死ぬな、殺すな、囚われるな。彼の魔王が自分達に課した不文律。
死ぬな、それは己の力量のなさを露呈させる。殺すな、それは任務遂行を阻害する。囚われるな、それは世界を見ることを放棄する。
真っ黒な孤独を歩むD機関のスパイにとって特に重要なのは、囚われないことだ。人に、情に、金に、死に、凡ゆるものに囚われてはいけない。己ならばこの程度のことをこなせるというのならば、何事にも囚われることなく世界を股に駆けることが必要とされる。
己が生をただ貪欲に生き、貪欲に消費するユートピア。そこに他者が介在する余地はなく、無論その情などは全て虚構だ。意味など求めてはいけない。
それは無意味で無価値で馬鹿げている。取るに足らないと一蹴すべきものなのだ。

そう、つまり今のこの事態も神永にとっては至極意味を必要としない事象だった。

「貴様は何も感じないのか!!」

神永の目の前の男は忿怒の形相で神永に詰め寄った。青筋が見えるほど興奮した男は怒りに染まった瞳を神永へと向けている。
湯気が出そうなほどの怒りとは対照的に神永の面は涼しげだ。

「何を感じるんです?」

疑問の体に添えた嘲笑は、態と悟らせるためだ。口角を僅かに上げ、小さく鼻を鳴らせば「貴様っ」と男は抜刀の態勢をとった。
が、勿論、角刈り頭をきちりと伸ばした上の背広姿の腰に目当ての品はなく、空を切った己が両手に男は現実を認識して歯軋りをした。
男の視線が腰へと向き、短く舌打ちすると再び神永へと向かう。
おお、怖い怖い。そう肩を竦めながらも、神永は目の前の男を心の底から見下していた。
取るに足らない感情の為に己のエネルギーを使うその様は実に滑稽で馬鹿馬鹿しく、義憤に駆られて叫ぶだけの無能者とさえ思っていた。
神永にとって、目の前の男はその程度の認識しかなかった。
男は神永の隠そうともしない高慢な態度に更に口を開きかけた。

「神永さん」

喉から音が発せられる刹那、凛とした声が2人の間に割って入った。ピリリと張り詰めていた空気を裂いた鈴の音に2人揃って音の主を見遣る。
透明な色のない女性。無機質な表層からは感情を何1つ読み取れない。

「中佐がお呼びです」

彼女は、千歳は手短に用件を伝えると、視線を神永に向けた。澄んだ瞳を神永も見つめ返す。深みのある茶の中から彼女の言葉を探し出した。
神永はふと笑いを漏らすと、肩を竦める。
見つけ出した彼女の言に応えるべく、男に向き直った。

「それでは失礼します、佐久間さん」

歪んだ口元が男、佐久間に与える憤りを知りながら、神永は性懲りも無くまざまざと見せつける。
ふざけるなと一歩踏み出しかけた佐久間を制したのは彼女で、

「中佐がお呼びですから」

それは絶対の命。魔王の使い魔にとって破ることの許されない不文律。
有無を言わさない瞳だ。鈍色の視線が佐久間を貫けば、佐久間は燻る激情を内に閉じ込めるしかなかった。


「佐久間さんは相変わらず頭が固いんだよな」

裸電球が侘しい廊下を、からりと笑いを飛ばしながら神永は千歳と進む。
佐久間という男は実に実直な男だ。質実剛健、当に軍人となるべく生まれたような男だが、育ちの良さを伺わせる所作を垣間見たことは何度かある。外国語も、英語だけではあるが堪能だ。
彼は驕らず、芯の強い男である。
しかしながら、この学び舎ではその実直さには如何程の価値も見いだすことができない。
陸軍内部に秘密裏に創設されたスパイ養成学校。その中で、愚直に軍人たろうとする姿は実に滑稽でしかない。
スパイは孤独の存在だ。故に、誰をも信じず己を預けることをしない。世界は常に己の目に、耳に入る情報から構成され、そこに情などという曖昧で不確かな要素は入る余地がない。

佐久間が神永に詰め寄ったのは、その情を神永が軽視した為だった。

「女遊びのひとつやふたつ、何がそんなに気に食わないんだか」

ポケットから取り出した煙草に火をつけて紫煙を吐き出す。深い溜息と共に吐かれた煙は空を濁した。
女を誑かす、などジゴロの訓練で常日頃から行われていることだ。遊び慣れている遊女からガードの固いご婦人まで、スパイならば手広く扱えるようにならなければいけない。
後腐れなく別れることができればそれで良し。自分達はあくまで任務の一環で情を交わすだけだ。
しかし、それを佐久間を知らないほど馬鹿ではない。そのような訓練があることくらいは事前に理解はしていた。
その上で、佐久間は彼に詰め寄ったのだ。

「そんなに嫌かね、女の涙ってやつは」

神永は大仰に肩を竦める。

今日も今日とて、神永は訓練に精を出していた。
ふらり、街へと繰り出して捕まえたのは理知的な婦人。道に迷っていたところを助けただけだったが、神永の快活な話ぶりと甘いマスクに引き寄せられたらしい。みるみるうちに彼の術中にはまり、気づけば、たどたどしい口調ながらも熱視線を彼に送るようになっていた。
夜半になるにつれて、深まったのは闇だけではなく身体の関係で、嫋やかな淑女は艶姿を神永に見せてくれた。しっとりと濡れた陰部と瑞々しい肌の感触、そして昼間とは打って変わって高く響いた嬌声、ただの訓練にしては随分と甘い汁を味わうことができた。

ずぶりと深みにはまった婦人とは別に、神永はその沼の淵で彼女をただ眺めていただけだ。
故に明け方、婦人に別れの言葉を残して立ち去ろうとした神永に彼女は口を噤みながら大粒の涙を瞳いっぱいに溜めていた。真一文字に結ばれた唇にそっと人差し指を当てて神永は優男の皮を被る。
ごめんね、ありがとう。紡いだ台詞は優しさに満ち溢れているようだが実のところその欠片も見当たらない。
反吐が出るほどの言の葉さえ、女にとっては想ひでとして大切にしまわれる。きつく結ばれた唇が緩むと、女はなけなしの己の矜持を持ってひどく不恰好な笑みを見せた。

『こちらこそ』

「遊びとはいえ、訓練の一環だと視察に来たのはあの人のくせに、泣いて去った婦人を見て義憤に駆られるなんて俺には理解し難い感覚だな」

己に語気を強めて迫った佐久間を思い出して神永は吐き捨てる。
佐久間個人も内容は理解していた筈だ。それでも佐久間が神永に憤怒の形相を見せたのは、おそらく最後、彼女が己の痛みを堪えながら笑みを携えたからだろう。
瞳を濡らす雫がはらはらと落ち、上等な外着を濡らしていた。それに構うことなく彼女はひどく真っ直ぐ神永を見つめていた。神永という男にそれほど彼女は傾倒していたのだ。

心を奪われた女は佐久間の目にどのように映ったのか。
それは、神永の知るところではない。

「女の涙の意味なんて、知ったことじゃないな」

気怠く吐いた言葉と共に出た紫煙が先を濁す。煙たさを見に纏い、息を吐いた神永は千歳に向き直る。

「……で、この手はなんなわけ」

己が左手を挙げれば、引っ付いてきたのは彼女の右手。じとりと鈍い視線を彼女に寄越してやるが、ちょっとも響かないらしい。神永を映す瞳に揺らぎはない。
魔王の執務室へと歩みを進めていた神永は必然的に足を止められた。
千歳はそんな神永の静かな抗議を物ともせず、代わりに、神永の問いに表情ひとつ変えずに答えた。

「あれは嘘です」
「………は?」
「中佐は神永さんをお呼びじゃないですよ。佐久間さんから離す為の嘘です」

あっけらかんと口にした彼女に神永は面食らった。言い難そうにするでもなく、彼女はするりと己が行動の所以を述べた。
何の為に、と直ぐに湧き上がった疑問を神永が口にする前に、彼女は彼の手を離して踵を返す。

「それではこれで」

要件は済んだ、とこれまた呆気に取られる神永を残して彼女は来た道を戻ろうと足を踏み出した。
呆けていた神永は反射的に彼女の肩を掴んで振り向かせる。

「いや、待て」
「……何かあるんですか?」

淡白な声音で問い返す彼女の真意が理解できない。
神永は溜息を見せつけた。

「大ありだろ。何の為にそんなことしたんだよ。あのまま佐久間さんが俺に噛み付き続けることが見てられなくなって、助け舟でも出したのか」

訳もなく、意味もなく、彼女が動くことなどありはしない。考えられるとすれば、あの愚直な軍人を哀れんで、と彼女のしてはひどく情深い理由だけだった。
以前、佐久間中尉を試したジョーカーゲーム、常日頃から行われている罰金、挙げればきりのないほど彼はこの化け物の巣窟で、一飲みされることなくじっくり時間をかけて食われ続けている。そして彼女は時折それを見て眉を顰めては彼に微力な助けを出していた。

そんな、存外情深い彼女のお節介なのか。
神永の問いに彼女はきょとんと首を傾げた。

「佐久間さん、ではないですよ」
「……言っている意味が分からないんだが」
「分からないなら、分からないままで構いません」

不明瞭な回答に益々疑問符が増える神永に対して、千歳はツンと彼を遠ざける。
神永との間に透明な線を引き、さぁこれで終いだ、と視線を落とした千歳に神永は片眉を上げた。
再び踵を返した彼女に今一度意味を問い質そうと口を開いた。

「千歳」
「女の涙なんてどうでもいい」

声帯を妙に真似た声。それは先ほどの神永の言葉そのものだった。
思わぬ声音に神永が紡ごうとした音が空に消え、代わりに彼女が続けた。


「嘘がお上手ですね」


片眉を上げていた神永の表層が揺らいだ。
凛とした声音と真っ直ぐな視線。心内などひとつと分からない表情で、千歳は神永に紡いだ。
神永の視線の先の彼女は尚、無機質に続けていく。

「後ろめたくなる暇があるのは勝手ですが、自傷行為のように佐久間中尉を使うのはやめて下さい。後々の関係にヒビを入れて有益だとはとてと思えません」

心臓が早鐘を打つ。澄んだ声色のくせにひどく鋭利な刃物のようだった。首筋に突きつけられたそれは、彼女からの忠告。

「情に振り回されないで下さい」

確信を持ったその言の葉に神永の顔に影が落ちた。

(お見通しってわけか)

瞬き瞼の裏に見えたのは女の涙と怒れる軍人。
涙の先にある侘しさなど己の知るところではない。何度も経てきた経験でありそのうちの1つに過ぎない。
つつがなく終えた訓練の中でただひとつ違ったものは、

(こちらこそ、ね)

ありがとう。
その己の虚辞に返された真っさらな心に僅かに軋んだのは化け物の何なのか。
怒れる軍人の罵声はひどく心地良く、軋みが徐々に柔らぐ気がした。それは決して、彼自身には悟ることが出来ないような心の機微だったはずだったが、この魔王の子飼いにはお見通しだったということらしい。

(下らないな)

瞼の裏の情景を振り払う。
取るに足らない情のために、己より能力のない無能者を使うなどあってはならない。
ゆっくりと瞼を上げた先、冷眼を湛えた神永の相貌に、彼女の微笑が見えた気がした。


ーーー


嘘つき

prev next
back


言葉の遊び リンク文字