ラヂオから聞こえる声はいつでも時節を告げる。
2月に総辞職した片山内閣に代わり外務大臣を務めていた芦田均が3月には新内閣を発足させた。春の掛かりの明るいニュースといえば、近いうちに素人が歌謡曲を歌う大会の全国版を開くという話題。
一歩一歩と言わず、二歩三歩、一段飛ばしで復興の歩みを進めるこの国は存外逞しい。

まだ寒気の居座る弥生の暮れ、男は木造二階建ての質素なアパートメントで薄ぼんやりとそのようなことに思いを浸らせた。い草の香りが鼻孔を抜ける。蒼天に走る白を格子越しに見上げ街の音に耳を傾けた。人が生活するあらゆる音が聴こえる。変わらぬ生活がそこにはあった。
男はひとつ目を閉じた。

実に平凡だった。
昭和20年、夏。米国率いる連合軍に無条件降伏した日本はその後敗戦国という肩書きを背負いながら、復興へ向けての明日を歩み始めた。
あの日を境に劇的な環境の変化があったかといえば、そうでもない。ただ、消耗戦を強いられた民草の重圧は無くなった。終わったのだ、戦争は。それだけで十分だった。

瞼の裏に男は思い浮かべる。
かつて、自分が育て上げた『化け物』と呼ばれた教え子達。強烈な自負心と自尊心、類稀なる技能とそれを習得する才覚は正に化け物と呼ばれるに足りえた。もともと化け物じみていた彼らを、真の意味で化け物へと導くことこそ男の役目であった。

結城中佐、男はかつてそう呼ばれていた。

「有崎さん」

コンコンと部屋の戸を叩き聞こえてきたのは大家の声だった。

「今開けます」

のそりと立ち上がり戸口へ向かう。立て付けの悪い戸を引けば、着物姿の壮年の女性が朗らかに結城を見上げた。

「突然にすみませんね。お仕事中でしたかしら?」
「いえ、少し風に当たっておりました。寒さは残っていますが、日差しが気持ちいいもので。……何かご用ですか?」
「それが、有崎さんにお客様です。我が子のように親しくしてくれた人だから是非会わせて欲しいということなんですけれど」

お通ししますか?と伺いを立てる大家に対して結城は軽く頭を下げる。

「お願いします」




「寂しげなところで余生を過ごされているんですね」

軽口を叩きながら部屋へと入ってきた青年に結城が向けたのは冷眼だった。栗色の髪、丸い瞳、年齢より若く見られる相貌だがそれでも月日の流れを感じさせるほどには老いていた。

「余生を過ごす老人を見舞いに来たのか貴様は」

馬鹿かと一蹴すれば、彼は肩を竦める。

「お変わりないようで安心しました、結城中佐」
「俺はもう軍人ではない。軍は解体されている」
「なら、結城さんとこの場では呼びましょう」

調子の良い答えに結城はニヒルに笑む。

「相変わらずだな貴様は」

ーーー神永。

そう呼ばれた青年はその響きに懐かしさを覚えたように口元を緩めた。

陸軍内部の秘密情報組織D機関。昭和12年の設立以降、神永含めた1期生の他にも結城は後進を指導し続けた。
パールハーバーの失態からは、泥沼化する戦争と悪化する戦局をいち早く終結させるための和平工作に奔走したが、結局のところ多大な犠牲が国家に出たことは否めない。
そして、結城の手足として世界を駆けた若者らも1人、また1人と姿を消した。彼の地で果てた者、スパイを引退した者様々であったが、あの無条件降伏を飲む辺りになれば大多数が結城の前から姿を消していた。
故に巣を畳むのは必然だったのだろう。戦争が始まった時点で日本の行く末は見えていた。米国とロシア何方かの勢力圏に取り込まれれば、遅かれ早かれ軍は解体され、国家のあり方そのものが変容することは結城も理解していた。

部屋へと戻り、腰を下ろした結城は座卓に置かれた茶を啜った。続いた神永も羽織を置いて真正面に腰を下ろす。不躾な態度なのは変わらないが、それでも育ちの良さが伺える。

「それで、何をしに来た」

訳もなく来ないだろうと視線を投げかければ、眉尻を下げ、神永は苦笑した。

「用は特にありませんよ。ただ、風の噂で魔王様が隠居されたと聞いていたので仕事ついでに顔を拝みに来ただけです」
「ほう。何の仕事か聞きたいものだ」
「そこは聞かない方がいいですね。聞いたら結城さん、戻りたくなるかもしれませんから」

軽薄にケラケラ笑う神永の言葉が物語るのは、彼の現在だ。それは言葉からだけではなく、纏う空気と立ち振る舞い。所作の一つ一つから窺い知れた。
かつて、結城自身が身を置いた、スパイマスターとしての立ち位置。今の神永はまさに、ーー

(多少の青臭さは残るか)

かつての魔王を追っている。

戦後、結城は第一線から身を引いた。スパイマスターとして暗躍した、陸軍諜報組織D機関の『結城中佐』としての仮面は、終戦を境に剥がれ落ちた。
もう一度D機関のような諜報組織を水面下で設立しても良かったかもしれないと、思わなかったわけではない。この国が米国の占領下から何れ独立し、国家として再び歩み始めた時に対外諜報組織のイロハが分からない連中ばかりではまた同じ轍を踏みかねない、そう感じた為だ。
しかしあの日、日本国民に歓喜と失意、形容しがたい激情を与えたラヂオからの放送があったあの日のことを思い起こし、結城は戻ることをやめた。

たった数年、後進達を育成した学び舎は灰と化した。その月日が走馬灯の様に脳裏に駆け巡り、巡っては目の前で消えて行く。
他の機関生達が誰1人として居ない中、畳まれた巣に居たのは、たった1人の女だった。
猛火に包まれ、その存在を闇に返したあの場に居た彼女は、佗しげに巣が畳まれるのを見守っていた。
結城の傍に立った彼女は、学び舎とそして結城を見つめながら、滔々と己の胸の内を紡いだ。

『幸せでした』

虚構の世界を愛おしみ、虚構と知りながら手を伸ばす。確かに其処にあった生活と、生きていた彼らを彼女は肯定した。
幼き日から共に過ごした彼女の、柔らかで慈しみのある相貌に結城は魔王らしからぬ思いを抱いたことを否定できなかった。

巣が畳まれれば鳥は巣立つだけだ。雛鳥も親鳥も巣立ち、新たな軌跡を織りなす。
軍に裏切られながら、強烈な自負心を胸に結城は歩んで来た。それは、まだ此処でやれるという自信と共に、愚鈍な軍上層部に国の舵取りを委ねてなるものかという強烈な愛国心があった為だ。国を想う、即ちーー

視線の先にいる神永を見据えて結城は目を細める。浮かぶ懐古の念は、かつて彼らを採用した時のことを思い出させた。

己の軌跡の中で失った身体の代わりに得た新たな手足達は正に国そのものだった。自分ならはできるという強烈な自負心の元、己の身一つで世界を駆けた時とはまた違う、後進達の教育。
彼らが自分と同じ境地に立ち、己を高め、生きて行くことそのものがいつしか結城の果たすべき役割となっていた。望み、と言っても過言ではないと引退した今では感じることもできる。

逝かせてしまった者もいた、決別した者もいた。多くを失いながらも、しかしこうして明日を担い、己を越えようとする教え子がいるのだ。

「馬鹿か、貴様は」

戻りたくなるかもしれない、神永のその言葉に結城は口元を歪めた。


「戻る必要がどこにある」


魔王は既に何処にもいない。口角を上げながら見据えた結城に、神永は目を丸くする。しかし、すぐに破顔しくつくつと喉を鳴らした。

「そうですね。もう席は空いてませんから」
「退く気もない癖によく言うものだ」
「酷いな、結城さんは」

頬を掻きながら笑う神永の瞳は、柔らかだった。



◇◇



夕時間近、昔話に花を咲かせる訳でもなく神永は早々に腰を上げた。顔を拝みに来たと言うのはあながち嘘ではないらしい。暇があればまた寄りますよ、と軽薄な言動を繰り返す神永に睨みを効かせれば、楽しげに笑うものだからまだまだこの男は魔王に程遠い。

見送りくらいはしてやろうと、玄関口までやって来た結城にハットを被った神永が思い出した様に声を上げた。

「そうだ、結城さん」

振り向いたその相貌は、どこかイタズラを思いついた子どものようで思わず眉を寄せる。
怪訝な顔つきとなった結城に構わず、神永は紡いだ。


「あいつらに、雛鳥が産まれたそうです」


彼の一言に、結城は刹那息を呑み、次いで僅かに口元を緩めた。

(これを言う為か)

邪気の無さそうな顔をして、腹の内を見せない。魔王には程遠い、その認識を結城は改めた。
そうして思い浮かべたのは、幼き日から共にいた彼女の姿だった。

脳裏に思い起こされる幼い女児の姿、己の言葉に娘はふたつ返事で先の未来を選び取った。
彼女は多くのものを見た、多くのものを聞いた。その傍の存在に気をやることも労わることもした記憶はない。それでも、同じ世界を体感した彼女は、育ち学んだ。
しかしそれにより、彼女が不完全で歪な存在へと形作られてしまったのも事実だった。何者でもないが故に色のない存在となり、彼らとの邂逅により色付き始めた彼女は悩み苦しんだ。
そこから、再び彼女自身が掴み取った未来によって彼女は漸く人となりそしてーー

「……そうか」

雛鳥が産まれた。結城は紡がれたその一言を噛み締めた。

紡がれる命があり、明日がある。雛鳥は親鳥となり、新たな雛鳥が産まれて更に軌跡が織り成される。

結城の一言に笑みを更に深めた神永は、何も言わずにその場を後にした。その後姿を見送り、結城は奥へと戻る。
もうじき夕暮れとなる時間は、遊びが終わりを迎える時間だ。町の喧騒が聴こえる。子どもたちが笑い遊ぶ。朱が混じる空に映える声色に結城は独りごちた。


「千歳」


久方振りに紡いだその名に感じたのは、今この場にはいない彼女への育ての親として情か。結城はひとつ目を閉じる。

ひとりの親として歩き始めた彼女に、静かに想いを馳せた。


ーーーーー


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