目を開けたらいつもの天井が広がっていた。今日は何の訓練があっただろうか、今の時間は何時だろうか、妙に外が暗い。まだ深夜だろうかと時計を探したが、見当たらない。いつもの場所にあるはず。
(いつもの場所?)
そうだ、中佐のところに行かないと。普段からあまり食事をとらない人だ。栄養価の高いものを少量が中佐の要望だ。
ベッドから起きていつもの洋服に着替える。
辺りは静けさに包まれている。皆まだ寝ているのだろうか、それにしては静かすぎる。街中も建物もまるで何もいないみたいに静かだ。
自分の足音だけが響く。カツンカツンと妙にその音は廊下に響いた。
(あれ?)
どうしてこの部屋に来たんだろう。どんなルートをたどってここまで来た?
振り返ろうとして思いとどまる。
目の前にある扉を開けないといけない気がした。とても嫌な感じがするのにその先を見ないといけない気がした。
そっとドアノブに手をかける。ガチャリとノブを回して扉を押した先。
「……あ」
嫌な予感とは当たるものだ。見たくない、見せたくない。
(やめて)
そこで意識は途切れた。
――――
「千歳―?」
夕飯の支度を任された千歳の姿が見えないと、福本がぼやいていた。
カードゲームの真っ最中、参加していなかったメンバーで千歳探しを始めて数分。屋根裏部屋にも資料庫にもいない。外に出かけたのかと数人はそちらに向かった。
捜索メンバーの一人、波多野は屋内で千歳を呼びながら適当な部屋を当たっていた。
しかし、呼べども呼べども彼女は姿を見せない。
(どこに行ったんだよ)
広い建物ではない。呼べば気づくはずだ。
しらみつぶしに探し回り、波多野が最後にたどり着いたのは彼女の自室だった。
女性の部屋に無断で入るのは気が引ける…
なんて思うほど紳士的な心はあいにく持ち合わせていない。
無遠慮にしかし音もたてずにドアを開けた。
(まさかとは思ったけど)
簡素な部屋だ。作業用のデスク、衣類を入れるタンス、窓際には一輪の花。そしてその窓際に置かれたベッドに彼女は横たわっていた。
正確には眠りに落ちていた。
波多野が普通に近づいていっても起きない。そんなことで大丈夫かと半ばあきれながら、彼はベッドの淵まで来た。
横向きに体を抱え込むように彼女は眠っていた。
暢気なものだと波多野はその寝顔を覗き込んだ、が、その様子を見て目を見開いた。
(泣いている?)
目じりから流れているのは間違いなく涙で、悲しそうに眉を下げていた。
思わぬ表情に波多野は戸惑い思考が停止していると、ゆっくりとその目が開かれた。
ぱちりと波多野と近距離で目が合う。
「…波多野さん」
「福本が呼んでる。飯の準備だ」
覚醒した彼女に波多野は手短に用件を伝える。
しかし、彼女は波多野を見たまま固まった。寝ぼけているのかと再度波多野は呼びかけようとした。
「おい、起きて、うわ」
肩を揺すろうとした波多野に、千歳は唐突に抱き着いた。
突然のことに波多野もそのままフリーズする。一体何だと言いかけたが咄嗟に先ほどの彼女の表情を思い出した。苦しそうに泣いていたあの顔だ。
ちらりと小柄な自分よりもさらに小さなその体を見る。顔を自分に押し付けて表情はうかがい知れないが先ほどの顔から容易にそれは想像がついた。
波多野は空いた片手を彼女の腰に回すと、もう片方の手で彼女の頭を撫で始めた。
幼子をあやすように優しく何度も何度も。その状態がしばらく続いた。
「……波多野さん」
徐に、千歳は波多野を呼んだ。なに、と彼も問い返す。
「嫌なものを見ました」
何を、とは聞かなかった。彼女が一番恐れているものはある程度予想がついたからだ。
「千歳」
「暗くて誰もいなくて、でもそんなの怖くないんです」
ぎゅっと、波多野の肩にあてられた手に力が入った。
「死んでしまうのだけは、嫌です」
いなくなる、どこかへ行くというのはまだ生きている。
生きていれば孤独だろうが、遠かろうがそれでいい。生は連続性のものだ、終わりはない。
だが死は、終わりだ。その先に何もない。
「ひとりでも何でもいいから、それだけは嫌です」
それが彼女にとっての一番の恐怖だ。それを見てしまったんだろう。
波多野はひとつ息を吐く。
「死はスパイにとって最悪の選択だ」
「分かってます」
「死ぬな生きろ殺すな」
「分かってますっ、そんなこと」
そんな当たり前のことを彼らがやってのけるということは、千歳も十二分に理解している。
思わず顔を上げた千歳に波多野は、やっと顔挙げたな、とにやりと笑った。
「フィジカルは強いのに、妙なところで弱気だよなお前。だから外に出せないんだよ」
「一言余計です」
「まぁ、でもお前は…、」
「波多野さん?」
そのまま何かを言いかけた波多野は、突如口をつぐんだ。
「…いや、何でもない。それより、福本が呼んでる」
「あ、夕食。すみませんっ」
しまったと彼から離れた千歳は、失礼します、と足早に食堂へと駆けて行った。
残された波多野は、その姿を見送り自分が言おうとした言葉を思い浮かべる。
(それでいい)
ひとりでも孤独でも彼女の周りから誰もいなくなってもいい。ただ、
(生きていてくれれば、か)
我ながら滑稽だと波多野は自嘲した。しかしすぐに思い直す。
必要のない感情だ。
波多野は意識の底へとそれを押し込めるようにそっと目を閉じた。
――――――――
道化師の戯言
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