18.凡庸人間の結果

満月が上る本丸に降り注ぐ月光は暗闇が逃げ出すほどの明かりだった。人工の明かりが殆どないとここまで月明かりが映えるのかと感心する。コンクリートジャングルって光害酷いんだなぁと肌身で感じている。
でも、今考えているのはそんな満月の美しさのことではなくて。

い草の香りは鼻腔に優しいのに、胸を締めるのは黒い気持ち悪さだった。
あのこんのすけの声音と後ろ姿が脳裏に焼き付いて離れない。掛けられた言葉は鋭利だったのに、その音はとても物悲しかった。
駒は駒として動く方が幸せだとあの子は言った。言葉から分かるのは、あの子はきっと様々な刀剣を見てきたことだけで、そこにどんな背景があったかなんて想像もつかない。

「私、知らないことばかりだ」

仕方ない、わからないものは分からないのだから。そう割り切ってしまえば楽なのかもしれないけど、私はそこまで強くない。
たった一言、一挙一動に目が行って心が揺れて、そんな揺蕩う私に放たれた言葉。

『駒は、駒であるからこそ幸せなのです』

それは、この戦いと、審神者と刀剣を長く見てきたあの子の本音だったのかもしれない。あの変わらない相貌に見えた心情に揺れ動かされた。

きっと刀剣達は物として扱われてもそれを拒絶しない。ただ、主のために己を振るうことに迷いはしない。それは、彼らの本分だから。
編隊を組んで、差配して、戦って、強くなってまた戦場へ。そのサイクルをこなすことができれば、審神者という存在はそこまで重要ではないのかもしれない。
それでも、人型を与えられた以上彼らには心があって、確かにその温もりを私は感じた。
堕ちた本丸、死した審神者と彼らの間に何があったのか、何故そうなったのか、何も分からないままだけれど、ただ私はーー

「あるじさま?」

思考の波に呑まれかけていた刹那、響いた高い声に顔を上げる。

「今剣?」

そこに居たのは、岩融と眠りについているはずの今剣だった。
こんな夜更けにどうしたんだろう。

「どうしたの、今剣」

おいで、と手招きすれば素直に招かれて私の横に座る。
横顔から見えた表情はどこか切なげで、その華奢な体躯か一層小さく見えて。口を結ぶその姿をあやすように、何度も頭を撫でた。

「眠れないの?」
「はい。今は眠りたくないのです」
「……そっか、なら私と一緒だ」
「え」
「私も、眠れないの」

眠りたくないの、と零した言葉に自分の想いがあった。
眠りたくない。明日が来て明後日が来て、重い選択と現実を見ながら足を進めることに少し疲れているのかもしれない。
どれだけ人に恵まれていても、背中を押してくれる人がいても、自分が考えないと何の意味もない。
それでも、今この小娘の私に、現代で平和を謳歌する私に、この現実はあまりにも無情だった。

「なぜ、あるじさまは眠りたくないのですか」

私を見上げた今剣の瞳を見つめる。私に問うその瞳はひどく真っ直ぐだった。
息を吐いて、ぽつりぽつりと漏らす。

「眠ったら、色んなこと考えちゃうんだ。これからのこととか、これまでのこととか。何だか少し疲れちゃった」

弱気なことをこの子に言って何が解決するわけでもない。凡庸人間なりにただ進めば良いだけなのに、ウダウダと考えて、また私は誰かに背中を押されるのだろうか。
嫌気がさすのにやめられない私はきっと、ー

「弱い人間だから、私は」

こうやって、逃げることを選びたがる。
やだな、駄々っ子がまた再発してる。


「………あるじさまは、どうしたいのですか?」


少しばかり間を置いて、今剣がそう尋ねた。
その瞳を今度は見ずに自嘲気味に答える。

「わかんないよ」

繰り返す自嘲は止まらなくて。
半ば吐き捨てるように思いを綴る。

「私は歴史が云々というより、大将として皆が気持ちよく働けるようにしたいだけだよ。だって、わからないもの。本丸が堕ちるとか、歴史が大切とか、皆との距離とか、そんなの理解できても飲み下せない…」

人の死が、刀剣の死が、日常に混じる感覚なんて理解できない。


「大局よりも、歴史よりも目の前のことなんだよ。そんな人間なんだよ私は、私はただ、」



ーー今が良ければそれでいい



尻すぼみになった言葉が空に消える。
歴史を守る役目を負って、彼らを差配して戦わせて、零す言葉がこんなに陳腐で。
でもそうなんだ。所詮、私ができることは限られている。差配して、直して、また差配しての繰り返し。だって、私の大切なのは今の日常だ。

これが、凡庸人間の苗字名前という審神者なんだ。




そう、納得しようとした時だった。


「……あるじさまは、あるじさまなのですね」


ざわり、と空気が波打った。一気に場の空気が変質した。
吸って吐いていた息が止まる。隣から漏れる重圧に声なき声が漏れた。

今剣、と呼ぼうとした名前が掠れて出てこなくて、視線を横に向けるともう今剣の瞳には私が映っていなかった。

ゆらりと身体をもたげて、今剣は縁側へと足を運ぶ。

「あるじさまはお優しくて、あの鉄のにおいとはむえんのおかた。何にもそまらない、蝶のようなかた」

障子の向こう、板張りの廊下で止まり、振り向いたその相貌は、月を背景に影が落ちて伺えない。

「あるじさまは、とおいおかたなのですね」
「今剣……」

震える声を努めて抑えようとも叶わなかった。

いつもなら華のある笑顔で、あるじさま!あるじさま!、と私の元へ駆けて来るあの子はもういない。
今剣は開け放たれた障子の前から動こうとはしなかった。
月明かりの落ちる縁側に佇む姿は輝いているのに、その明かりのお零れを貰う室内は仄暗い。

「……あるじさま」

あの高い声ではない、低くか細い声が私に届いた。
ここにいるのはあるじさま、といつも屈託のない笑顔で私の元へと来てくれる今剣ではない。

現実を咀嚼して、身体から一気に熱が引いた。冷や汗が出て、鼓動の音がやけに耳につく。全身が今この状況に警報を鳴らしている。
現実が追いついてくる。こんのすけの言葉が反復される。

「今剣……」

絞り出した音に空を切る音が被さった。目の前を切り裂いた刃に心の臓が大きく跳ねた。
月光を背景にした今剣の手に握られている彼の本体が鮮やかな光沢を放っている。
思わず生唾を飲み込んだ。
どうして、と言葉すら出てこないほど、今起きていることに頭が追いつかない。艶のある刀身に映った私の顔はひどく怯えていた。

「手の届くところにおられてもぼくには何もできなかった。かえたくてもかえられない。あるじさまみたいに遠くではない、とてもとても近いおかただったのに」

吐露される心内にハッと息を飲む。

眩しいほどのそれから視線をゆっくりと移して今剣の顔を伺えば、落ちた月明かりが顔を陰らせている。

「教えてください、あるじさま」

ゆらりと掛けられた声に目を凝らした。夜目が慣れてきて、その表情が垣間見えた刹那、


(どうして…)


「歴史を変えては、何故いけないの」


そこに居たのは今剣であって今剣ではない。
蠢いた闇が覆い尽くそうとしている。身体の彼方此方で黒光りするそれが物語っている現実。


「今剣……」


かの審神者は時間遡行軍に殺されたわけではない。
こんのすけの言葉が重くのしかかる。
身の危険を感じる前に、ただその言葉を思い返していた。
現実が迫って、靄と鈍色が迫っているのに蘇るのはその言葉だけで。


「私は、」


本当に何も知らなかったんだ。

事実を理解した時にはもう全てが目の前に迫っていて、目を閉じる間も無くそれは、


時間遡行軍は私に刃を下ろした。









「すまん、今剣」




不快音が鳴り響いた。何かが切れた、壊れたそんな音と共に目の前が緋色に染まった。
部屋中に飛び散った朱が私の視界を濡らして、同時に、目の前のあの子の靄が一瞬晴れた。

「あ……」

今剣。
手を伸ばして、もう一度その頭を撫でたくて、迷走する思考で名前を呼んだ。

「あるじさま……ぼく、」

続く言葉は聞けなかった。


「許せ」


華奢な身体を貫いた刃が眼前まで来て、月光に照らされた小さな神様は無残な姿となって私の前に落ちた。
状況を理解する間も与えられることなく、その身体から靄が取れる。

「いま、…のつるぎ…」

残ったのは、折れた刀だけだった。

震える指で刀に触れて、語りかけても何も返ってこない。
何度も名前を呼んでも、何も返ってこない。

外から騒ぐ音が、人の声が遠く聞こえる。
でも、そんなことはどうでもよかった。


「なんで…」


どこで間違えた、どこで違った。
なぜどうして、この結果を何故導いてしまった。


「なんで……っ、どうしてっ…」


答えなんて返ってくるはずがなかった。
無機質な鉱物と化したそれは確かに心の宿った存在だった筈なのに、何も返ってこない。何も、何も。

2つに折れた鈍色が物語る。
これは、現実だと。



「どうして……っ」



これは、私の業だと。
凡庸人間の結果が招いた、現実なのだと。