目の前で眠りに落ちている人物を千歳はまじまじと眺めた。ただ寝入っているだけのその姿は普通であり普通ではない。
ソファに身体を沈め、腹の上には読みかけの本。
(珍しい…)
千歳はすぅすぅと規則正しく眠りに落ちている波多野を見て目を瞬かせた。
本日の外の様子は薄雲が青に彩りを加える程度の快晴だ。暑過ぎず寒過ぎない春先の気候は意識を深淵へと誘う。人気の無い大東亜文化協曾の一室は微睡みの空間を提供していた。
多様な言語の書籍が所狭しと陳列されているその部屋で千歳は彼を見つけた。視界に入ったその姿が千歳の淡白な顔に波紋を広げる。
足音を消す必要もないが、自然と気配を殺して近づいた。此処に身を置く者の癖みたいなものだ。
気配を消しているのだから起きる気配が感じられないのは当然かもしれないが、それでも手を伸ばせば触れることが出来る位置まで近づいているにも関わらず、相変わらずその瞼は閉じている。
千歳が視線を向けた腹の上の本の表紙には、
(……アンナ・カレーニナ…トルストイの)
小生意気な性格に似合わず、随分と繊細な物を読んでいると千歳は微かな驚きを覚えたが、あぁでも、と思い直す。
ストンと腑に落ちるものがあった。
心の機微に存外彼は敏感だ。それが生来のものなのか、はたまたこの様に書物で学んだものなのかは分からない。人の抱く想いを利用しながら暗躍する彼らにとって、他人の心情を推し量るという行為は任務を遂行する為の重要なツールだが、無骨そうな印象を波多野は他人に抱かせる。
寝息を立てて、無防備な姿を見せる彼の腹部がチラリと見えた。背丈は低いが彼の身体は鍛えられている。伊達に体術が機関員随一ではない。
そういえば、見事な肉体を持つ佐久間中尉も強面に似合わず語学が堪能だった。
(……人は見かけによらぬもの…)
見かけ通りなのは神永と甘利くらいだ。
それにしても、と千歳は改めて波多野の顔を覗き込んだ。
(睫毛が意外と長い。童顔だけれどやはり骨格はしっかりしているし、筋肉のつき方も無駄がない)
しかしやはりその身体は同期に比べて小柄だ。
彼がジゴロの訓練で女性を口説く時は専らその、愛嬌、を武器にする。愛嬌の中に正反対の、雄、としての彼を垣間見せれば婦人というものは不思議なものでその差に心を奪われる。
こんなに無防備で無垢な寝顔を晒している人間が、打算的で常に計謀を用いて他人を誑かすのだ。
ひゅるりと春風が部屋を訪れた。柔らかな茶混じりの彼の髪が細かになびき、瞼にさらりとかかった刹那、
「何か用でもあるわけ?」
瞼を閉じたままの波多野から気怠げな声が漏れた。いえ、と返せば、重い瞼を薄く開け波多野がチラリと千歳を見遣った。
「他人の寝顔見る趣味でもあるのかよ」
「別にありませんけれど、少し珍しかったので」
仄かに笑みを浮かべた千歳に波多野は眉を顰めて視線を逸らす。何処かバツの悪そうなその相貌に千歳は苦笑した。
視線を下に落とせば、読みかけの本が瞳に映った。
「……読書」
「ん?」
「好きなんですか?」
何気なく出た言葉だった。千歳の問いに波多野は手にしている本のページをぺらりと捲る。
「まぁな。暇があれば読んでる」
「それは、意外な一面です」
「………一面、ね」
くあ、と欠伸をした波多野が含みを込めた声音を出した。小首を傾げた千歳に寄越した視線は大層皮肉の色が込められていて、
「『本当の俺』の一面かは別だけどな」
ニヒルに笑う彼は小さく吐き捨てた。
ーーー
春の日差しが入り込んでいた。暖かさを増す室内は大層居心地が良い。
己以外の人間が消えた空間で波多野は身をソファに沈め直すとぼうと空を眺めた。
『本当の俺の一面かは別だけどな』
皮肉のつもりだった。波多野なりのちょっとした意趣返しとして出た声音。
気配が在ろうと無かろうとあの距離で他人の存在に気付かない波多野ではない。そんなことはあってはならない。
しかし、波多野が波多野であることをまるで嘲笑うかのように、開けた視線の先には彼女が居た。
気付かなかった。その一点に一気に湧き上がったのは忸怩たる思い。皮肉めいた発言さえサラリとかわされ、視線を逸らしてしまった。
(……分かっている)
気付かなかった、その理由が分からないほど愚かではない。
波多野の、取るに足らない、意趣返しに眉ひとつ動かなかった彼女は去り際に一言、
『どちらでも構いませんよ』
穏やかな笑みと共に置いて行った。
薄紙のページが風に捲られる。春風が運んで来たのは穏やかな陽気だ。
心地良い、その空気に波多野は目を細めると誘う微睡みに意識を沈めて行った。
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微睡みに沈む
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