盛夏の中でやりたい事と言えば、涼を取るための西瓜割りや市場へ足を伸ばしてラムネを買うなど様々だ。兎にも角にも、暑さを凌ぎたいものである。

「……で、2人とも何か言うことはある?」
「……僕悪くない」
「……私も」
「……ふぅん?」

であるにも関わらず、隣の部屋で静かにしのぎを削っている3人がいる。
1人は波多野の妻に当たる彼女、千歳。昔から表情の変わりにくい淡白な相貌をしていたが、その相貌にこれ見よがしに滲ませているのは明らかな怒気。面は笑っていても青筋は隠せない。
その千歳の目の前に居るのは、双子の兄妹。口をすぼませ、ツンと取り付く島もないと言いたげな様子だ。2人揃って同じ方向を向き、顔をそらしているのだから双子とは面白いものだと溢れそうになった笑みを、千歳の横顔見て引っ込める。
育ち盛り、遊び盛り、そして悪戯盛りとでも言うべきか、双子という境遇も拍車をかけ父母に似つかずどうもやんちゃに育っている双子の兄妹は今日も今日とて、

「また邦哉君を揶揄って遊んだでしょう」
「揶揄ってなんかないよ。遊んであげただけ」
「私達よりお兄ちゃんなんだもの。あんなの揶揄ったうちに入らないわ、ねー?」
「ねー」

他人を掌の上で転がす才は父親譲りなのか、どうにも捻くれた方向にすくすく育っているようで、減らず口に千歳は温顔の下に般若を忍ばせて対応していた。
千歳は語気を強めることもましてや怒鳴ることなどありはしない。が、淡々と怒りを忍ばせながら詰めて行くとこの双子といえど長くは保たないだろう。

短くため息を吐いた波多野に「お父さん」と声がかかった。
視線をやった先に居たのは双子の兄、長兄の哲。哲は、波多野と千歳を交互に見やる。

「なんだ」
「お父さんっていつも怒らないよね。お母さんが大概怒ってお父さん何も言わないから」
「あー…まぁそうだな」
「……お爺ちゃんもそうだったの?」
「お爺ちゃん?」
「お爺ちゃんもそうだったから、お父さんもそうなのかなぁ、て」

きょとん、と小首を傾げる長兄に波多野は思案する。

遠い記憶、追憶の彼方に思い起こされたのは己にとって忘れることは決して出来ないだろう過去。
大黒柱というものは、どっしり構えて大局を見るものだ。
そう体現していた男のことが思い出された。



ーーー



悪趣味な、と波多野は眉を顰めた。
ボストンバッグを片手に住宅地の一角、とある一軒家の玄関先で棒立ちしながら、視線が向かうのはその表札。見慣れたそれは何処か己とは関係のないものに思えるほど魔王に毒された身体だというのに、その魔王直々の指令だった。

『顔を見せてこい』

まさか、と目を見張った波多野に魔王は、要件はそれだけだと、犬猫を追い払うように、しっしと波多野に手を払った。その様に、波多野の不信感がむくむくと募った。
死ぬな殺すな囚われるな。D機関の訓練生になった時から言われ続けている文句に疑問を抱いたことはない。それを厳守出来る能力が己らにはあり、それは当然のことなのだ。
D機関のスパイは何者にも囚われない。必要とあれば愛情、友情といった感情を演じることはできてもそれに囚われることはない。不確かで移ろいやすい情などスパイには不要だ。
故に、その情を最も過敏に感じる相手、即ちー

(久々の帰省か)

ーー家族、の元への帰省命令など、何の冗談だと波多野には思わざるを得なかった。
魔王、結城中佐だけが知る己の真名を見ながら波多野は嘆息する。
更に魔王は目を剥く波多野にニヒルに笑んだ。


『なんなら、そのまま残ってもいいぞ』


(冗談じゃない)


ゆっくりと瞬き、瞼の裏に映った魔王の背に鼻を鳴らし、扉に手をかけた。




「おかえり、疲れたでしょう?何か飲む?それともつまむものを切りましょうかね」
「いいよ、母さん。適当にするから」
「そうもいかないわ。もう何年ぶりでしょう、帰ってくるのは。皆、楽しみにしてたんだから」
「そうだよ、兄ちゃん全然連絡くれないんだもん」
「薄情者って言うんだよ、そう言うやつ」
「そうなんだぁ。兄ちゃんハクジョウモノー」
「ハクジョウモノー」
「こら!あんた達!」
「……いいよ、母さん。まぁ、間違ってはないし」

座卓に出された茶を啜りながら、波多野は苦笑した。
くるりと見渡せば、矢張り随分と賑やかな家だと再認識する。

魔王の出した指令は、生家に帰ることだった。
真っ黒な孤独の待っている未来、たった1人で生きていくことを選んだ自分達には最初の頃から言われていた、家族の元に戻ることができるとは思うな、と。無論それを承知でD機関の全員が訓練を受けていた。
家族を演じるために作ることはあっても、身元の割れる危険性のある血の繋がった家族の元へは二度と帰ることはないと思っていた自分の認識はなんだったのだと、己を慕う弟達をあやしながら頭を抱える。

「ねぇ、兄ちゃん今大砲の部品とか作ってるんでしょ?どんなことしてるのか教えて!」
「馬鹿、そんなのつまんないよ。ねぇ、おっきいビルヂングとかいっぱいなんでしょ!どれが一番凄い?」
「美味しいものとかいっぱいなの?僕、東京の美味しいご飯食べてみたいな」
「綺麗なお洋服いっぱいあるって聞いたよ」
「分かった。分かったから、とりあえず兄ちゃんを休ませてくれ」

4人の好機の視線に耐えかねる様に、両手を挙げて降参のポーズをとりながらため息を漏らした波多野に、兄妹は不満気に口をすぼめた。仕方ないといわんばかりに、ちょこんと4人揃って列に並ぶ。

その光景は、言わば普通だった。

(普通、だな)

そう、波多野の家は至って、普通、の家だった。
道場を営む父、その手伝いをする母、4人の妹弟達と一人の兄。長兄は、父の跡を継ぎ道場の師範代として地元では名が知れていた。
次男坊の波多野は、東京へと渡りお国に関わる仕事をしている、程度の認識しか持たれてはいない。が、特段家族仲が悪いわけではなかった。寧ろ、

(機関の中ではマシな方だな)

一癖二癖ある同期の顔を波多野は思い浮かべた。
各個人がカバーを演じているため来歴を知ることは不可能だが、欠陥製品かと思うほどタチの悪い言動は、各々の家庭環境が何処かしら歪んでいたのは火を見るよりも明らかだった。
お前が言うな、と指を指されそうなことは脇に置いておこう。ひとり苦笑した波多野は「兄ちゃん、はやく!」という弟達の声に急かされ、ありもしない仕事の話を始めた。



「疲れてるところを悪いわね」
「別にいいよ。久々だったから」

良い子は昼寝の時間、昼下がりで仲良く川の字で寝る弟妹達に浅手の布を掛けてやる。暫く見ないうちに成長したとは言え、まだまだ子どもらしい一面を見せる弟達に思わず笑みが溢れる。

「あら、お兄ちゃんらしい顔なこと」

コトリと置かれた湯飲みに手を伸ばして波多野は慌てて口元の緩みを直した。
どうにも、母親というものは厄介だ。
その波多野の心の内すら理解しているかのようにくすりと笑ってくれるものだから、バツが悪くなり明後日の方向へと顔を向ける。
自分のいるべき世界と隔絶されている、穏やかな陽の光の当たる世界。例え、軍靴の足音が近づいて来ていてもこの家族というものの繋がりを焼き切ることは不可能だ。
暖かな繋がりの中で微睡む弟達を見ながら、ふと波多野の脳裏によぎったのは仄かな笑みを湛えた彼女でーー

「あら、貴方もしかして……」
「ん?」
「……良い人でもいるの?」

面白おかしく探る声音に、やはり母親とは厄介だと溜息が漏れた。


「何だ、もう帰っていたのか」


気の緩みから人の気配に鈍感になっていた。
波多野は、背後から聞こえた低いテノール音にぴくりと肩を揺らした。久方振りの声音であったが、幼少期から聞き慣れたその音に背筋が伸びる。

「ただいま帰りました、父さん」
「おう、久し振りだな」

仏頂面の彼は、父はその強面を崩すことなく卓についた。

「あら、もう終わったの?」
「残りは勝が相手をしている。今日は早くに締める予定だからな」
「大事な次男坊が帰ってくるからって、ねぇ?」
「っ、お前、余計なことを言うな!」
「はいはい」

語気を強めた父に、おっとりとしかし至極愉快な様子で返す母に波多野は苦笑する。
変わらない。この父も母も、そして兄弟達も変わらない。
変わったのは、ーー

(俺だけか)

否、初めから波多野は化け物だったのだ。
ごく普通の、円満な家庭に生きながら感じていた世に対する閉塞感。じわりじわりとそれは波多野の中で膨らみ、ある時パンと弾けた。

『貴様、ウチに来る気はないか』

あの日あの時、波多野が波多野として認識された瞬間だった。
己の力を試したかった。自分ならばこの漆黒の男を超えられる、もっと開放された世界を見て、知って、股にかけて駆けることすら容易だ。そう、自分ならば出来て当然なのだ。
だからこそ、波多野は微睡みの中の家庭を棄てた。

そして、久方振りの帰省があっても、それを覆す気はやはり起きはしなかった。
ひとつ瞬き、瞼の裏に描いた情景の中にいた彼女が笑った気がした。



「久し振りだな、お前と試合うのは」
「俺が家を出る前だから、だいぶ経つよ」
「そうだな」

静謐な空気が肌を撫ぜる。通い慣れた道場はつい先ほどまで童子の声が響いていたと言うのに、がらんとだだっ広い場内にいるのは波多野と父のみだ。見慣れた道着を纏い、深く息を吐く。
床に視線を落としながら波多野は追憶の日々を思い起こした。
幼少期から父と兄に稽古をつけられ、気付けば全てを学び通していた。息遣い、動き、所作を隅々から見た波多野に出来ないことではなかった。相手の先を読み、己が身体を自由に動かす。それは波多野とって造作もないことだった。
だからこそ、どのような試合も演じることができる。
呼吸を整え、真正面に見据えた父と対峙すれば、緩やかに試合が始まる。片時も動きから目を逸らさずしかし己の立ち位置と先の行動を読みしていく。
後は、イメージした先の現実へと、身体を動かすだけだった。



「やっぱり、強いよな父さんは」

天井を見上げた波多野から漏れたのは乾いた笑い。苦笑し首を動かせば、じとりと鈍い睨みを利かせた父親の顔貌が見えた。

「ぬかせ、手を抜いただろう」
「俺が?」
「いくつからお前の技を見ていると思っているんだ。手を抜いていることくらい分かる」

不満を露わにする父に波多野は目を丸くする。
なんだ、気づかれていたのかと呆気にとられながら、しかし不思議と悔しさは込み上げてこない。
父と子という関係性が、この心持ちにさせているのか。

「まぁ、でもそうだな」

とすんと胡坐をかいた父は、仰向けのままの波多野の頭にそっと手を添えた。


「大きくなったな」


無骨な掌が、強面の相貌が、どこか暖かに感じられた。




帰省はあっという間だった。
おふくろの味を久方振りに味わい、兄弟達と昔話に花を咲かせ、父と語らう。ごく普通、ごく当たり前と言える時を過ごした。
何とも、人間のような時を過ごしたものだと波多野は苦笑しながら、しかし彼の脳裏に常に佇んでいたのは漆黒の闇だった。
魔王は常に見ている。常に、波多野が波多野たらんとするかを、常に見ているのだ。

「行くのか」

見送りなどという湿っぽいことを嫌う父が、珍しく玄関先まで足を伸ばしていた。
ハットを片手に振り返った波多野は、肩を竦める。

「また帰ってくるさ」

するりと溢れたのは虚言だった。
嘘だ、またはない。また、などという優しい世界は波多野に残されてはいない。
二度と帰ることのない、最後の帰省。日の当たる場所を棄て去るということが如何なることかを、魔王は今一度波多野に問うたのだ。
真っ黒な孤独を歩むことがお前にできるか。

波多野は思い起こした。過去の己、化け物として確立された今の自分、そして再び人間として過ごした数日の日々。全ての日々はモノクロではない、色鮮やかな波多野という人間の世界だった。

ーー悪趣味なことをするな、魔王様も。

波多野という人間を理解しているからこその、最後の試験なのかもしれない。

交錯した父との視線を逸らし、波多野は彼に背を向けた。じゃあな、と手を振り歩き出す。



『 』



久方ぶりに呼ばれた、我が名にとくんと心臓が鳴った。

振り返った先の父にかけられた言の葉はーー、



ーーー



「お爺ちゃんはなぁ…」

長兄の問いに、波多野は一拍置くとふと笑みを零して答えた。

「そうだな、父さんに似ていて男前でどっしり構えていたよ」
「……なにそれ。おかしいの」

クスクス笑う長兄の頭をわしりと撫でて、波多野はその相貌に目を細めた。
己が眼に映る我が子の姿は、まさにあの時、彼が見ていた情景そのものだったのかもしれない。



『達者でな』



父というものは子のことなどお見通しで、親というものは子のことを分かりながらそれでも手を離す。
眼に入れても痛くない、それほどまで手塩をかけて育てた我が子へと送った最後の言葉はやはりひどく暖かかった。
父さん、とかつて己も尊敬の念を込めて彼を呼んだのだろう。
数十年越しに見えた父の背中は波多野にとって、大きかった。


ーー


昔話

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