目まぐるしく日々は過ぎ去っていく。
1937年、昭和12年のあの日あの時に現実の片隅に造られた陸軍内部のスパイ養成学校、通称D機関は設立から幾年も過ぎていた。
世界情勢は瞬く間に変化して、その変化の潮流に乗ることが出来ずに日本国は戦火の中へと誘われて今に至る。
情報を活用することが出来ず、ただ大国の思惑と己の過信に囚われ自らの首を締めていく国のありようは、見るに耐えなかった。
しかし、やはりこの場だけは限りなく自由だった。
進め一億火の玉だ、欲しがりません勝つまでは、お決まりの文句が世に散りばめられて、誰も彼もが息を潜めて死んだように生きている。
窓の外に見える世界は澱んでいて、その色に千歳は目を伏せた。
数年前はまだモガが楽しげに歩いていた通りもみるみる戦時色に変わって、凡ゆる媒体がその色に侵食されていた。
実に下らない、馬鹿げていると認識しながらも、世の風向きは簡単には変えられない。
(でも、此処は本当に自由)
かの魔王の差配は正確で、そのお陰もありD機関のメンバーは限りない自由を謳歌していた。他国へと潜入している者、国内の防諜に従事する者、各々が羽を伸ばして存分に己が力を振るう様は見ていてとても心地が良い。此処だけでも、世界から隔絶されていて良かったと千歳は心の底からそう思えた。
それでも、世界は永遠ではない。
カタンと聞き慣れた音が響く。立て付けの悪い扉が開き、姿を現したのは真っ黒な孤独だった。
「千歳」
孤独に染まった男は爽やかな笑みを浮かべていた。丸い瞳、粟色の柔らかな髪、見た目より幼く見える相貌も数年経てばその分年は食うが、やはり彼はどこか幼さを残した姿で立っていた。
「お久しぶりですね、神永さん。2年ぶりですか」
「魔王様があちらこちらに飛ばしてくれるから落ち着く暇もなかったよ」
「あら、落ち着きたくなんてないでしょう?」
「そうでもないさ」
否、幼さを残してなどいない。肩を竦める、眉尻を下げる、そんな動作ひとつに見える神永という人間、それを演じる技量はもはや幾年前の彼ではない。微笑を浮かべながらもその瞳は常に世界を探っている。
完成された真っ黒な孤独に千歳は安堵した。
「何か飲まれます?先日此処の子達が持ってきた品があるんです」
つい数日前、彼らの後輩となる訓練生達が手土産にと持参したのはこの時勢では中々お目にかかれない洋酒だった。戸棚にしまったそれを思い出した千歳が足を一歩踏み出した刹那、
「……神永さん?」
ぱしりと神永がその手を取った。唐突なその動作に目を瞬かせ、千歳は神永を見つめる。
(…嗚呼、貴方は)
神永の顔貌に千歳は目を伏せた。
戦局が日々悪化する今日。もはやこの戦争がどのような形であれ終局するのは時間の問題だった。
それは即ち、この学び舎の終わりも意味する。
(世界は永遠じゃない)
学び舎の終わり、千歳の世界の終わりが近づいている今、千歳は己の行く先を探していた。
千歳は化け物ではない。曖昧で不確かな、歪な人間として己は何処へいけるというのか。
世界の終わりに何を求めて何処へ行くのかを千歳は探していた。
神永の相貌はひどく真っ直ぐだった。隠すことのない心境に千歳は眉尻を下げた。
「千歳、この先どうするつもりだ」
嗚呼、まっとうにそんなことを聞いてしまうなんて。微笑を浮かべながら千歳はしかし神永の人間性を見つめる。
まっとうにそんなことを聞くほど彼はやはりー
「……神永さんは優しいんですね」
誰よりも魔王に近いと感じていた、誰よりも暗闇を歩けると思っていた。神永という人間は、化け物は確かに魔王の素質を持っていた。
故に彼は千歳に聞くのだ。彼は人間なのだから。
「優しい、ね。心にもないことを言うなよな」
「そんなことを聞いてくれるのは神永さんくらいですよ。私の身を案じてくれているんですか?」
「いや、案じる必要なんてないだろう。お前は何処へだって行けるし何にでもなれる。あの人がそれを望む限りお前は自由だ」
神永の言葉は鋭い。千歳は笑みを深めた。
何もを求めて何処へ行くのか。それを探すことを厭っているわけではない。何故なら、それをかの魔王が望んでいるからだ。魔王が下した決断は必ず遂行されなければいけない。
魔王の差配一つで千歳は何処までも人形になれる。
ならば、いやだからこそ神永が千歳にこの先についてを問うのは神永の優しさ以外の何物でもないのだ。
「分かっておられるくせに敢えて聞いてくださるなんて、優しさ以外の何があるんですか?」
「……優しさなわけないだろう」
「優しさですよ。だって、貴方はー」
その先を神永は言わせなかった。引き寄せられた身体は彼の元へと落ちて、見つめた瞳に映った彼が近づき唇を奪われる。触れるだけのそれだったが、千歳は拒まなかった。
暖かい、陽光のような神永を取り込むように口づけを受ける。
「優しいフリだとしてもか」
自嘲気味に乾いた笑いを漏らした神永は千歳を抱き締めた。
「優しさを纏っているだけだとしても、お前はそれを優しさと言うのか」
「ええ。神永さんは優しいです。だって、私にとってはそれが真実ですから」
「……馬鹿だな、お前は」
回す腕に力が込められて、神永の心中は察するに及ばない。彼はひどく人間でしかし魔王の意思を継ぐ者なのだ。彼の行く先は、例え己がどのような道を行こうとも外れることはない。
完全な存在となる彼がしかし千歳に問う。それは、神永という人間の性だった。
「ねぇ、神永さん。私は何処へでも行けるし、何者にもなれるんです」
朗らかに千歳が笑う。
何処へでも行けて何者にもなれる。世界の終わりの選択を迫られている。自身の行く先を己が決めろと魔王が突きつけるならばそれを遂行しなければいけない。
それでもー、
「自由を貰って何処へでも行けるだなんてとても贅沢ですけど、………やっぱり私は此処が好きなんです」
選び取る未来は変わらない。
「……行く先を探すんじゃなかったのか」
「探した結果、此処に戻るというのは不思議ではないでしょう?此処にいないと、真っ黒な孤独を生きる方々を拝めませんから」
指し示された道も、手に入れた自由も結局使い道が分からないなら宝の持ち腐れ。千歳にとってそれは甘美な選択ではなかった。選択肢を与えられても結局行き着く先は同じで、戻ってくる場所は此処が良い。
終わりを突きつけ何処へでも行けというなら、何処へ行こうと勝手ではないか。恐らく、かの魔王はこの選択すらお見通しだろう。
「だから、ね。神永さん」
そっと神永の頬に手を添えて、千歳は微笑む。
「貴方が忘れても、私は此処にいますから」
神永の肩が微かに震えた。ピクリと反応した表情筋を千歳は見逃さない。
千歳の言葉は、どこへ行くのかを問う優しさに対しての答えだった。
「千歳…」
「名前のない存在として、ただ此処にある人形としていますから」
世界がどうなろうと、他人がどう思うと関係がない。己は確かに此処にいて、その存在は消えることはない。忘れ去られても、無価値となってもそこに在ることに変わりはない。
これからどうするのか、何処へ行くのか。神永の問いはひどく真っ直ぐでそして優しかった。人間的なその問いは彼の胸中を表していた。
此処にいる、何処にもいかない。例え、機関が畳まれたとしてもそれは変わらない。
「帰って来なくても、置き去りにされても、ずっと私は此処にー」
「千歳」
続けようとした言葉は神永の一言に遮られた。
「いなくていい」
頬に添えていた手が取られ、代わりに有無を言わせない声音を神永が発した。
強い真のこもった瞳が千歳を捉える。吸い込まれそうなほどに色を帯びた瞳は美しかった。
「此処にいなくて何処へ行ってもいい」
「神永さん…」
「けどな、千歳」
紡がれる言の葉は柔らかだった。
「俺に囚われてくれ」
それは、およそ彼らしからぬ、機関員、化けものらしからぬ戯言だった。あまりに無意味なその願い。
囚われるな。その戒律をいとも簡単に破る一言。囚われろ、など口が裂けても、否思いもしないだろう人間の一言。他の機関員なら終ぞ口にすることなどないだろう。
しかし、神永という男からのそれに千歳は目元を緩めた。
千歳は笑わなかった。虚言だと、無価値だと、彼の言葉を一蹴せずただ、神永の瞳を見つめ、そしてー
「なら、私の心を攫って下さい」
無意味なその願いに被せたのは、罪かもしれない。弾いて、地に落として仕舞えばいい言葉を千歳は愚かにも、
(良い、だなんて)
受け止めてしまった。
するすると舌に乗せる台詞は止まらず、想いが湯水のごとく溢れてくる。
「魔王に穿たれた楔を取り除いて、貴方のものにして下さい。全てを貴方にあげますから」
止めなければいけないのか、止めなくてもどうということはないのか、その判断を下せない。
ただ、千歳は何処かで望んでいた。
誰にでもなれる、何処へでも行ける、この虚構の世界の中でこの関係はきっと永遠じゃない。無意味で無価値で明日には忘れ去られてしまうかもしれない。
それでも今一瞬のこの言葉は現実なのだ。
「できるでしょう?神永さんは優しいですから」
「……随分と言うようになったな、千歳」
「ロクでもない人間に囲まれて生きてきましたから、多少は強かになります。だから、神永さんくらいにしか扱えませんよ?」
「はは、とんだじゃじゃ馬娘だ」
からりと神永が笑う。何を纏っているのか、纏っていないのか定かではないその姿であっても確かに其処にいる神永という人間を千歳は好ましく思った。
「優しい男ならここでお前を抱きはしないぞ」
「酷い男はそんなことすら言ってくれません」
するりと肢体を撫でる指先に感覚を委ねる。
「ねェ、神永さん」
身体だけではない、心も何もかもー
「私を満たして」
千歳の行く先にあるのは彼だけだった。
ーーー
道しるべ
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