佐久間という人間はひどく実直で曲がった事は例え演技でもできないような、そんな絵に描いたような軍人だった。
質実剛健、育ちも良く漢気もある彼はD機関という化け物の巣窟の中で誰よりも人として真っ直ぐな人間であった。
それは愚直とも言えるかもしれない。D機関で訓練を積んでいる者であれば、佐久間の思考は恐ろしく馬鹿げていて、到底理解しかねる代物だった。
天皇というただの人を現人神と崇めることも、国という曖昧な定義に忠誠を誓う様も彼らとは対岸にある思考で。
己の身を顧みずに友の為に胸を張って命を賭けることができる、とはなんと愚かで下らない思考なのかと多くの訓練生は鼻で笑った。
その佐久間が多くの訓練生から蔑視される中、そこに別の色を帯びた視線が加わった。
その視線は無色透明だった。佐久間を見下すことも敬うこともなく、ただ佐久間という人間をそのまま受け入れたのは1人の女だった。
初めての邂逅で、佐久間はその瞳に怖気が立ったことを覚えている。
何も映さない瞳は深い闇底を見ているようだった。佐久間を一瞥したその一時だけで、佐久間は彼女に畏れを抱いたのだ。怜悧な瞳が佐久間を捉えたと思えば、次にはもうそこに佐久間はいない。
不気味、と形容する他なかった。結城中佐以外の人間に対して、彼女は徹頭徹尾無色であった。
しかしながら、いつからだろう。彼女の瞳の中に、佐久間は己の存在を確かめることができるようになった。
交わした視線に佐久間は息ん飲んだのを覚えている。
揺らめく水晶体に映った己にたじろいだ佐久間に戸惑いながらも、彼女もまた佐久間を見つめ続けた。
彼女は確かに、化け物じみていた。
しかし、化け物じみた彼女は確かに色づいていった。
その彼女が、初めて佐久間という人間性を認識したその時、佐久間の感情は、畏れから興味へと移り行きた。
「お疲れですか?」
コトリと置かれたソーサーに淹れられていたのは、先日田崎がやんごとなき遊び相手とやらから贈られた珈琲だ。朗らかな笑みで婦人を誑かし、あまつさえ贈り品まで手にするなど、と彼を蔑視した佐久間に田崎は口元を歪めるだけだった。
そんな物を淹れるなと思いながら、佐久間は視線の先の彼女の心遣いに応える。
一口、無言で口をつけたそれは矢張り上質であった。
「物に罪はありませんよ、佐久間さん」
佐久間の心内を見透かしていたのか、彼女、千歳は眉尻を下げて苦笑した。仄かな笑みが彼女の人柄を表していて、この巣窟の中にも関わらず、人間を見ることができる事実に佐久間は何処か安堵した。
「すまない。だが、どうしてもあいつらのやる事は癪に触る」
「そうですね…。訓練の一環ですが、彼ら個人も楽しんでいる時がありますから」
「あの様な甘言で他人を惑わすことの何が楽しいのか理解に苦しむよ」
眉間を抑えた佐久間を彼らが見れば、理解をする必要が何処にある、とせせら笑うだろう。頭のお堅い陸軍軍人には縁のない世界だと、あの化け物達は嘲笑するのだ。
肩を落とした佐久間に千歳は四方系の銀紙を差し出した。
「甘いものは適宜必要です、どうぞ」
自らの眉間をツンと叩く彼女に佐久間は肩を竦める。
「あまり得意ではないんだ」
ぼやきながらも器用に紙を取り除き、口に含むのはやさぐれた心の所為か。
コロコロと舌上で転がせば、角が取れて丸くなる。じわりと広がる甘ったるい味が唾液と絡まり喉へと落ちる。
でも、美味しいでしょう?と温顔を向ける千歳に佐久間はやはり罰の悪そうに顔を背けた。
口いっぱいに広がる甘味にカップを手に取り、ひとつ苦味を加えて佐久間は一息つくと、千歳を見つめる。視線の先の彼女は、佐久間の瞳に小首を傾げた。
「佐久間さん?」
「なぁ、千歳」
「はい」
何でしょう、と先を促す声色は色彩を放つ。薄い笑みが見せるのは、彼女という人間の本質だと佐久間は感じていた。
色鮮やかな彼女の姿はひどく人間だった。想い、願い、細やかな心遣いは指先まで伝わり、その指先で彼女は人を陶器のように扱う。
この機関の他の誰よりも魔王と共に過ごし、化け物が何たるかを肌身に感じてきた彼女はしかし人間なのだ。
それを理解しながらも、佐久間は知っている。
彼女はまた、化け物でもあった。
「お前も、他人を利用できるのか」
しん、と空気が鎮む。佐久間の声は微かに震えていた。それは、暴かんとする佐久間の関心を嘲笑っているようだった。
優愛に溢れたその瞳で、破顔するその相貌で、人を赦すその人格で、彼女は対岸の存在を纏うことができるというのか。
あの、佐久間が畏れを抱いた彼女は確かに化け物で、しかしろくでなしとは何かが違う。あの己の能力に全幅の信頼を寄せている彼らとは決定的に違うのだ。
彼女は彼らと同じ存在になることができるのか。
佐久間はその問いを長らく胸に畳んでいた。無意味だと魔王なら一蹴するだろう。
しかし、佐久間は知りたかった。
彼女を知れば、或いは彼らのことをーー
「……それを聞いて、佐久間さんはどうしたいんですか」
凛とした声が佐久間に投げかけられる。佐久間は彼女と視線を交わした。交錯した彼女の視線に込められているのは、ただの無色透明な色だった。
呼吸を忘れるほど何者にも染まっていない、その清澄な存在に目を奪われた佐久間に、千歳は続ける。
「佐久間さん、以前にも申し上げました。私と彼らは根本的に違う存在です。彼らは己の矜恃を以って他人を欺きますが、私にはそこまでの自負心はありません。行動規範が違うんです」
淡々と紡ぐ彼女の今は、人間なのか化け物なのか、ひどく曖昧だった。
佐久間はその存在に息を呑みながら、尚食い下がる。
「しかし、お前もあいつらと同じように他人を利用できるんじゃないのか」
「必要ならばそうします。しかし、それは私の矜持のためではありません。故に、彼らとは本質的に異なります」
返される言葉はどれも何色にも染まっていない。事実を述べるその無機質な姿勢に佐久間はやはり彼女に彼らを見た。
彼らと同じ訓練を受け、同じ世界を見つめ立つことのできるその稀有な存在を、佐久間は知りたかった。何者をも映さないあの怜悧な瞳を持っていた彼女の後ろに見えるのはニヒルに笑う化け物達で。
佐久間の脳裏に黒く靄がかった彼らの姿が映し出される。輪郭のないその靄が彼女と重なりーー
「佐久間さん」
とん、と眉間に柔らかな感触が当たり、そのまま押し出された。くらりと頭が揺らぎ、目を白黒させた佐久間は彼女を見上げる。
何をする、と喉元まで来た言の葉はしかし、視線の先の相貌に飲み込まれた。
「違うんです」
其処に居たのは、1人の女性だった。
侘しげな微笑を浮かべ、佐久間を見つめていたのは無機質な化け物ではなく、ただの人間だった。
憂いを帯びた表情に佐久間は、はた、と気づく。
(……同じなわけがないだろう)
同じなわけがない。靄がかかった彼らが佐久間にニタリと笑った。
彼女を知るということ、が彼らを見極める一助になるのではと頭の片隅を過ぎった安易な思考。
あの化け物達に己の手が届くかもしれない。ある種隙のある彼女を絡め取れば、あの化け物達の面の皮を僅かでも剥ぐことができるのではないか。
冷然と、何者も映さない深淵を知っている彼女こそ、常に解せない彼らを暴く鍵になるのでは、佐久間はそう考えた。
しかし、彼らと同じ芸当を彼女がこなせるという事実はただそれだけのことだった。
閉口した佐久間は言葉を探した。儚い彼女の笑みに応えるそれはしかし見つからず、開いてはは閉じる口に彼女はやはり微笑する。
「私は、要らないものを取り込みすぎてしまったんです。例え、彼らと同じことを遜色なくできたとしても、もう、私は同じにはなれない。彼らが切り捨てたものを受け入れた私は、彼らとは違う、歪な存在なんです」
己が胸に手を当て、滔々と紡ぐその姿は人間だった。怜悧な瞳も、凍りつくような冷たい視線もない、ひとりの人間の心内を佐久間は聞いた。
僅かに口角を上げて作り上げている笑みとは裏腹に伏せた瞳の中に見て取れたのは哀の色で、その不完全さに佐久間はひとつ瞬いた。
「千歳」
するりとその場で立ち上がり、一歩彼女に近づく。
佐久間を見つめる丸い瞳に目を細め、佐久間は細く柔らかな髪を撫でた。小さな彼女の頭部を覆うのは無骨な手で、一度二度往復を繰り返せば彼女から疑問の声が漏れる。
「佐久間さん…?」
「……すまなかった」
佐久間はぽつりと謝罪の念を吐露した。
何に対して、と言うことが憚られたのは佐久間なりの気遣いというものだったのかもしれない。
化け物と肩を並べるほど己を無色にする術を持ちながら色鮮やかな世界を受け入れた、そんな矛盾した己に、哀愁に満ちた想いを漏らした千歳にひどく胸が痛んだ。
えもいわれぬ感情に口を噤んだ佐久間に、千歳がくすりと笑みを零した。
「なんて顔をしているんですか」
そっと、佐久間の無骨な手に添えられたのは、か細く白い指と柔らかな掌だった。己が両手で大柄な掌を包み込み、彼女は紡ぐ。
「やっぱり、佐久間さんは優しいですね」
「……からかうな」
「からかってなんかいません。きちんと私のことを考えて下さったんでしょう?」
「それは…、違うわけではないが…」
「ほら、やっぱり優しい」
目尻を下げて顔を緩めるその姿に、佐久間は目を奪われる。
「千歳…」
「佐久間さん。忘れないで下さい」
佐久間の手を握りながら、彼女は紡いだ。
「貴方のその真っ直ぐな心は、とても尊く愛しいものです。その心根は彼らには決して持つことができない。だから、忘れないで下さい」
お願いですよ、と冗談めかして顔を緩める彼女に佐久間はただ、ああ、と応えることしかできなかった。
化け物であり、人である。
ひどく歪で、それでいてひどく美しい、彼女の願いに佐久間はただ耳を傾けた。
ーーー
歪な願い
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