久方振りの学び舎だった。古びたレンガ調の建物。ヒビ割れの数も変わらず、裸電球が佗びしげに廊下をぼうと照らす。
イギリスでの任務から一時帰国の命が出て帰ることになった学び舎に、神永は幾ばくかの懐かしさを覚えた。懐古の念を込めたつもりもなかったが、存外まだ人間らしい部分があるものだと苦笑する。
訓練生時代は此処で同期と寝食を共にしたが、神永は現在、近場の下宿先に居を構えていた。他の面々も同様に、此処で過ごしたという事実を跡形も残さずに世間という闇に溶けていた。
結城中佐の執務室で報告を終えた神永は、ふと懐かしい顔を思い出し玄関へと向かっていた足を少し伸ばした。革靴を鳴らし、ドアを開けた先に見えたのは見慣れたテーブル。
そしてその先の炊事場へ視線を移せば、変わらぬ相貌を拝めた。
「これは、随分と懐かしい顔ですね」
己が思っていたことと全く同じ返しが来たことに神永はくつくつと声を押し殺して笑った。訝しむ顔に、悪い悪いと思ってもいない謝罪を口にする。
「変わらないな、お前は」
「変わる要素もないでしょう。神永さんは少し痩せられましたね」
「まぁ、色々とな」
「中佐の薬の訓練は役に立ったでしょう?」
揶揄する声音に片眉が上がる。すると、くつくつと喉を鳴らした千歳は、お返しです、と小さく鼻を鳴らした。
変わらない、と神永の顔が緩む。存外年相応の反応を見せる彼女は、魔王の忠実な人形でありながら、色が滲む化け物であり人であった。
何処か安堵の心を覚えて神永は胸を撫で下ろす。
視線を炊事場に移せば、思い出したように、匂いが鼻孔をくすぐった。白米、味噌汁、魚の煮物。神永にとって昔懐かしい、まともな、料理だ。
これは中佐用かと問いかけようとした刹那、
「あ、そうだ」
千歳が思い出したように声を小さく声をあげた。なんだ、とその背中を見つめれば、神永さん、と彼女はくるりと振り返った。
「おかえりなさい」
思わぬ言葉に、神永は瞳を瞬かせる。
なんてことはない言葉、ただの声であり音だ。
「あ、あぁ」
「……どうかしました?」
「いや、なんというか……その」
「?」
頭を掻きあげ、思い出したように紡ぐ。
「………ただいま」
そっぽ向き、ばつの悪そうに宣えば今度は千歳が目を瞬かせた。
しかしすぐに、くすりと笑みを零す。
「……はい、おかえりなさい」
それは、まるで母の色だった。その瞳は暖色に満ちていた。
柔らかな声音と眼差しに神永は返す言葉を見つけることが出来なかった。
千歳の表層に秘めた奥底の記憶が蘇る。
母の温もりなどとうに忘れていた。
(いや、違うな)
否、ありはしなかった。
あの家にあの場所にそんなものはなかった。
神永は、生活をするのに苦労したことはなかった。
しかし、何の不自由もなく過ごした日々はひどくモノクロの世界だった。
温もりはあったかもしれない、色彩が施されていたかもしれない。ただ、神永はそれを受け取ることはできなかった。
ただ1人、恐ろしく冷徹で欲の権化であった人間、かつて神永が『父』と呼んだ男が彼に与えた影響は計り知れなかった。
恵まれた環境の裏に巣食った孤独は、神永にとって好都合だった。
利用し利用される、世界はそんなものだと。優しい人間は何れ食われ、何もかも無くして世界から消えて行く。
孤独の中に居た神永に手を差し伸べた人間達も一人また一人と消えていった。
あぁ、これが世界か、と幼心にはっきりと理解したことを覚えている。
哀しいことが世界には多すぎる。理不尽と不運が重なり合い、負の連鎖が続く世界。
だから神永は、見ないフリをした。他者の温もりを享受しながら、その心を読み解きながら己と彼らを隔絶した。
心を受け取るな、理解するだけだ。血の繋がりなど関係ない。
そうすれば、冷笑も温顔も何も、向けられる感情を真正面から受け取らなければ己は囚われずに生き抜くことが出来る。
優しさは尊い。
しかしそれは脆い。
神永は、尊さを知りながら、決してその脆さに身を預けはしなかった。
愛情、友愛、憐憫。
人の弱さや醜さ、欲深く傲慢な性質だけではない尊ばれる精神を神永は否定しない。それを蔑みもしない。
しかし、それに固執し己を殺す真似もしない。
故に、千歳のその言葉もただの単語として受け取れば良かった。友愛の情という情報として受け取れば良い。
(それでも、なんだろうな)
神永は苦笑した。
何処かで安堵している自分がいるのだ。此処に固執するわけではない、彼女に懸想しているわけでも執着しているわけでもない。
ただ、この場所は矢張り他とは違うのだ。
神永さん?、と千歳が小首を傾げる。神永は丸い瞳を己に向ける彼女と視線を合わせた。
その瞳の中に見えた自分の相貌は予想していた通りだった。
ひとつ目を閉じ、神永は千歳の頭をくしゃりと撫でた。
「神永さん…?」
どうしたのだと己を見上げるその身体を今度は包み込む。女性特有の柔らかさと人の温もりを肌で感じた。
千歳はぴくりと肩を震わせながら、神永の行為を拒みもしない。
逆に、神永の背に彼女の腕が回された。ぽんぽんと、長旅の労を癒すように穏やかに背を摩られる。
神永は抱き締める腕に一層力を込めた。
ちらりと、先ほど彼女の中に見えた己の相貌を思い浮かべる。
それは、ひどく幼い相貌だった。
安堵した子どものような腑抜けた顔。常人には見分けのつかないその顔はきっとこの魔王の子には理解出来ているだろう。
実の家族にも誰一人として見せることはない顔だ。見せる必要もない。
ただ、此処がある限り、此処に舞い戻る限り神永の中の幼い部分が顔を出してしまう。
「神永さん」
離れた千歳が真っ直ぐ神永を見つめ、次いで破顔した。
「ご飯、食べましょう?」
その言の葉に神永の頬が緩む。千歳の柔和な笑みがひどく胸に沁みた。
「そうだな」
腹が減ったと返せば、すぐに温めると炊事場へとパタパタ去っていく。割烹着をつけて張り切るその姿に神永は目を細めた。
何れ、彼女の優しさは彼女の首を締めていく。
神永はそれを理解していた。そしてそれは彼女自身も理解しているだろう。それがわからぬほど、彼女もそしてあの魔王様も愚かではない。
それでも、此処でこうして、帰るか帰らないか分からない人間を待ち、いつまで続くか分からない虚構の城を保ち続けるその行為には、ーー
(意味がない、とは思いたくないな)
ーーそして、何より……
神永は千歳を見つめた。
蘇る訓練時代。己らの世話をし、共に暮らし、時に迷い立ち止まり、それでも前だけを向く小さな背中。
(悲しむ姿は、見たくない)
化け物ではない、ろくでなしではない、人として残っている神永の中の一部は確かにそう願った。
ーーーーー
彼の想い
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