透明人間のようだと佐久間は感じた。佐久間の視界に映る彼女を佐久間はそのように感じた。
外光を背に、顔に影を落とした男の相貌は窺い知れない。黒い影となって佐久間を見据える傍に立っていたのは、場に似つかわしくない人間だった。
年の頃は20歳前後か、或いはもっと上か下か、それすら判然としないのは彼女があまりにも存在を感じさせないからだ。そこに居るにも関わらず、瞳が向かうのは虚空で佐久間を映してはいない。息をしているのか、それすら疑う程だった。まるで人間ではなく精巧な人形が其処に在るようで、佐久間は狐に化かされているような感覚に陥った。
「何を呆けている」
低く、地を這うような声が響く。黒い影から発せられたそれに佐久間は、はた、と現実へと戻った。
「し、失礼しました!」
女に気を取られていたなど軍人たる己にあるまじき失態だ。佐久間は背筋を正した。
黒い影が緊縮した佐久間に視線を向ける。その視線が己を捉えた刹那、佐久間はヒュッと息を呑んだ。
黒い、どこまでも黒く深い闇の広がる瞳だった。佐久間の表面だけではない、奥底の深淵を覗き込むような射抜く視線に佐久間は硬直した。冷や汗が溢れ出し、頬を伝う。
生唾を飲み込んだと同時に、影の視線は緩められた。
「楽にしろ」
その一言で佐久間は呼吸することを許された。止まっていた肺の活動が再開され、佐久間はほっと胸を撫で下ろす。ひとつふたつ息を吸い吐いたところで佐久間は再び視線を走らせた。
人形のように無機質な彼女はあいも変わらず佐久間をその瞳に映してはいない。
存在しているのかしていないのか、人間相手ならば例え敵国の兵士であろうと感じるであろう生を彼女からはひとつとして感じない。
それはひどく不気味であった。相手が人間ではない、得体の知れない何かであるのではと感じた佐久間が彼女に抱いたのはーー
(馬鹿馬鹿しい!)
何を世迷言を、と佐久間は己を叱責する。其処にいるのだ。人以外の何がある。
しかしながら、佐久間が伺った視線の先の影は到底人とは思えない存在であった。
「ーー以上が建物の説明です。ご質問はありますか、中尉」
無駄な言葉を削ぎ落とした簡潔明瞭な説明に呆けていた佐久間に掛けられたのは、淡白な声だった。
佐久間に比べて華奢な体躯、女性であることを如実に表す曲線を描いた肢体に、無遠慮な視線を遣っていた佐久間は慌てて返す。
「あ…あぁ、問題ない」
何をしたというわけでもないが、バツの悪さに視線が迷子になる。目が右往左往する佐久間の心中は穏やかではなかった。
人形のように生を感じさせない彼女はしかしこうして佐久間と会話し息をしている。ちぐはぐな現実に佐久間は言葉を探すが何一つとして出てこない。
異質、不気味、妖の類と言われた方がまだ信用できる。幼年期からの軍校育ち、根も葉もない噂話など与太話と切り捨てるような佐久間でも、目の前の女を己と同列の人と認識することは憚られた。
ごくりと生唾を飲み込む。こめかみから頬を伝い顎へと溢れた汗がはたりとひとつ落ち、佐久間の仕立てたばかりのスーツにシミを作った。
まるで強烈な圧がかけられたかのような時間に佐久間は無意識のうちに息を止めた。
怜悧な瞳が佐久間を捉える。何を覗くこともできないそのまなこから目を離すことも出来ずに佐久間は蛇に睨まれた蛙のごとく固まった。
彼女は、何度か瞬いた。
「……なら、失礼します」
視線を下げた彼女は佐久間を再び見遣ることもなく歩き去った。
その遠ざかる足音を聞きながら佐久間はひとつ息を吐く。許される呼吸に喜ぶ肺はめいっぱい息を取り込みゆっくりと吐いた。
(恐ろしいな)
佐久間は顎を伝った雫を乱雑に拭う。
去り際、佐久間の元から離れた彼女に感じた畏怖の念。思い返しても佐久間の芯は底から冷える程だった。
佐久間へ向けられていた関心が役目を終えたことで消失したと同時に、彼女の瞳から佐久間が消えた。彼女は佐久間を見ながら、佐久間という人間を見てはいなかった。佐久間が、実の伴わない器と化した瞬間彼女の関心は佐久間から消えた。
徹頭徹尾、感情を削ぎ落としたその様に佐久間はやはり彼女に魔王を覚えた。
ーー
小魔王
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