「共に生きては貰えませんか?」
それは化け物ではない、人間の言葉だった。真が込められた眼差しは志乃を捉えて離さない。瞳の奥に宿る強固な意思に志乃はたじろいだ。
「何を言っておられるのですか!」
「何を?前から言っていたではありませんか。僕は貴女を好いている。はぐらかしたのは貴女だ」
「そんなつもりはっ、ないのですけれども…」
尻すぼみになった声に志乃自身の焦りが見えた。囚われるな、と魔王が囁く。囚われない男達が先を行く。
一等、思いを強く持つ。それは毒だった。甘美で魅力的な慕情。その感情に蕩揺されればもうあの暗闇の道には戻れない。揺り動かされながら、化け物から外れた道へ、光は、光へと歩んでしまう。渇望してしまうのだ、人を、心を。
志乃の脳裏に浮かんだのは、人を思った故に人に戻った男の姿だった。技量も知識も申し分はなかった。それでも、たったひとつ、熱望した人間のために彼は結局虚構の世界へと落ちてしまったのだ。
嫌だ。志乃は首を振った。
目の前の彼が、ひどく優秀な彼が、囚われてしまうなどあってはならない。己が存在が彼を陳腐な存在に変えてしまうなど御免だった。
唇を噛む志乃に、実井は苦笑した。
「貴女という人は」
仕様のない、と緩んだ目元に志乃の胸がキュッと締まる。
「だって、そうでしょう?そんなの、囚われることなんて、そんなの…」
「囚われる、だなんて勝手に決めてもらっては困りますね。僕は貴女に囚われてなどいない。ただ、貴女という存在を僕と同じように扱うだけだ」
「だから、それは…」
「志乃さん」
柔らかな声音に志乃は息を飲んだ。
「なんてことはありません。できないことなんて僕には…化け物にはないんですよ」
分かっている。分かっていた。志乃は彼の視線から逃れられなかった。
きっと彼は、志乃の存在などいとも簡単に己の中に取り込んでしまうだろう。なんてことはない、自分ならば人と共に生きることも、抱えることもできないわけがない、と。己の存在は実井にとって、ただそこに在る、当たり前のように在るものだと、彼ならからりと笑って答えるだろう。
それでも、志乃はその中に足を踏み入れることを躊躇していた。
選択を誤りたくない、誤るはずがない。惑い、自負心、せめぎ合う心の先にある、あり得ない感情を認めたくなかった。
揺れる視線が志乃の心内を体現している。志乃が拒絶という答えを出せば、実井はきっとそれ以上踏み込みはしない。真っ暗な孤独を行くことができる彼は、再びあの闇の中へ姿を消すだろう。
それでも、否ー
(嘘…)
だからこそー
志乃は拒絶の言葉を口にできなかった。
「私は、わたしはー」
どうすればいい。どうすれば正解に辿り着ける。
思考がまとまらない。理性も感情も混ざり合って、答えが埋もれてしまっていた。
言葉に詰まり、胸を締め付ける思いに呑まれてしまった志乃を優しく包んだのは、実井の両腕だった。
「ただ、聞きたいんです、志乃さん」
耳元で囁いた彼の声音は少しだけ震えていた。
「一度だけでいい。聞かせてください、貴女の答えを。貴女のー」
ー七篠志乃としての思いを。
許嫁、の言葉が志乃に染み渡る。伝わる熱は志乃を溶かして、解して、目頭を熱くする。
こんなにも、厄介な、それでいてひどく温かい感情を志乃は知らない。
それでも、それは志乃にとって、拒絶できるものではなかった。
「私はー」
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