今じゃないいつか、此処ではない何処か。現在ではなく未来へ、或いは過去へと足を掛ける。踏み出した世界は時間軸の異なる今ではない場所で主人公はしかし其処で生きていかなければいけない。

暖かく湿った空気が肌に纏わりつく夜半、大東亜文化協曾の屋上で千歳はつい先日読んだ物語を思い浮かべた。
時間も場所も知らない地で生きていく主人公はその場所に適応していった。培ってきた価値観を反転させ、思考し、時には強者に迎合することで生き延びた。それは主人公の生存戦略であった。
しかし同時に主人公は無くしていく。己という存在が変質していくにつれて、元の世界で構成されていた人格がその輪郭すら朧げになっていった。自分は何者なのか、自分は何故生きているのか、何故此処にいて、何をなすべきかを見失いやがて心は蝕まれる。失意の中でしかし主人公は生きなければいけなかった。
冒険物の小説にしては随分と手厳しいと千歳は感じた。大衆受けするのは、大いなる試練に立ち向かう人間の姿だ。逞しく凛々しく、時に勇猛果敢に挑む姿をに人は己を重ねて心躍らせる。己を欺く生き方は人々の心に響かない。

雲のない夏の夜空の下、千歳は無数の星々を見上げた。

「こんな所で夜更かしか」

キィと戸が開くと同時に掛けれた声に千歳は振り向く。

「外の風に当たりたかったんです」
「へぇ。悩み事でもあるのか?」
「そう見えますか」
「いや?全然」

軽口を叩きながら彼、神永は慣れた手つきでマッチを取り出すと見慣れた四方系の箱から一本取り出して火を付ける。深く息を吸うと、その苦味を味わうようにひとつ瞳を伏せてゆっくりと紫煙を吐き出した。その姿すらサマになる優男を一瞥し、千歳は再度空を見上げた。

「神永さん達は星みたいですね」

ぽつりと漏らした言葉に意味など込められてはいない。ただそう感じた、それだけだった。千歳は、ぼう、と夜空を仰ぐ。

「やっぱりお前何かあっただろ」
「いえ、何もないですよ」
「なら何だよ、星みたい、て。ロマンチストか」

肩を竦めた神永に千歳はくすりと笑む。

「いつの時代も、何処であっても見上げれば星は在る。皆さんもそのような存在だと思っただけです」

手を空にかざせば、指の合間から一等星が顔を出した。拳を握っても掴み取ることはできず、その距離が縮まることは決してない。確かにそこに在るのに、届かない存在。まるで彼らではないかと千歳は苦笑する。
更に、その無数の星のようにこの世に散らばるあらゆる人間になることができる彼らは、己を無個性に変えることができる。彼等はあらゆる人間でありしかし彼らは自身である。

「何処までいっても、遠い存在ですね」

吐露したのはどのような心情なのか、千歳自身何かを求めて発しているわけではなかった。

彼らは物語の主人公のように己の存在に疑念を抱きはしない。迷うことなく闇路を進むその背中は孤高で美しい。己の在り方は己が決めることは自明のことであるようで、その実人は他者がいなければ己を認識できない。だというのに、彼らはそれすら呑み込んで尚孤高であることを望むのだ。

「星を掴みたいのかお前は」

神永の言葉に千歳は振り向いた。視線の先に映った彼の相貌からは何一つとして読み取れない。神永はただ千歳を見据えていた。
神永の問いに千歳はかぶりを振る。

「掴むことを考えることそのものが無意味でしょう」
「なら羨望か、お前自身がそうなりたいと」
「それも違います。なりたいとは思いませんしなることができると過信してもいません」
「なら、お前は星に何を思う」

何を、と問う神永の瞳はあいも変わらず色がない。己に灯す明かりを此処まで覆い隠すことのできる神永は矢張り優秀だと千歳は苦笑した。
緩慢に夜空に視線を逃し、千歳は思案する。言葉の意味を理解し噛み砕き、己の想いというものを紡いだ。

「ずっと、輝いていて欲しいです」

嗚呼、そうだ。ひとり合点が行き、千歳は目を閉じる。
己を見失い、己の存在に疑念を持ち、徐々に漆黒に呑まれていく人という存在ではない。
何者でもなくても良い、ただ其処に在り生きて活きて、己が輝きを見失わない。

「私が認識できなくても、輝いて欲しい…それだけなんだと思います」

これが羨望というのならそうなのかもしれない。これは、まごうことなき千歳の願いだった。
呟いた言の葉で己が心を認識した千歳に返ってきたのは化け物に似つかわしくない温もりで。

「馬鹿だろ、お前」

頭部に感じる人肌に千歳は瞳を瞬かせる。

「神永さん?」
「本当に馬鹿だよ、お前は」

呆れがかったその声はしかしどこか色付いていた。


ーーー


星に願いを

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