視界に入ったのは、真白のブラウスに青地のスカートをたなびかせた彼女だった。キィ、と立て付けの悪い扉が鳴き、顔を上げた先に居た彼女は田崎を一瞥すると物を言わずに炊事場へと足を進めた。
何気ない光景だ。いつもの通り彼女は炊事場に立ち夕餉の準備に勤しむ。福本がいないところを見ると奴は訓練にでも出ているのだろう。

千歳が艶のある髪を一つに纏めた。くるりとひと反転させ頂部付近で留め金を使い括りあげる。見えた頸がやけに扇情的で、田崎は改めて千歳を下から上まで眺めた。

女性にしては逞しいが、男性のそれには劣る筋肉。程よく付いたそれは一層彼女の身体を引き締まらせている。
しかし、女性特有の尻から腰、そして上部へ行く曲線美は矢張り彼女が自分達とは違う生き物であることを示していた。

改めて彼女という存在を認識すると、その歪さがひどく面白いものであることに気づく。
魔王の側近であり、自分達と同じ訓練を受けた存在。
だが、女であるという一点がこの歪みを生み出しているのだろうと田崎は口角を上げる。歪んだ口元から発せられた言の葉に彼女はなんと答えるか。


「なぁ、千歳」


久方ぶりに彼女への興味が湧いた。


ーーーーー


珍しいことに彼は1人だった。
福本から夕餉の支度を頼まれたため、千歳は一人食堂へと足を進めた。青魚を焼くか煮るか、思案しながら踏み入れた先に居た田崎に一瞬足が止まる。いつもなら甘利と神永と共に外へと出掛けている筈の彼が、何をするわけでもなく座っていることには違和感を覚えたが、直ぐにその視線を外した。
何であれ、関係のないことだ。

外側の存在と認識した田崎に関わることなく手を進めようとした千歳に、しかし田崎から声が掛かった。

「なぁ、千歳」

弾んだ声音だ。千歳は視線を彼に移し、対称的に平坦な声で尋ねる。

「何でしょう?」

その色のない態度が気に入ったのか、目を細め三日月にした田崎は更に口元を歪めた。端整な顔に刻まれた深い笑みが不気味だ。
千歳の無色の瞳を田崎は覗き込んだ。


「女であることが嫌になったことはないか?」


数秒、言葉の意味を噛み砕く時間を要した。それはあまりにも無益で馬鹿げた質問だったからだ。
故に、その数秒経った後に発した感嘆文も稚拙なものとなった。

「はい?」
「つまり、男になりたいと思ったことはないか、てことなんだけれど」
「はぁ」

意味は分かる。だが理解はできない、その意図は。
男としての性を生きたかったと思ったことはないか。田崎のその率直でしかし何の足しにもならない問いに、瞬かせた目をひとつ閉じ、千歳は彼へと視線を向ける。

彼が、田崎という男が千歳に興味関心を向けることなど是迄に数える程しかなかった。
機関員の中でも田崎はとりわけ他者への関心が低い人間だと千歳は認識していた。カバーを渡される前の訓練生については、出自や特技などの簡単な情報程度しか知らされておらず、しかしその中でも田崎という男は嫌でもその内面を知ることができた。
社会的に盤石の家柄、揺るぎのない経済力。戦争が起きようとも前線に送られることはまず無いだろう。
しかし持て余す能力と青天井のプライドが彼を揺るがぬ立ち位置から飛び出させてしまった。
元は名のある家の出、そして強烈な自負心。彼にとって、世界の全てがゲームの盤上であり人は駒のようなものだ。

その田崎からの己に対する問いは、中身がどうであれ、たいそう珍しい。
千歳は、ふむ、と思案した。

「何故そんなことを聞かれるんですか?」
「特に意味はないさ。ただ気になっただけだ」
「それはまた珍しい」
「ひどいな。そんなに俺は千歳に関心がないように見えたか?」
「あまりお話をしたこともありませんからね」

コトリと陶器のカップを彼の前に置く。鼻孔を擽るアールグレイの香りに田崎は口角を僅かに上げる。眉目秀麗、口数も少ない田崎はティーカップ片手に紅茶を嗜む姿さえ絵になった。
人畜無害な顔をして、しかし腹の内に飼っているのは徹底的なほどの無関心と己への執着。

機関員の中でもタチの悪い部類に入るのではないか、と思いながら、千歳にとっても田崎のことは他人事であった。
機関員の1人、それ以下でもそれ以上でもない。話のタネとして撒かれた他愛のない問いに答えるくらいの関係だ。

彼が予想しうる答えはこうか。


「男なら、貴方方と同じになることができる」


しかし、ぼそりと呟かれた言の葉に意味など込めていない。


「興味がありませんね」


何故なら、考えたこともないからだ。


田崎は口元に弧を描いた。取り敢えずは、千歳の返しに彼の関心は惹きつけられたらしい。

「何故?」
「何故、と言われても」
「君は結城中佐を信奉している。しかし、彼の役に立ち俺達と同じ存在になるためにはその性別は足枷にしかならない。女は男とは違うだろう?」

見定める視線が身体に絡みつく。
やけに田崎が饒舌だ。答えを口にしたにも関わらず、何故どうして、と一歩ずつ近づいてくる。一定の距離を保ちながら、事象の外側で観測者の立ち位置を陣取る彼にしてはやはり珍しい。

「確かに、千歳は普通とは違う女性だ。俺達と同じこともできるし、思考も柔軟だ。ここに居るには十分の実力だけれど、それでも君は女だ」

まるで、女、という言葉に効力があるかのような口振り。弾む心内を隠すこともなく、描いた口元の弧を直しもしない田崎に千歳は肩を竦めた。

「感情に囚われない男ならば機関の一員になれる、ですか?」
「一度くらい考えたことがあるんじゃないかと思ってね」
「それは随分と見当違いなことですね」

愉悦を隠しきれない田崎に、彼と同じ三日月の瞳と歪んだ口元を作ってやれば、ピクリとひくついた頬を拝むことができた。
存外、低俗な煽りに反応を示す。

「自分の不可逆的要素を嘆くことに意味があるなら教えて下さい。もし、田崎さんに経験がおありなら、ですけれど」

無感動な笑みは彼の十八番だが、それを見事に再現した美麗な相貌を作り出す。
そのような無益な経験があるのなら、と言外の意味を含めた丁寧な煽り文を、削ぎ落とした感情で読み上げる。笑みを作った顔にはしかし感情を込めてはいない。
試す口振りと挑発的な問いに同等の価値を与えたまでだ。

あからさまな煽りに皮肉の一つでも返したくなるのは当たり前だろう。

固まった表情筋、光をスゥと落とした瞳。田崎は千歳に向けていた視線を逸らした。

見えた僅かな不満に、あらあら、と千歳は嘆息する。

「田崎さん」

ススス、と音もなく近づいた千歳の行動に田崎は、ギョ、としたように目を丸くした。その眉間に千歳の人さし指がパチンと当たる。
状況が読み込めずに目を白黒させる田崎に、千歳は目尻を下げ笑みを浮かべた。

「あんまり意地悪なことを仰ると、こちらもムキになってしまいますから。ごめんなさい」

そうして、己の眉間に指を当てる。

「そんなにしわを寄せないで下さい」
「……子ども扱いをするな」

盛大なため息を吐いた田崎に千歳は苦笑する。

爽やかな笑み、余裕のある態度。常に人のひとつ上から全体を見渡し、個々人を品定めする田崎のことだ。逆の立場はプライドが許しはしない。
存外、彼には子どもらしいところがある。青天井のプライドを持つ機関員の中でも、特に己のプライドと技量に対する自負の強さは時折彼の青さを露呈させる。

しかし、と千歳は尚顔を歪めている田崎を見つめた。

その青さもじきに消えていくのだろう。田崎という個人を存在を消し去り、まるで其処には誰もいなかったかのように振る舞う。記憶に残らない無意味な存在として、しかし確かに生きている、そのような不確かな者へと昇華していく。

だから今この時、彼が不満気に細い目を更に細めることはたいそう貴重だ。

千歳はくすくすと笑い、皺の寄った彼の眉間に人差し指を押し当て、力を込めてツンと小突いた。

「女であることを認めるなんて、簡単なことですよ、田崎さん」

改めて、田崎の問いに答えをやる。

何故、女であることを受け入れているのか。男でありたいと望まないのか。
絶対的に覆せない性という壁に対して、鬱屈した思いを抱くことそのものが無意味で無価値で馬鹿げていることはもはや自明である。
しかしそれ以上に、


「それを中佐が認めて、その価値をあの人が高めているのなら、私は何にでもなれますから」


絶対的支柱がそれを許容し、利用する術を示している。その一点だけで、千歳は千歳たりえるのだ。

考えれば分かることだ。千歳という人間を理解していれば、聞かずとも良い問い。
田崎はただ千歳を煽り、その反応を楽しみたかっただけだ。

「私に興味を示されたことはとても嬉しく思いますが、もう少しお手柔らかにお願いしますね」

にこりと彼特有の笑みを浮かべれば、肩を竦め田崎は苦笑する。

「怖いお嬢さんだ」
「お嫌いですか?」
「……いや?」

ふと、視線を落とした田崎の瞳が千歳の手の甲を見つめる。端整な顔立ちの彼が、伏し目がちになればそれだけで絵になった。

「田崎さん?」

首を傾げた千歳の手を田崎は徐に取り、そして授けたのは敬愛の念。
手の甲にそっとひとつ、落とされた口付けに先程とは真逆に千歳の瞳が瞬いた。

「敵わないな、君には」

思ってもいない賛辞に携えたのは極上の笑みだ。そこらの婦人ならば頬を染めるところだが、生憎と千歳にその情は欠片も見当たらない。

気障なことだ。互いに歪めた口元に一切の感情を置かず、ただ笑い合った。



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