春の陽気が過ぎ去りジリジリと夏の気配が顔を出し始めていた。ぬるりと肌を撫ぜる風が気にならないのは、恐ろしいほど輝く月のせいだ。上弦の月は光を反射し夜のしじまに色を添えている。
静けさが支配する時にも軍靴の足音が近付いていた。
大東亜文化協曾の屋上、人気のない静寂に包まれた場で千歳は空を見上げていた。雲ひとつない穏やかな空模様も何れ紅に染まるのだろうかと不穏な気配に眉を潜める。
時が経つにつれて、千歳はこうして1人、物思いに耽ることが増えていた。もうじき此処を旅立つ彼らのことを考え、その度に己の立ち位置を確認する。此処に留まる己の役割を価値を、思案していた。
囚われた心。それを受け入れた心。
そのせいなのか、心に根を張った人としての情は常に彼女に考えることを辞めさせてはくれない。
今日も彼らは街に繰り出していたはず、いつ頃帰宅するだろうかと端まで足を進めた時だった。
「最近よく此処にいるよな」
聞き慣れた声音に振り向いた。キィと開いたドアから顔を出したのは、栗色の髪と丸い瞳を持つ彼。
「皆さんと行かれなかったんですか」
「気分じゃなかったんだよ」
「意外ですね。常に先陣切っていかれるじゃないですか」
千歳の言う通り、彼、神永は夜の歓楽街に繰り出す際にはいの一番に此処を出る。ジゴロの訓練と称した女性を口説くゲームでは常に甘利、田崎と張り合っているようで帰り掛けの会話をちらりと聞いた際には、やれあれは反則だ、とか、人の女に手を出すな、など散々な内容だった。
明日は槍でも降るかもしれませんね。そう揶揄うようにクスクスと笑んだ千歳は、神永に視線を合わせる。
その瞳に、彼女は笑いをぴたりと止めた。
「本当に、槍でも降るかもな」
ひどく憔悴した彼の様子に、閉口した。
ぐしゃりと髪をかきあげ千歳の横をすり抜けた神永は月を仰ぐ。
常に陽を纏う彼の背に、陰鬱とした色を感じ取った。
「神永さん…」
「此処にきてもう随分と経つよな」
「え」
「面白そうだと思って試験受けたら、馬鹿みたいな内容でさ。こんな試験俺以外誰がパスするんだよ、て思ったら似たようなろくでなしがゴロゴロいたもんだから、面食らったの覚えてるわ」
唐突に語り出した神永に困惑する。何が言いたいのだろうと言葉の意図を思案した千歳に構わず神永は続けた。
「偏屈な講師や結城中佐から講義受けて、銃の組み立てから飛行機の操縦までさ、すげぇよな。今のご時世にこれだけの講義受けられところなんざ他にねぇよ」
それは心底楽しそうに神永は語った。今まで蓄えた知識、技術、天賦の才と掛け合わせたそれは彼らに莫大な力を与えその能力は極限まで高められた。
神永はその事実に大層喜びを感じたのだろう。嬉々として話す様は童子のようだった。
「他の奴らも化け物かってくらいプライド高いったらありゃしねぇ。本当に、………すげぇんだよな、此処は」
低く消え入るような声。
そして末尾の言葉に滲んだ哀愁を千歳は見逃さなかった。
(この人は)
心の底からの、楽しさ、を感じていた。
己の矜持を保ち、青天井のプライドを持つ同期達との日々。カバーの人格、カバーの過去、全てを作り変えられたこの場所でしかし彼は間違いなく、楽しんでいた。この状況を、この場所を。
この学び舎の中での生活が少なくとも彼にとっては、何かしらの想いというものを抱くに足りたのだとしたら。
千歳はそっと、瞼を伏せた。
彼らは孤独を受け入れて、光のない真っ暗な闇路を己の感覚だけを頼りに進み続ける。振り返ることはない、取りこぼす者も手を伸ばす者もなく彼は、彼らはこの先も歩んで行くのだろう。
ふと脳裏を掠めたのはあの漆黒の魔王だ。
待ち受ける運命は真っ黒な孤独だ。心を開かず己だけを拠り所として生きる。それが出来て当たり前で、それが出来なければ先に待つのは死なのだ。死を回避するためには、孤独を受け入れなければいけない。
「結城中佐の隣にはお前が居たんだよな」
背越しにぼそりと吐かれた言葉に僅かに秘められた羨慕の色。
ピクリと肩を鳴らした千歳は、口を開きかけて閉口した。言葉が見つからない。
「だからこそ、お前は此処にいるんだもんな」
吐かれた息に、顔を歪ませる。
確かに、彼の隣に常に存在した。その事実は変わらない。
しかし、それは彼に何かしらの理由を与えたわけではなかった。
神永から与えられる鬱屈した空気が千歳に伝染する。
生きるとは何なのだろう。
心臓が動き脳が働き任務を完遂し得ることこそ彼らにとっての生だとかの魔王は言った。生きることはすなわち、他者を排除した世界でひとり踊り続けることなのだと。あらゆる人形を操り、その糸がほつれないようにただひとりで踊り続けるだけ。
誰の目にも留まらず、生きる。
そんなことが本当に可能なのかと問われれば、彼らは面食らうだろう。当たり前だ、なんて事はないと。
それが出来なければならない、その為の此処での生活だった。
「なぁ、千歳」
震える声音に面をあげる。
(あ……)
振り返った神永の瞳に千歳は息を呑んだ。
ーー違う。
千歳はかぶりを振った。
それは化け物でも人でもない、そんなことが出来るとしたら神だけだ。
神永の揺らぐ瞳に、苦悶の色が浮かぶ相貌に千歳の心の臓が締め付けられた。
常にへらりと笑み心の内を伺わせない、誰にも己にすら執着しない神永という男は大層優秀で、孤独の路を難なく歩む。
そう周りに思わせるほど、彼は魔王に近い存在だ。血潮の通う人間という仮面の下に、冷血な笑みを浮かべる正に化け物。
けれど、彼は神じゃない。
彼もまた生きているのだ。
「神永さん」
「……どうしようもないな、心って言う奴は」
そう苦笑する彼は人間だった。千歳の目に映るのは確かに人としての彼だった。
ろくでなしであっても、化け物であっても、人間であっても、たったひとりで踊り続けることは出来ない。世界がなければどうして自分を認識できようか。自己の存在を確定させるには、自分以外のものが必要だ。
誰の目にも留まらないということは孤独を生きることと同義ではない。繋がりを絶ったとしても、記憶の中に残る誰かの面影が……此処での想い出が消えることはないのだ。
記憶を蓄積し、学び、その上で選び取っていくのが人だ。化け物であっても変わりはしない。
しかし、と千歳は瞳を伏せた。
(それでも貴方達は、止まることはない)
記憶に新しい彼らとの日々。
彼らがあらゆる技術と知識を習得し、他者の中にあっても存在を消すのはそれを凌駕するためなのだ。
彼らはその矛盾を抱えた上で、認識しなければいけない。己ならば出来ると、己ならば全てを虚構と認識し孤独を歩むことが出来ると。
不可能を可能にしなければ、彼らは彼らたり得ない。
その矛盾に殺されないために、己の心を殺さなければいけない。
此処での生活すら虚構だったのだと、己が抱いた感情すら幻で、孤独を進む為の布石に過ぎない。
それを認識できるという自負心を持たなければいけない。
苦しいと感じた。千歳の中に芽生えた人間としての感情が告げるのは、矛盾を生きる彼らに対する敬愛、愛憐、憐憫という入り混じった情。彼らを見てきた彼らを感じてきた千歳には重いものだった。
しかし千歳にはどうしようもない。どうすることもできない。
それが後の彼らの至福となるなら、それを見届けるまでなのだから。
伏せていた面を千歳は上げた。
ただ、…眼前から何処かへ消えてしまいそうな彼を見ては、何もせずにはいられなかった。
「神永さん」
月を背景にした彼は随分と儚く、端整な顔に落ちた光にそっと手を添えた。
「必要ないかもしれませんが、伝えておきますね」
仄かな笑みを携えれば彼が肩を揺らした。その様子に眉尻を下げ、添えた手で頬を撫ぜる。
「腹が減っては戦はできないでしょう?」
「……何言って」
「だから、いつでも大丈夫です」
両の手で包んだ相貌に、想いを乗せた。
「帰ってきて、ご飯がないなんてことはないですよ」
「暖かいご飯が食べたくなったらいつでも用意くらいはできますから。必要になればいつだって利用すればいいんです」
ーー此処は、どこにも行きませんから。
見開かれた瞳が揺らめき、やはり大層美しい人だと千歳は苦笑した。
彼らの道に必要なのは彼らだけだ。その為に全てを利用すればいい。心を人を、己を保つ為に使えばいい。
その程度でいいのだ。要らなくなれば切り捨てる、其れまでの存在として、この巣はあればいい。巣立った雛鳥が餌を啄む場所としての機能くらいは残してある。雛鳥達がいつか親鳥となる日まで、此処は巣だ。
どこまで行こうと、此処は此処だけは、何者でもない者達の空間なのだ。
「……何だよ、それ」
くつくつと神永が喉を鳴らした。先程までの哀の色が内に沈み、表に見えるのはいつもの神永だった。
「母親かよ」
「こんな捻くれた子どもを持ちたくはないですよ」
「違いないな。けど、」
両の手を今度は彼に掴まれる。それを降ろされると同時にその胸に顔が埋まり、暖かな感触が千歳の全身を包んだ。
「そういう場所なんだろ、此処は」
込められた腕の力に目を閉じる。あやすように背中をポンポンと叩けば、一層強く抱きしめられた。
彼らは人だ、まごうことなき生の通う人だ。
彼らは化け物だ、冷たく暗い闇の底で蠢く化け物だ。
その全てを受け止めた上で、巣はあり続けなければいけない。ただ、彼らが彼らであり続ける為に、巣は此処で待ち続けるのだ。
「大丈夫」
迷い子が生まれないように。
ただ、この生が続く限り待ち続ける。
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永遠の箱庭
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