絢爛なダンスホールは若い男女が入り乱れる。流し目で女を誘う男と乗る女、そこに溢れているのは情欲というありふれた人間そのものだった。
ステップを踏みながら腰に沿えた手に色を乗せる。流れる欧米の音楽はアップテンポで、それだけで若者の心を擽った。音楽に乗らされて踊るのは身体か心か、軽快なリズムは麻薬のように空間を彩っていた。

煌びやかな色の世界に小田切は嘆息する。片手に持ったワイングラスから赤紫の液体は消える気配がない。喉に流し込むのを惜しむようにゆったりとグラスを揺らした。
小田切は軍人出だ。慣れ親しんだのは、華の枯れた荒地、即ち男所帯のむさ苦しい軍人寮であり髪を伸ばした男女が気もそぞろに互いを見遣る空間ではない。打てば折れてしまいそうな優男達の甘言があちらこちらで上がる度に、どうしてか女は口の端を吊り上げて笑むのだ。
D機関の一員である以上、それをこなすこと自体に問題があるわけではない。命令されれば、屈強な軍人であった小田切は鳴りを潜めて雄弁な好青年が顔を出す。澱みない誘い文句を舌に乗せることなど造作もない。瞳の奥に劣情を忍ばせることも、それを表に出すことも、命令があれば何ということもなく遂行する技量はある。その自負心は他の機関員と同じように小田切にもあった。

がしかし、それを楽しんで行うかと言われれば話は別だ。

小田切はグラスに口づける。酒に酔いでもすればこの欲にまみれた世界を堪能できるのかと無意味な思考が頭を過ぎったが、すぐに首を横に振った。
女を買う、男を漁る。ダンスホールの利用法がそれだけでないことは、小田切は重々承知していた。時にここは紳士、即ちスパイの社交場として機能する。
故にこうして、訓練の一環で小田切は訪れていた。銀座のダンスホールは盛況だ。軍歌が歌われる世であってもこの場だけは浮世として煌めく夢を見ることができる。お忍びで火遊びをする夫人が散見される理由もよく理解できた。どのような艶聞が広まろうとも、この場だけは世界が違うのだ。

(適当に過ごすか)

グラスに透ける赤紫越しに見据えたホールに嘆息すると、小田切はそれをひと飲みした。
他の機関員が訓練を執り行っている様子も散見される。
女に熱視線を送っているふりをしながら、時折その視線が己へと移ると小田切は唇を噛んだ。

(ふざけやがって)

渋面を広げたい衝動に駆られながらも平静を装う。

――何をもたついているんだ、貴様は。

視線に含んであったのは嘲笑。切れ長の目が、丸い瞳が小田切を捉えては、その刹那のうちにニヒルな笑みと視線を同時に寄越した。
状況を楽しんでいる者、楽しんでいると錯覚させるもの、もはや誰がどちらの立場なのかすら分からない。それほど鮮やかに演じ切る様はまさに彼らがスパイということを体現していて――

(ふざけているのは俺の方か)

湧き上がっていた憤りが、それを理解した瞬間あっという間に四散する。スッと体から荒々しい熱が引いた。
思考しろ、演じろ。自分ならばできて当然だ。
手ごろな女を掴まえて、ひとつ夢を見せるだけの作業。奴らができて己ができない道理はない。
新鮮な空気を肺に送り込み、小田切は夢の世界とその中で踊る道化達を見据えた。流れ聞こえるメロディを身体に染み込ませ、己も道化となるべく静かに目を閉じる。簡単なことだ、己ならば造作もない。

息を整えた小田切の視界が暗闇から光を取り入れる。煌びやかな世界を瞳に移したその時だった。

(……あれは、千歳?)

視界全体にひしめく群衆の中、小田切の視線は一人の女を捉えた。
無機質な相貌が見つめているのは道化師達の遊戯。ひっそりと佇む様は儚さを感じさせる。
色のない眼差しが物語るのは、彼女が此処にいる理由だ。
訓練の監視員として度々彼女は訓練生達の前に現れる。何処に潜んでいたと眉根を寄せるほど、彼女は常にいつの間にか姿を見せた。数多の人の波の間に身を顰め、その波に巧み乗ってやって来るのだ。
確かに存在するというのに、その存在を認識しづらい。彼女は、まるで透明人間のようだった。
他の訓練生達が投げる視線の数々を、無機質な瞳で跳ね除ける。そこに気を良くしたのか、多くの者が至極愉快そうに笑みを浮かべた。
誰の目にも留まらず、ただこの茶番劇を鑑賞する彼女はひとりだった。ただひとりだけ、この場に溶け込むことなく世界を俯瞰している。道化師達はその彼女を見遣っては、歪んだ口元で愉悦に浸る。
壁に貼りつき、無き者としてただそこに在る彼女に小田切は視線を奪われた。
徐に踏み出した足は、雑踏をかき分ける。そこらかしこに散りばめられた華に見向きもせず小田切の足は進んでいく。軽快なメロディも男女の囁きも色のついた視線も何もかも、今の小田切の足を止めるに足りない。
淡々と歩みを進めた先で、ぴたりと立ち止まる。
これは気まぐれかもしれない、どこにも意味など落ちていないのかもしれない。そう感じながらも小田切は、目の前の彼女に手を差し出した。

「壁の華はお前には似合わない」

紡いだ言葉は甘言とは程遠いもので、我ながらやはりこの才は他に劣るかと自嘲する。耳元で艶のある言の葉を、或いは熱視線を絡めれば、多少はサマになっただろうか。
それでも、今の小田切がこの透明な化け物に対して出来ることと言えばこの程度で、何の色も乗せていない眼差しを彼女に向ける。やけに鼓動の音が大きく聞こえるが小田切は視線を外すことなくじっとその眼を見据えた。
監視役として壁と同化していた彼女は無機質で無感動なあの相貌――

「……なんですかそれ」

ではなく、破顏した。目を瞬かせた後に、ふわりと蕾が花咲くように可憐な笑みを零した。
至極おかしそうに、眉尻を下げてくすくすと笑う様は年相応の女性で、認識した瞬間小田切を気恥ずかしさが襲う。

「思ったことを言ったまでだ。壁に貼りついたままだと不自然だろう」
「適当に踊ろうとはと思っていましたよ。まさか、小田切さんに誘われるなんて思いもしなかったですけど」
「不満か」
「いいえ?」

――むしろ、嬉しいですよ。

耳元でこそりと打ち明ける彼女は、本当にあの千歳なのかと疑いの目を向けたくなるほど色鮮やかで、花色を纏った彼女は小田切に目配せする。仄かな笑みにほだされているなどありはしないと自戒を込めながら、小田切は柔らかなその手を取った。
重力など感じさせないような、滑らかな足運びで千歳は小田切に誘われる。化け物達の好奇の視線に一瞥もくれずに彼女は小田切に微笑みかけた。

「さ、踊りましょう?」

至極状況を楽しんでいる笑みに悪い気はしないなど、誘われているのはどちらだろうか。
小田切は苦笑しつつも彼女の手の甲にひとつ口づけた。
メロディラインに身を任せて2人ステップを踏む様が化け物達の瞳にどのように映っているか定かではない。珍妙な、或いは滑稽な、無意味な遊戯だと鼻を鳴らしているかもしれない。
それでも、今この時を小田切はひどく気に入っていた。
千歳と視線が合わされば、ぱちりとひとつ瞬いた後に目じりが下がる。柔和な顔つきが小田切に向けられた。

(…悪くはないのか)

至近距離で見詰め合う彼女の相貌が嘘か真かなどたいした問題ではない。
ただ、目の前で華を見せるその姿と、それを心地よく感じる己自身は確かに本当なのだ。

曲の終わりが近づく。色めいた男女の交わす視線はますます熱を帯びていった。
あと少し、この時が終わればまた彼女はあの無機質な人型へと帰るのだろう。
化け物らしからぬ感情が掠めた刹那、一等高い音の群が場内を巡り、男女の色の駆け引きは頂点に達した。

「小田切さん」

喧騒に紛れて、千歳が小田切に語りかける。
小田切が視線を落とせばそこにいたのはまだ人形ではない彼女で、かちりと視線が合わさったと同時に、口元が子を描く。
その艶っぽい唇に心臓がひと鳴りしたことを確かめたのか、彼女は小田切に口元を近づけた。

――抜け出しましょう?

指向性を絞り、角度を計算しつくしたたった一言。
至近距離の顔が離れた時には、艶やかさはなりを潜めていた。小田切の前に居たのは、ただダンスを楽しむ千歳だった。

(敵わないな)

どうせ楽しむのなら、道化師達さえも欺けばいい。
視線ひとつで応を示した小田切に千歳は満面の華を咲かせた。


――――


花摘み
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