きょとんとした無防備な姿も、ふと笑う可憐さも、思わぬ痛みに顔を歪める様も、化け物のなり損ない、顔のない自分達とは違う顔の見える儚さが美しかった。
三好は彼女を、千歳をそう感じていた。
偽りの名が、三好、という識別コードが唯一無二のものとなってしまった。彼女が紡ぐだけで、三好は、人としての己を認識することができた。
恋慕の情という世俗的な感情ではない。
ただ、三好という化け物が、人間としての生を赦されるのだ。彼女と共にいる時、三好は確かに人だった。
色付く彼女が眩しく、虚構の三好というカバーをその不確実さを含めて彼女は言った、それもまた三好なのだと。虚構も現実も何も関係がない。己が目の前で、話し、息をしている男。命が生きているその一点だけで、彼女にとって三好はただそこに在る本当の存在となった。
スパイとして全てを捨て去り、ろくでなしとして生きて行く矜持は揺るがない。それが出来ないわけがない、何故なら己はD機関の『三好』なのだから。それは三好の望みであり存在理由だった。
ただ、同時に彼は知ってしまった、他の世界を。灰色ではなく、色彩の世界でただ人として佇む鮮やかな彼女を。
己の矜持も役目も何もかもを知りながら、しかし三好の全てを赦す存在を。
「三好さん」
満天の星の下で澄んだ声が三好に届く。
大東亜文化協曾の屋上を流れる風は肌に心地良い。その心地良さに乗って届いた彼女の声音も耳触りが良い。世の喧騒の中でもあっても、彼女の響きだけはひどく心に沁みた。
振り返った先の彼女の相貌は穏やかで、決して笑んでいるわけではないにも関わらず、読み取れるのはその心の麗しさだった。
思わず手を伸ばし、その心を手中に収めたくなる。そんな化け物らしからぬ人間じみた加えてひどく醜い感情が三好の中に湧き上がった。
彼女に触れてその唇を奪えば、己がものにしたいという欲望を囁けばどのような顔をしてくれるのだろうか。あの、人形としての顔かそれとも自分達に等しく見せる顔か。或いは、もっと別、三好もそして魔王すら見たことのない彼女の別の顔が拝めるかもしれない。そう考えるだけで、三好の心は踊った。
(手に入れること、か)
しかしそんなことは叶わない。三好はかぶりを振った。
三好はもうじき三好ではなくなる。三好という顔の上に仮面を深く被り、遠く異国の地で誰の目にも留まることなく真っ黒な孤独を歩まなくてはいけない。
それは三好の望みであり、生きる意味そのものであった。三好が生きるといことは、孤独を歩むことと同義。
それでも、だ。それでも三好は彼女をーー
「千歳さん」
手を伸ばした先のその存在に、拒絶されないだろうかと一抹の不安はよぎったが、それでも三好は触れたかった。
微かに震える指先が彼女へと伸びる。
嗚呼、なんと浅ましく滑稽なのだろう。今己はまごうことなき人間だ。己が下に見てきた人間そのものだ。三好という名に相応しくない生き物だ。
刹那のうちに脳裏に過ぎった自嘲は、しかし眼前の彼女に説き伏せられた。
「三好さん」
その声色は三好を包む。ひどく暖かく、柔らかなそれは三好には相応しくないにも関わらず三好に深く染み込んだ。
「千歳さん、……僕は、」
その先の言葉を言い澱み、三好は逡巡する。
放ってしまえば、それに囚われるのは己ではない。三好は三好ではなくなるのだ。
しかし、噤んだ先をじっと見つめる彼女に堪えることも叶わなかった。
ひと呼吸置いて三好は紡いだ。
「……僕は今から貴女を縛ります。それを、赦してくれますか」
そ、と彼女の頬に触れる。
言葉の意味を理解できないほど彼女は愚かではない。そして、それはあまりにも残酷な問いだった。
「三好として、名もなき僕という存在を貴女に刻むことを貴女は…」
「三好さん」
三好の手に重ねられた柔らかな掌。
更に重ねられたのは、ひどく柔らかな声音と瞳だった。
「赦します」
慈愛が込められた視線は、やはり彼女を体現していた。
「人である貴方を、化け物の貴方を、名も知らぬ貴方の存在を赦します」
「……千歳さん」
「三好さん、全て虚構なんです。だから、何にも囚われなくていいんです。私にだって囚われなくていい。全ては貴方の望むままに在るんですから」
三好の掌に小さく頬擦りをした彼女は暖色に満ち溢れていた。
全てを受け入れ、全てを赦し、三好という存在が在る限りそれを肯定する。
「貴方が私を置いて行っても、貴方が私を忘れ去っても、」
例えそれが、悲劇となろうとも、
「私が貴方を覚えている限り、私は貴方を赦し続けます」
ただひとつの、たったひとつの化け物の願いを聞き届ける。
彼女は知っている、それが矛盾に満ちていている事実を。
彼女は知っている、それは結末の分かっている物語だということを。
それでも、彼女は三好を赦した。
「千歳さん」
抱き寄せた身体は心地よかった。
三好は、腕の中に収めた彼女の存在を確かめる。
応えるように三好に身体を委ねた彼女に込み上げる想いに蓋をして、過ちを犯したその事実に背を向けて、三好はただ、彼女に己を刻んだ。
ーーー
頬を伝う雫に目を覚ます。涙の割に寝覚めの良い朝だった。
カーテンレースの隙間から朝陽が溢れていた。秋雨が過ぎ去った朝の匂いはまだ雨色が微かに残っている。
静かにレースに手を掛け横へと引くと、目に入って来たのは眩しいほどの光で、細めた眼から再び落ちたのは大粒の泪。
早朝のしじまに聞こえるものは何もなくても、どことなく、今耳を澄ませば彼の声が聞こえるような気がした。
「三好さん」
ぽつりと漏らした名は、化け物の識別コードであり忘れ得ぬ人間の名。
幾時、幾年、留めなく流れる時の中でも記憶されるその名をただ紡ぐ。
綴った想ひをこの場に留めて、その名に身体は囚われてー
「三好さん」
永久に続く劣情は、彼女を決して離しはしない。
ーーー
囚われた少女
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