まされない感情がそこにあることも理解していた。愛情、劣情、そのような俗っぽいものとも違う、なにかが。
沈黙した千空に羽京は何も語りかけなかった。夜の帳に瞬く光を仰ぎ見る横顔に薄っすらと笑みが伸びている。
その笑みに、千空は先ほど戸口を開けた時のことを思い返した。彼女と彼が小屋へと消えていき、聞こえる声の中に彼女の焦りと恥じらいが含まれてきた刹那、反射的に開いた扉。その先にいたのは、ぽかんと目を丸くしていた彼女と──
「…羽京、テメー気づいてたろ」
ひとつ、低い声が喉から漏れた。存外、自分も俗物だと自嘲する。
「なにが?」と貼り付けた笑みのまま向き直った羽京を、千空は鼻で嗤った。
「とぼけんなよ。テメーの耳で俺が近づくのが分からないはずがねぇだろ」
きょとんとしていた女の横にいた男は、薄っすらと笑っていた。彼女をその腕の中に留めながら、目の前の男は千空の出現に驚くこともなく、薄く笑みを作っていた。
羽京は千空の視線を穏やかに受け流す。
「千空だとは断定できなかったけどね」
「この時間まで起きてる人間絞れば分かんだろ。合理的に考えりゃ。で、わざわざ見せつけて何のつもりだ。こちとら別に、テメーらが何してようと一ミリも興味ねーよ」
鼻を鳴らし、吐き捨てた千空を羽京はじっと見つめた。海の底で凡ゆる音を拾っていた男の瞳が、千空の深淵を覗き込む。
数秒、互いの視線が交錯した。
「…僕にもね、よく分からないんだ」
しかし、その視線を、彼はふと外した。小さく嘆息し、俯き、ひとりごちた彼に、千空は怪訝に眉を顰める。
憂いを帯びた横顔が伝える感情が読めず、そのまま押し黙った千空を他所に、羽京は呟いた。
「やるべきことは分かっても、やりたいことって定まらないものだね」
その声は自嘲に塗れていて。
思考を読ませない男の奥底にある苦悶の声が、聞こえた気がした。