英国チューダー様式を基調とした地上3階建ての西洋建築の中に、卍崩しの玄関ホール、花頭窓などの東洋の色が加えられた建物は大層荘厳な佇まいだった。
1936年、昭和11年に竣工した細川侯爵邸。
見事と言わざるを得ない、そんな邸宅の社交ホールで千歳は目の前で繰り広げられる光景に視線を走らせていた。
(揃いも揃って素敵な面々なこと)
竣工から2年を前に細川侯爵自らが催した記念式典の会場には、公爵から男爵まで、爵位の列関係なく様々な華族が招かれていた。
公家の令嬢は品定めをするように男に蠱惑的な眼差しを寄越す。若い当主達は恭しくしかし何処か堂々たる面構えでレディの手を引いていた。
煌びやかな世界だ。
しかし、このような世界にも綻びは存在する。
千歳の視界にちらほらと入るのは、華族とは違う空気を纏う者達だった。
「こんな所で何をしているんだい」
気配が姿を現し千歳の肩がぴくりと震える。緩慢に振り返れば見慣れた優顔が迫っていた。
「あら、拓也さんこそ良いのですか。ご挨拶に行かれなくて」
「可愛い妻を1人にすることなんて出来ないだろう?」
優男、神永は大層明朗な、千歳から見れば心底胡散臭い笑みを顔に貼り付けていた。
今、神永と千歳は夫婦という設定だ。
千歳は神永から視線を逸らして再び煌びやかな、そして綻びのある世界へと意識を向ける。華族の皆様方は大層質の良い生地で仕立て上げられたドレスを身に纏い己の矜持を保っていた。
しかし、それは仮初めの華だ。
先の恐慌の煽りは日本全土を襲った。その影響を受けるのは何も庶民だけではない。特権階級という盾があろうが、己らの財産を預ける金融機関が破綻してしまってはそれは何の意味もなさなかった。
多くの華族は土地を家屋を手放した。華族の称号すら手放す輩も現れた。特権階級故にそれを維持しなくてはならないというプライドと反比例するように没落する彼らは、しかし矜持を守る為にこうして晒し合う。
煌びやかな世界、その内実は寂れた何とも無情な世界だった。
表と裏の顔を併せ持つ空間で千歳は神永にさり気なく目配せする。
「そういえば拓也さん、侯爵夫人にご挨拶はされたのですか?」
そう言って視線を向けたのは、招待客に囲まれて優婉に微笑む細川侯爵夫人だった。花弁のような可憐さは華族の間でも大層話題に上がる人物で、案の定、招かれた多くの男達は熱っぽい眼差しを向けている。
単純なこと、と失笑する千歳は神永に視線を戻した。
「……そうだね、ちょっと行ってこようか」
何処か弾んでいる声音に眉根を寄せる。
「随分と楽しそうですね?」
「え、あいや、別に変な意味ではないんだよ?」
「ふぅん、なら良いのですけど」
「いや、本当さ!」
本音と建前、さてこれはどちらなのか。千歳は薄い笑みを浮かべた。
神永と千歳は、維新後の功績を認められた地方士族出の華族、という役割を担っている。夫婦となって日の浅い若き当主と幼さを残す妻。
若き当主は世に星の数ほどいる、良い女、に目移りするお年頃ならしい。隣の芝生は青いとはよくいうものだ。
「では行ってくるよ」と相変わらずの胡散臭い笑みを貼り付けて一歩踏み出そうとした神永は、その場でピタリと止まった。
彼の視線が前を見据え千歳もつられてその先に目を向ける。
「初めまして、ですね。五十嵐殿」
そこに居たのは先程から視界の端に映り込んでいた鈍色。それは、色彩豊かな華族とは明らかに異なる鈍く重い色だった。纏う空気からして彼らとは違った、そのうちの1つが千歳に笑みを向けていた。
「明石家の当主、明石清十郎と申します。お見知り置きを」
頭を垂れたその男は上等に仕立てた洋装を纏い、千歳を見据えた。
狐のような切れ長の目に歪められた口元。千歳も笑みを貼り付ける。
「明石様も来られていたなんて存じ上げませんでしたわ」
「仕事の都合で欠席させて頂く予定でしたが、偶々そちらがキャンセルになったので、ね」
お会いできて嬉しいです、と糸目を更に細めたその相貌はひどく不気味であった。
明石財閥。日本で初めて海外に支店を展開した貿易商社。石炭採掘、土木事業から軍需品輸入会社の設立など世相に合わせた事業を展開している。
恐慌の煽りを受けて経営基盤が弱体化している財閥も多い中、強かな且つ冷静な世情分析は舌を巻くものがあった。
金の流れを見極め最小の労力で最大の利益を得る。利用出来るものは全て利用してきた、そのような匂いが彼からは溢れていた。
「先日、またひとつ商社を買われたそうですね」
千歳の前にいる神永からそんな言葉が漏れた。明石は肩を竦める。
「経営が行き詰まっているとのことだったのでね、ウチで回した方が効率が良いと判断したのでしょう。二つ返事で手放してもらえました」
「しかし、取り込むには些か負債が多いと思ったのですが」
「なになに、何でも使い用ですよ。それに我が日本国の大切な企業をむざむざ見捨てることも忍びない」
「……ですが、」
「拓也さん」
再度口を開きかけた神永に千歳が有無を言わさぬ声音を出した。一歩前に出て彼の隣に立つ。
「侯爵夫人へのご挨拶がまだでしょう?早く行かれないと失礼ですわ」
ここは良いから早く行け。言葉には出さない指示に神永はニコリと笑みを携えた。
(え)
その瞬間、ぞくりと、千歳の背に悪寒が走った。
「申し訳ない、明石殿。暫く失礼します」
男に向き直った神永の相貌はひどく冷徹だった。それはD機関にいる千歳だからこそ分かる歪んだ笑み。
狂気的な程の憎悪が秘められた瞳に千歳は初めて、神永、という人間に恐怖した。
「さぁ、中へどうぞ」
侯爵邸の客室は流石に広い。華美な装飾が散見されない作りだが、庭園を含めた広さは国内でも随一だろう。
室内へと促された千歳は左右を確認した後足早に中へと入る。ホールの喧騒が随分と遠くへ聞こえる程には離れている部屋だった。
ガチャリとドアが閉まり、次いで聞こえたのは鍵がかかる音。
息つく暇もなく千歳の腕が引かれ、その身体が男の中へ収められた。
「はは、いいねぇ。覚悟を決めた女が好きなんだよ僕は」
首筋に生温い感触が走る。ザラリとした汚わらしい舌が耳裏まで届きそのまま食まれた。身体を弄る手が双丘を乱雑に鷲掴む。
不快な感触に眉を顰めた千歳にニンマリと口元を歪めた男は千歳のその身体を寝台へと投げ捨てた。
「その能面の顔が苦痛と絶望に濡れる様を早く見せておくれ」
あぁ、やはり狂っている。
己に跨り嗜虐心に支配される男、明石清十郎を見上げて千歳は目を細めた。
ある華族に金が入ったらしい。そんな珍妙な話を千歳が聞いたのは1ヶ月前のことだ。何でも、華族の持つ会社が買収され、経営基盤の立て直しが為されたとのことだった。
このひとつの事例だけならばどこかの企業の道楽くらいに捉えることはできた。しかし、そんな事例はここ数ヶ月で立て続けに起きている。買収ではなく、莫大な出資という形でも、だ。
出資先、買収元はそれぞれ名の異なる企業だったが、調べた結果行き着いたのが明石財閥の系統ということだった。
金の亡者のような財閥が、世俗と切り離された華族を食らっている。食うだけの余力を残している経営基盤が彼らにはある。
「……明石様」
改めて情報を整理した千歳は、震える声で彼に縋る。
「これで出資の件は考えて下さるのですね…?」
か細く健気で無垢な女の瞳に明石は満足気に頷いた。
「約束しよう。君の全てを僕にくれればね?」
脚を這っていた指先が股に添えられる。全てを差し出す、その意味を理解した多くの夫人の絶望に千歳は想いを馳せた。
(下衆が)
この男はそんな絶望を見るのが愉快でならないのだろう。絶望し、それでもお家の為に、夫にも言えず嘆く女を眺めて陵辱することに悦を感じる輩。
明石清十郎という男のもうひとつの顔がそこにはあった。
明石はこうやって華族という特権階級に属する夫人らを刈り取って来たのだ。富により全てを手中に収めた男の次の矛先は、華族が経営する脆弱な企業ではない。
己の矜持を守らんと全てを差し出す、女という生き物を弄ぶことにこの上ない快感を得ている獣。
下らない、と千歳は心の底からの侮蔑の念を彼に送った。そんな彼女の想いなど露知らず、明石は情事を進めていく。
ちらりと千歳は掛時計に視線を遣った。針が示すのは二一四◯。
(あと少しか…)
「考え事かい?あぁ、愛しの拓也様のことかな?」
前開きのドレスから覗く双丘に噛み付き、女性器を弄る明石の恍惚とした笑みに演技をするのも一苦労だ。滑稽で器の小さい男に翻弄される哀れな淑女。夫に痛切の念を感じながら、この男に昂ぶらされる女を演じるのはどうにも骨が折れる。
溜息を吐きたくなる状況も任務の為には飲み込まなくてはいけない。
「拓也さんのことは、言わないで…」
伏し目がちに顔を背けた千歳に興奮したのか明石は己の下肢の準備を始めた。
「なら、僕を彼だと思いながら抱かれるといい。さぞ気持ちよくなれるだろう?」
ふざけたことを抜かすなと毒突きたい衝動に駆られるが、心情とは裏腹に肩を震わせてみせる。瞳いっぱいに涙を浮かべれば、男の高揚は頂点に達した。
開かれた両脚の間に身体を埋め、ぴたりと雄が口へとつく。あと一歩腰を進めれば純潔が奪われる体勢。
「さぁ、何か言い残すことはあるかい?」
畜生に成り下がった男の言葉に千歳は応えず、代わりに己の腕を彼の首に回した。
「ひとつだけ」
避けていた視線を男へ向ける。瞬間、男の喉からヒュッ、と声にならない悲鳴が上がった。
「火遊びは程々にしなさい」
「危ないところだった?」
「いえまったく」
下肢を露出し寝台に横たわる男に目もくれずテキパキと纏いを整える。扉に背を預けているのは、侯爵夫人に挨拶をしていた神永だった。
「嘘つけ、あと一歩遅かったらやられていたろ」
「それならそれで問題はないでしょう。どちらにしろ彼が眠りにつくことには変わりはない」
「落ちる直前に魔王の相貌を見届けてな」
ケラケラと笑う神永に、それで?、と千歳は促す。
「見つかったんですか、リストは」
千歳の問いに神永はニヒルに笑むと、右手を悠々と掲げた。
「当たり前だろ。夫人の部屋の中にきっちりあったさ。しかも、細川侯爵から送られたペンダントの中ときたもんだ」
神永の掌に収められていたのは長方形のケース。その中にある目当てのものに千歳は僅かに口角を上げた。
神永と千歳がこの場に来た最大の目的、それは神永の手の中にあるマイクロフィルムだった。
侯爵夫人が有夫の身でありながらとある活動家とやんごとなき関係となっている。そんな情報を掴んだのは2ヶ月ほど前のことだ。
彼女は嫁ぐ前から社会主義運動へ傾倒していた。そんな彼女が華族という檻で飼い慣らされる小鳥になるわけもなかった。
定期的に開かれるパーティは多くの人間が入り乱れる、華族、財閥、使用人から新聞記者まで。夫人と活動家が接触する機会はいくらでも作ることが可能だ。そして、燦爛たる世界に入り込む鈍色は嫌でも目に付いた。
華族を食い荒らすハイエナに飛び立つことを夢見る小鳥が襲われてはたまったものではない。
「滞りなく『密会』は終わったということですね」
「お互いにな」
夫人の夢を摘み取り、男に灸をすえる。持ち帰られた運動家のリストは今後のD機関での活動に、男への牽制により今後無理な、要求、を彼は控えることになるだろう。
滞りなく全てを終えることが出来た、が
千歳は神永に鋭い視線を向けた。
「神永さん、なぜ無闇にこの男に噛み付いたんですか」
千歳は明石が2人の前に姿を現した時のことを思い出す。
あの時、無闇に明石に構うのは得策とは言えなかった。訴追するような神永の、柔らかくしかし鋭い問いは相手に不信感を抱かせ、下手をすれば任務に支障をきたしていた。
あの場は、若い女に目移りする当主らしく侯爵夫人の元へ足早に去る場面であった。
それに、と千歳は神永の相貌を思い浮かべる。
不愉快さなど微塵も出さない。朗らかな笑みと邪気のない甘いマスクを被った神永を見て千歳は戦慄した。
あの時の神永の笑顔には何もなかった。否、その真逆の感情があった。ゾッとするような瞳はひどく冷徹で、身体の芯から凍りつくそのまなこを持った彼は正に、ーー
「なぁ、千歳」
思案していた千歳の目の前に現れた影に、ハッと彼女は顔を上げる。
その先にいた影に再びあの感覚が蘇った。
「俺のこと怖いと思った?」
ぞわりと駆け上がった感覚は、まごう事なき恐怖。彼らと同様の訓練を受け、魔王と旅を続けた千歳が、魔王にすら抱いたことのない感覚だった。
邪気のない笑みと酷く冷えた声音が不釣り合いでしかなかった。
一歩後ずさった千歳に、一歩彼は近づく。とんと背が壁に着き目の前に彼が来た時には、捕食者に追い詰められた獲物よろしく身動きのできない状態となっていた。
「っ、質問しているのはこちらです」
言葉だけでも絞り出したのは己の矜持を保つためか。しかし、視線を合わすことは叶わず、面を伏せた形で千歳は拳を握りしめた。
纏う空気ひとつで分かる。
(この人は、まるで)
ーー魔王。
「千歳」
徐に顎に添えられた男性らしく長い指により、強制的に千歳の視線は神永と合わされた。
合わせた視線は、しかし直ぐに塞がれる。
それは柔らかく温かみのある口付けだった。
「神永さん…」
「悪かったな、そんな怯えた顔すんなよ」
眉尻を下げて苦笑する神永は、千歳の知る神永でその相貌に千歳の身体が思い出したように感覚を取り戻していく。
「あの」
「ん、ちょい待ってな」
「え、……っ、!」
くすぐったい感触が首筋に広がり次いで短く小さな痛みが走る。千歳の肩がぴくりと震えた。
下衆な男に嬲られた箇所に神永は口付けを落としていた。
「まっ、神永さん、やめて下さいっ」
「だぁめ。まだ終わってない」
「あっ、ちょ、…っ必要ないです!大体、あの男が起きでもしたら」
「ウチの睡眠剤食らって2時間以内に起きる奴がいるかよ」
「それはそうですけど、そもそも此処に長居すべきではないでしょうっ」
つうと内股をなぞる指先に震える己の身体を叱咤する。
千歳が神永を再度睨み付けると、暫し思案した彼は彼女から漸く離れた。
「まぁ、それはそうだな。帰ってからでも出来るし」
その必要はないと口を開きかけた千歳は喉まで出かかった言葉をグッと飲み込んだ。この男のペースに飲まれては駄目だ。
質問の答えをあっさりと流し飄々としている彼はやはり何処か掴み所がなく、恐ろしく優秀だと認識する。ヘラヘラとまるでスパイには不向きな態度をさらけ出しながら、しかしその内実は完璧であった。
(だからこそ、あんな態度……)
故に解せない。飲み下せないその理由に顔をしかめていた千歳の頭に乗せられた柔らかな感触。
「帰ろうぜ?」
そこにいる神永という男は確かに陽を体現したような男で、引かれた腕を振りほどきもせず千歳は彼に連れられ屋敷を後にした。
手筈通り車で迎えにきている同期の元へと足を進めて行く。
ガス灯の淡い橙色が照らす道すがら、千歳は握られている彼の手に視線を落としていた。
あの底冷えする視線、憎悪に満ちたまなこを持つのはこんなにも暖かな手を持つ人間なのだ。神永という人間はどちらにも為ることができる。
「なぁ、千歳」
ピタリと歩みを止めた神永に一呼吸遅れて千歳も足を止める。真横から見えた彼の顔に張り付いているのはやはり笑みで、それからは何の感情も読み取れない。
「俺さ、嫌いなんだよ」
「え」
「金に汚いやつ。あの手の奴を見るとどうも抑えが効かなくなる」
悟られるようなヘマはしないけどな、と困ったように眉尻を下げて神永は笑った。
スッ、と細められた瞳が微かに揺れる。
「下らない感情と思うか?」
問われた声音は矢張り何処か掴み所がない。色のない純粋な問いだった。
合わせた視線を離し、千歳は未だ握られている手を見つめる。暖かく、しかし思い浮かべたのはあの心の臓を掴まれるかのような冷眼。
ひとつ瞳を閉じてゆっくりと開けると、握られた手に力を込めた。
「下らなくても、それが神永さんですから」
僅かに開かれた彼の瞳に口元を緩める。
それが、心のない人形でも心を殺した魔王でもなく、
神永という男の感情と言うのならきっとそれはーー、
そこまで思い、千歳は首を振る。
(貴方は、必要ないと思うのでしょう?)
此処にいる人間ならば、それすら切り捨てなければいけない日が来るだろう。D機関という巣窟で過ごす限り、失くしていくものだ。
「……俺、ね」
独り言ちた神永は握る千歳の手を両の手で包み込むと、まるで祈りを捧げるかのように額に当てた。
「神永さん?」
「……馬鹿だなぁ、本当に」
自嘲気味な乾いた笑いが神永から漏れる。
何に対して、と聞くのが憚られ千歳は黙って彼の相貌を見つめた。
これが神永なのか、これも神永なのか、答えはきっと一生ではしない。
「……帰りましょう、神永さん」
降ろされた掌に己のもう一方の手を重ね、千歳は淡く笑みを向けた。
人格を、感情を、想いを。
ひとつひとつ、それを彼は、彼らは切り捨てていくのだ。
しかし、それは
(尊いものだと言うのは愚かですか)
暖かさを持つ掌に千歳は想いを込めた。
ーーー
化け物とヒト
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