澱んだ世界だ。モノクロ、灰色、色のない景色。彼方此方で見られる人間の醜態、疑心暗鬼な監視の目。何事もなく波紋も広がらないような群衆の生活と隣り合わせに軍靴は置かれている。
確実に進む崖の淵に誰も気づかない。その日が訪れるのはまだ先のことであっても、足音すら聞く能力のない民は、何が起きているのか何が起こるのか、全貌も分からずに渦中に飲み込まれて行くのだろう。
三好は紫煙を蒼穹に漂わせた。澄み切った空には雲ひとつなく、今のこの国の『平凡』を描いているようだった。
郊外の傾斜地にある住宅街。市でも一等地に設けられた整備された、その場所に三好はいた。
ちらりほらりと家族連れが見られる。ビル群を一望出来る公園は市民の憩いの場なのだろう。
「どうしたんですか、こんな所に呼び出すなんて」
日常を感じていた三好の背に聞き慣れた声音が届いた。待ち侘びていたその声に三好は緩慢に振り返る。振り返った先に見えたのは、皺のない真白のブラウスに鮮やかな青のスカートをたなびかせた、少女と呼ぶには大人びている女性。
珍しいこともある、と彼女、千歳は三好に眼差しを向けた。単調な声音は相変わらずだが、その中に見える僅かな色味がこれまでの彼女の変化を物語っていた。
「それでも、きちんと解読して来てくれたんですね」
戯けた態度を取れば、つまらなそうな視線が投げられる。
「解読も何も、コードブックに照らし合わせるだけでしょう。回りくどいことをしないで下さい」
「回りくどいことをしてでも来て頂けるほどの存在なんですね、僕は」
「そうです、と言えば満足ですか」
「さぁ、どうでしょう」
のらりくらり。今日のこの天気のように暢気な返答をすれば小さな溜息が聞こえた。
呆れる素振りすら、人形、無色だった頃の彼女にはなかった。否、あの頃ならば此処に来ることすらなかっただろう。淡く、薄く、色を重ねて行く彼女はこの世界を見て知って感じて。そうして色彩豊かな存在に変わっていった。
彼女が歩む軌跡に色が残る。どれだけ仮面を被り、心を隠し、誰かを演じようと彼女は決して色褪せない。
不思議だ、三好はそれが不可解でならなかった。
「千歳さんには、この世界がどのように見えているんですか」
この世界は灰色だ。三好の目に映る世界は、白と黒で形作られた人、物、景色。凡ゆるものはモノクロで単調な音を奏でる。
スパイは灰色の存在だから虚像の世界に色を見ることはできない、ということはあってはならない。何故なら、スパイだからこそ既存の色に囚われずに世界を知る必要があるのだ。一つの目だけではない、あらゆる視界を三好は手に入れなければいけない。
彼女は、色のなかった千歳は世界の色彩を知っている。
世界のどこに色が溢れているのだろう。
世界のどこから彼女は色を知ったのだろう。
「変なことを聞きますね、今日は」
目を丸くした千歳はしかし淡白な口調で疑問を呈する。
「それを聞いてどうするんですか」
「どうもしませんよ。ただ、知りたいだけです」
「らしくないですね。活用する気のものを知ることに意味があるだなんて」
薄く変わらない表層の上に、仄かな笑みが乗せられる。可笑しそうに、愉快そうに、彼女は小さく笑っていた。
それは、世間で華があると言われる令嬢や、一風変わっモガとは違った。三好の目に映る彼女達はいつだってモノクロで、その華やかさも風変わりな様相も全て同じ色、灰色のモノクロで、単調な世界に生きるただの人間だった。
しかし、彼女だって同じ世界に在るというのに、何故か矢張り、彼女だけは唯ひとつ色鮮やかなのだ。
「えぇ、らしくない」
とんと立ち上がる。春風がざわついた。童の声は何処か遠くに行ってしまい、千歳の視線は三好からビルがひしめく街へと移る。すぅと細められる瞳。落ちる目尻と上がる口角。
ざあざあと木々が揺らぎ、葉が擦れる音が耳につくのは彼女から目が離せないからだ。
ーー嗚呼、また貴女はそうやって…
色彩を放つ。目に映る鮮やかな世界を纏う。
色味を帯びた彼女が、色を内に留めるようにひとつ目を閉じ、ゆっくりと振り向いた。薄く口元を緩め、目尻を下げたその瞳の中。三好は息を呑む。
「千歳さん」
色彩の瞳の中にいる自分が、ひどく色づいていた。
「貴方が見る世界を僕は知りたい」
彼女の見る己が、ひどく鮮やかだった。
ーーーー
いつからだろう、世界が反転したのは。
千歳は三好の申し出に、かつて自分に見えていた景色を重ねた。
何処へ行こうと、誰と出会おうと、漆黒の魔王以外の存在はモノクロで、そして世界の音は単調だった。目に映る景色は機械的に処理され、耳に入る音はまるで機械音のように一定の音から外れない。
(嗚呼、でも一度だけあった)
千歳は小柄な彼と帰路を共にした日のことを思い浮かべ、懐古の念に笑みを零す。
しかし、千歳にとっての世界は恐らく、今目の前にいる魔王の卵と同じだった。
無色の、現実にも虚構にも、何処にも存在しない自分が見る灰色の世界。
それは、全てにおいて同じだった。世界は全て平等に同じ色と音として脳に送られる。
なんてことはない、世界とは単なる情報だった。見える世界、聞こえる世界、五感で感じる全ての事象をペーパーに書き写すことができる情報として受け取る。そこに情動なんてものは存在することは出来ない。
無機質な空間を切り取る日々。その日々を脳に書き写し、情報として受け取る平坦な日々。
ーーそうだ。あの時からだ。
千歳の追憶の欠片。掴み取り、覗き込むあの時。
あの時、彼らの『顔』を見てからだ。この世界に少しずつ、千歳が色を見始めたのは。
世界の誰よりも灰色であろうとした彼らが見せた色彩に、千歳は魅せられた。それはあまりに、虚構の世界に不釣り合いだった。
世俗で生きる大衆も、囲いの中で生きる軍人も、千歳の目に映るあらゆるモノクロより彼らは鮮やかだった。ひとりひとりが見せた色は違い、それが調和を生み出していた。
彼らにとってそれは不名誉かもしれない。溶け込むはずの彼らには不要なものなのかもしれない。
それでも、千歳はその色に引き寄せられた。
そして世界は反転した。世界は鮮やかだった。
その世界を前に、千歳は紡ぐ。
「私の見ている世界は、澱んでいますよ」
そう言い切れば、三好が首を捻る。不可解だと言わんばかりに眉間に皺が寄った。
千歳は続ける。
「鬱屈として、澱んでいて、何かに駆られて追い立てられて。そんな世界です」
脳裏を掠めたのは、実直な軍人だった。
口にした言葉は事実だ。この世界は今、何かに駆られている。その何かが分からず、飢えた獣の如く、猟師は羽ばたこうとする雛鳥を狙う。
焦燥感が募る日々はやがて無垢な童も巻き込み、時代の大きな畝りは全てを飲み込むだろう。目に見えぬ波に追い立てられ、逃げども逃げども終末が近づいていた。
軍靴はもう玄関に置いてある。先にあるのは、崖へと続く路だけだ。
世界の澱みが常に感じられる中、しかし、千歳の耳に届いたのは、親子で遊ぶ童の声だった。
ふと視線を遣れば、着物姿の母親が童と地面に絵を描き遊んでいる。別の場所では鬼ごとをしている子供たちが見えた。
「でも、ね。三好さん」
笑い声が響く。高く、透き通った空に良く通る声は、喜色に満ちていた。
それは、否、それも千歳が見る世界だった。
「それでも、世界は鮮やかなんです」
「……何故です?澱んだ世界は灰色でしかないのでは?」
三好の疑問は最もだ。鈍色は鈍色でしかない。
千歳はしかし首を振る。
「澱んでいるだけではないんです」
千歳の視線の先、無垢な笑顔を放ちながら走り回る童を三好も捉える。
世界は多面的だ。己が認識できるのは、その目で見た世界だけにも関わらず、多様な世界は厳然として其処にある。灰色、モノクロの世界が三好の見ている世界、自分が見る澱みしかし色づく世界。なら、あの童子たちは如何なる世界を受け取っているのか。
世界は、掴み取れないほど広い。
「澱んでいるだけじゃない色が其処にはあるんです。澱みの中に、暖かな色も悲しい色も、私の知らない世界があるんです」
視線の先にいる童達、慈愛の眼差しを向ける母、それは間違いなく千歳の知らない世界で、きっとあの暖色の他にも彼らはまた別の色彩を放つ。
千歳は思案する。
色彩とは生命そのものではないかと。
時は進み、人の営みは連綿と続く。時代が移り変わり、目に見える即物的な景色は変わっていく。
その中でも、人の本質は変わらない。醜悪な心と怨嗟の炎を持ちながら、しかし憐憫の情と友愛の瞳を持つのが人であると千歳は目を細めた。憎しみと愛を、怒りと許しを、相反するものを持つ、それが人だ。
一面だけではない、二面三面と多くの顔を持つ人間とは皆スパイなのではと他愛のない想いに千歳は苦笑した。
童が母に抱かれ帰路につく。合わせて、千歳の視線は三好に戻された。其処にいる三好は灰色と同時に矢張り三好の色を持つ。
全てを含めて、彼の色であり彼なのだ。
「ただ人が、命が生きているというだけで、きっと世界はモノクロじゃない。その数だけ、色彩が広がる」
視線が交錯する。赤い唇、象牙のように滑らかな肌、戯けた様子でプライドの高い男は其処にはいない。
千歳があの時触れた色。そして千歳に色彩を見せた色は、確かに其処にある。
脳裏に浮かぶ、無機質なコンクリート造の学び舎と顔のない化物達と漆黒の魔王。ひどく不確かで、歪で灰色の虚構は何色にもならないのかもしれない。
しかし、何色にもならないものは何色にもなれる。
千歳は触れたのだ。
紛れもない、其処にあった命の色に千歳は触れた。
「だから私には、世界が鮮やかに映るんです」
触れた世界は、モノクロには映らない。
一陣の風が吹いた。時が止まったかのような感覚が引き戻される。表層を止めていた三好が、破顔した。
「貴女は本当に、面白い人ですね」
くすくすと手を口に当てて笑う。眉尻を下げ、本当に可笑しそうに三好は笑った。
千歳は肩を竦める。
「質問の答えにはなっていましたか?」
「随分と回りくどいですけどね。僕のことを笑えませんよ」
「それは不名誉ですね。同じだなんてお断りです」
「全く、貴女って人は」
言葉とは裏腹に三好の声音は愉快そうだった。からりと、含みも何もない声は新鮮で千歳の口元が緩む。
「ただ、千歳さん」
緩んだ隙を見計らったかのように、三好の瞳は細められた。
「僕には必要のない景色ですね」
灰色が纏われる。千歳の前にいる彼は、『三好』を被る化物となった。目を見開いた千歳はしかし微笑する。
知っている。だからこそ、彼は、彼らは此処に留まることを許されるのだ。その矜持を胸に、己を高め、己を拠り所として。
そうですね、と相槌を打った千歳に、ただ、と三好が続けた。
「そんな景色を見る人間がいると知れただけでも収穫です」
そうは思いませんか、とニヒルに笑う彼を見て、矢張り千歳は安堵した。
ーーー
見える景色
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