牡丹雪が降るあの日のことは鮮明に覚えている。
ひたりひたりと萌黄色の布きれを羽織り、降り積もる雪上をただ歩いた。母と呼ばれる人物の面影は思い出せない。靄ががった相貌にはなにひとつとして見出せなかった。手放された事実だけを、降り積もる牡丹雪と共に踏みしめていく。
辿り着いたそこが、何処なのかも分からないまま立ち尽くした。何処へ行けば良いのか、幼い己には分からずただ橙色に輝く母屋の中を羨望していた。
ガラリとその戸が開いたその時、温かな空気が肌を撫ぜたその時、千歳はもう一度生まれ落ちた。



生まれ落ちた時から歩んだ軌跡が途絶える。その事実を千歳は存外すんなりと受け入れていた。死ぬな、殺すな。生き抜くすべを教えられた魔王に顔向けできないと自嘲したが、この命に見合う仕事はしたという自負だけはあった。
そもそも、死は誰にも平等に訪れる不可避の事象だ。遅いか早いかという違いだけで、千歳はそれが早かった、ただそれだけだ。

あの日と同じような息を呑むほど美しい雪原の世界。暗闇が支配する筈の常闇の時間に、これだけ美しい銀世界をみることが出来るのは、頭上に広がるもう一つの世界のお陰だ。
見上げた先に、無数の星々が広がる。外光がないためその輝きはより美しい。冬の夜空に散りばめられた星々は、他の季節より輝きが一等増している。その放つ淡く力強い光と月光が照らす銀世界はなるほどいつにも増して壮麗な筈だ。

凍てつく寒さに身体が麻痺していく。脇腹にじわりと広がる朱色に苦笑し、千歳はその銀世界に背を向けて飛び込んだ。パウダースノーが頬にかかり、ひんやりと心地よい感触に眼を細める。

(嗚呼、本当に綺麗)

何処までも続く夜空に、彼方へと広がる星の連鎖。風はぴたりと止み、静寂が世界を支配する。たった一人、ひとりだけの世界。


D機関の機関員は真っ黒な孤独を歩む。誰も信じず、拠り所とせず、虚構の世界を相手に自分だけが現実となる、ひどく無機質な世界。その中でも、己の自負心が糧となり彼らは生きていく。それこそが彼らの望みであり、そして。

(希望、なのかな)

らしくない思考に千歳の口元が歪む。

曖昧で、不確かで、取るに足らない紛い物だと切り捨てられそうな、そんな考えだ。希望、実現可能かもわからない曖昧な望み。客観性と合理性だけを持ち合わせた化け物には不要の産物かもしれない。否、不要でなければいけない代物だ。
それでも、千歳は思わずにはいられない。

それこそが彼らの希望ではないのか。

自らの自負心、卓越した技能と知識、生き抜くあらゆる術、ひいては己の存在そのものが彼らにとって唯一無二絶対の希望なのではないか。
世界を否定し、隔絶された己だけの世界で生きる彼らにとって何よりの希望となるのは、他でもない自分という存在そのもの。

誰もが明日を見て歩く。それは絶望の中であっても一筋の光を見出しているからだ。どれだけの暗闇の中でも、光の存在を認知している限り、そこに希望は必ず落ちている。
希望を知っている限り、それを知っているからこそ人は生きていけるのだとしたら。

(……余計なお世話)

鼻で笑われそうな思考にくつくつと笑みが零れ、千歳は改めて己の軌跡に思いを馳せた。

己が生まれ落ちてからの足跡は後世にも誰の記憶にも留まらない。存在そのものが無に帰り、土に消えていく。千歳という女は何処にもいなかった。それは世界に認識されずに雪と共に消えていく。

しかし、千歳は知っている。


「私は、生きていたよ」


千歳だけは知っている。

あの日生まれ落ちたこの身は確かに魔王と共に生き、化け物たちと語り合い、時代を生き、この夜空を美しいと感じた。過去から今へと生きて、生き抜いて、己という希望を常に明日へと置いて追いかけ続けた。

それはとても光に溢れた日々だった。

常闇ではない。
敬愛する魔王に使われた喜び、明日を切り開く自負が、それだけで千歳の軌跡を照らす。
己の歩んだ路は、選んだ未来は決して闇路ではなかったと。

記憶の欠片が脳裏を駆ける。その多くに散りばめられた魔王の欠片をひとつ拾った。


「結城中佐」


届かぬ魔王もまた、希望だったのかもしれない。
その欠片が返される。


「ありがとうございました」


意識が沈む中、真横の雪に沈んだ足に目を細める。

ひどく穏やかに、千歳は世界を後にした。



――――――



希望
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