かの陸軍軍人はまさに質実剛健、実直を通り越して愚直な人間性を持った男だった。上位の存在から言われた言葉を鵜呑みにし、馬鹿のひとつ覚えのように舌に乗せるその様は滑稽でしかなかった。イワシの頭は所詮イワシの頭。その程度の存在に傾倒する阿呆だと一蹴していたが、存外そうでもなかった。
かの陸軍軍人は強かだった。己の頭で考え、行動し、最後には魔王の秘密の一端まで暴いたのだ。ただの軍人には出来ない芸当だった。
三好は己の読みが外れたことを腹立たしく思うより先に、純粋に感心した。

ーー鍛えればまだ使えそうなものを

故に、度々三好は彼、佐久間を誘った。夜の街に、歓談に、凡ゆる場を設けた。化け物たちの言葉の遊戯へと誘い、思考力を高める実験じみたことを考えていた。もっと言葉を知れば、思想を知れば、知識を増やすことでこの木偶の坊も変わるのではないかと、僅かな可能性を芽を育てるため水をやろうとした矢先にかの陸軍軍人は学び舎を去った。連絡係、もとい監視の任を解かれた彼の背を、窓越しに三好は見つめた。

ーー馬鹿な男だ。

軍は知りすぎた人間を生かしてはおかない。秘密裏に設立したスパイ養成学校のことはただの軍人が知っていてはならない。
遠のく背を見ながら三好は彼の行く先を思い浮かべて目を閉じた。



「……随分と機嫌が悪いんですね」

ため息と共に吐かれた言葉に三好は瞬いた。想定外の言葉に思考が一時停止する。
大東亜文化協曾の食堂で煙草を手にしていた三好にそう言ったのは千歳だった。考えの読めない淡白な相貌が三好に向けられている。

「良くも悪くもないですよ」
「そうですか」

さして興味もないのだろう。三好の答えを揶揄することもなく、彼女は視線を落とした。手にしていたのは英語で書かれた一冊の本。
三好は本の内容に目を細めた。

「In the beginning God created the heaven and the earth.」
「創世記、天地創造の箇所ですね」
「何を読んでいるかと思えば、西洋のおとぎ話ですか」

神が天地を創造し、人間を形作り、それを女と男に分ける。神に似せた二対の人間、アダムとエバ。現在の人の祖先。
信心深い信徒達はこのー実にユーモラスなー物語をありがたく享受するのだから宗教とは恐ろしい。
冷ややかな三好の視線に千歳は答えることなくページを捲る。神など信じていないだろう彼女が読むには些か不似合いな書物に三好はふとかの陸軍軍人を思い出した。

「せっかく知恵の実を食したというのに、それを活用しない人間がいるものだ」

アダムとエバは知恵の実を食べて楽園を追われた。その記述がまるで彼のようだと三好は口の端を歪める。
盲信していた神の国で渡された知恵の実。せっかく得た知恵を活用することなく彼は楽園を去った。その知恵を使えば楽園にいられる選択もあったはずだというのに、彼はそれを拒んだのだ。自分の居場所はここではない。どこまでも自分は、

ーー軍人など。

馬鹿げている。脳裏に浮かんだ相貌に僅かに募ったのは苛立ちだった。

「活用する場はここに限定はされないでしょう」

平坦な声が三好にかけられた。視線の先の彼女は視線を落とし、文字を追っている。

「知恵をつけることを恐れる神の元に帰るなんて、正気の沙汰じゃないと思いますけど」

憮然と三好は顔を歪める。
己の立ち位置、得た知識、見識、全てを統合して取るべき選択がこれだというのだ。軍人、そして知り過ぎてしまった立場上、己が身を活用できるのはこの場以外ありえはしない。
死ぬな、殺すな。死は全ての終わりだ。
あの男の人生が、知恵をつけたこと、で終わるのならこれほど滑稽で、下らないことはない。

「貴女は彼の選択を正しいと思うんですか」

故に、彼女の言葉は毒だった。三好にとって滑稽と思える行為を肯定することなく、否定する言葉に三好の胸は騒ついた。
三好の問いに含まれる棘を彼女は摘んで答えた。

「正しさを論じても仕方ありません。彼のとった選択がここを去ることだった。それでも、つけた知恵はどこかで活用はされます」
「有用に活用されるのは此処を置いて他にはないでしょう。知恵の有用性を彼が理解していないわけはない。そこの選択の正しさを聞いているんです」

僅かに苛立ちを込めてしまった。
彼女の言い分を理解できないほど三好は愚かではない。事実を事実として受け止め、その先を予測しているに過ぎない彼女の言に噛みついたのは、ただ、そうやはりー

(機嫌が悪い、か)

感情に振り回されていてなんとする。三好の中の化け物が嘲笑した。

「知恵をつけることが必ずしも良い結果を導くとは限りません」

凛とした声だ。鈴の音の如く、澄んだ音で彼女は滔々と紡ぐ。

「彼は多くを知り、学んだことで世界を広げました。それでも、彼は戻ることを選んだ。学びを通して歪な見てしまったことにより、彼はこの先ひどく苦しむことになるでしょうね」
「……馬鹿な人だ」
「ええ。けれど、真っ直ぐな人でした」

薄っすらと目を細めた彼女は、ぽつりと呟いた。言葉に込めたのはどのような思いが定かではないが、妙に切なく感じられる。ページを捲る音が途絶え、見れば彼女は視線を落としながらしかし文字を追ってはなかった。

「機嫌が悪いのは、貴女の方ではないんですか」

三好の問いに、彼女はぴくりと肩を震わせた。
見開いた瞳を細め、薄っすらと苦く笑う。

「そうかもしれませんね」

短いため息とともに吐かれた言葉。自嘲気味な声音だった。
三好から見て、かの陸軍軍人と千歳は不仲ではなかった。特にこれといって訓練生と親睦を深めようとしない彼女ではあるが、そう思えば彼とは親しい間柄だったと言えるかもしれない。何度かは、ー勿論、彼になんの断りもなくーアベックやら夫婦のカバーで街に繰り出したこともあったとか。耳で赤くして詰め寄った彼に、彼女はあの薄く緩めた口元で返すのだ。

ーーお付き合い頂き、ありがとうございます。

(本心か、否か分かったものではないな)

その心がどこにあるのかはさておき、千歳が今、『暗号文として記憶している書籍』を意識の外に遣るくらいには、彼の存在は彼女の中にあったのだろう。
三好の言に平然と答えることはできても、目敏い三好にはその隙が見えた。

「共に、楽園を追われても良かったんじゃないんですか」

椅子を引き、テーブルについた三好は彼女と視線を合わせた。両手を汲み、顎を乗せ、上目遣いで問いかける。
挑発的な目線を彼女は緩やかに退けた。

「私はそれほどお行儀が良くありませんから」

その視線は文字追いを再開する。
もっと強かで狡猾だ。此処で生きている、此処で生きてきた人間ないし化け物は、あれほど真っ直ぐで揺るがない瞳を持たない。出し抜き、欺き、仮面を被り人を演じる。他人を虚構のものと位置付けて、己を生かす術に全神経を注ぐ、まさにはぐれ者達だ。
あれだけ彼に近づきながら、染まりはしないところがやはり彼女もまた此方を知る、此方で生きてきた人間なのだと三好に再認識させた。

「機嫌が悪くなる程度には肩入れしていても、共に生きるには足りないですか」
「それは、三好さんも同じでしょう。機嫌が悪くなる程度には、気に入っていた」

三好と違い、彼女は挑発的な物言いをしない。代わりに事実を事実として落としてくる。
故に、三好の端整な顔が歪んだ。顔をしかめた三好に、千歳は追い討ちをかけることもなくただ文字に視線を這わせた。
機嫌が悪くなる、というのは人間的な感情だ。感情そのものを抱いても、感情を切り離す術を身に付けている自分がそれを悟られるのは癪に触る。しかしながら、癪に触る、というのも感情で、堂々巡りだ。
かの陸軍軍人も目の前の彼女も、三好の人間的な一面、を認識させる点では一致しているのかもしれない。

「なら、僕と貴女ならどうです?」

席を立った三好は、彼女が手にしていた『資料』をひょいと持ち上げた。流れるような動作でテーブルに置くと、目を瞬かせた彼女の手を取り腕の中へとしまい込む。

「作法がなっていない者同士で新天地へ、なんて」

丁度、満州には開拓団が各地で派遣されている。恐慌の煽りから、地方の疲弊した農村の住民に満州国の防衛、対ソ戦を見据えた屯田兵もして送られている開拓移民。農村の次男三男、跡取りではない男児のみならず、高等学校の成績上位者まで参加している、義勇軍ー移民という名の挺身隊のようなものだーなど、新天地には内地にはない『夢』が広がっているらしい。
新天地で、ならず者同士の夢を見ようではないか。
三好の安い誘い文句に、千歳は腕の中で心底可笑しそうに喉を鳴らした。

「ならず者はどこへ行ってもならず者でしょう?」
「夢が広がる新天地ならしいですから、ならず者にも居場所はあるかもしれませんよ」
「ふふ。それなら、そこはもう夢なんて広がってませんね。ならず者が暮らせる場所なんてそんなのー」

ーー恐ろしい闇の世界ですよ。

吐き捨てた言葉に三好も同意する。
国策として、国は府県に、府県は町村に、町村は個人にノルマを割り振り、強制的に、作り上げた『新天地』に人員を送り込んでいる満州国。
いったいどんな夢が広がっていると言うのか。謀略が蠢くの間違いだろう。

「まぁ、それでも貴女となら構いませんよ」

「ご冗談を」
そう返そうとした彼女の唇を三好はあっさりと奪った。腕の中で僅かに身動ぐ彼女に気を良くし、深く口付ければされるがままにその身体から力が抜ける。ゆるりと腰に、後頭部に回した手に力を込めた。逃げる舌を絡ませ、吸い、歯列をなぞり、思うがままに彼女を堪能した。
存外、悪くはないと思った。

「機嫌が悪くなるポイントも似通っているようですし、どうです?僕と共に夢をみるというのは」

口説き落とそうと思ったわけではない。が、口調はどこか滑らかだった。

「新天地での夢…アメリカン・ドリームですか?あそこに油田でもあればロックフェラーになれるかもしれませんけど」
「夢の体現者になる必要はありませんよ。アメリカン・ドリームなんて欺瞞も必要ない。ただ、貴女と夢を見られればそれはそれで面白いと思うだけです」
「夢を見る…ですか」

ぽつりと呟いた彼女の首筋に口付けを落とせば、擽ったそうに身動ぎをする。
新天地での夫婦生活、なんてまさに夢のある話だ。身寄りのない2人が新たな生活を求めて再出発など、どこかの三流作家が好みそうな題材だった。
陳腐でシンプルな申し出の答えに、三好は胸を僅かに高鳴らせた。

「それは、ーーとても素敵ですね」

耳元でそっと、しかしハッキリと色の乗った声で彼女は囁いた。その声が、彼女の女という側面を認識させる。
鼓膜を舐めるような声音だった。何をされてわけでもないにも関わらず、三好の全身が産毛立つ。肌を、彼女の指が這うような感覚がした。
思わず脳裏に浮かんだその、艶かしい肢体に、三好は逃げるように顔を上げた。


「……なんて、言うことができたらお行儀の良い女性になれたんでしょうか」


しかし、目の前の彼女の顔貌はいたく平常だった。
虚をつかれたように目を瞠った三好に、彼女はくすりとひと笑みする。

「夢は一人で見るものでしょう?」

穏やかな口調で、暖かな眼差しで。それは一寸前の、あの女を匂わせる声音とは決して交わらない。
これこそが、ならず者、である証だった。

「それは、NOということですか」
「それ以外に答えがあるなら教えて下さい」
「僕はYESでも構いませんよ」
「嘘ばかりですね」
「少なくとも、今は嘘じゃない」

落とした声音に今度は彼女がたじろいだ。微かに揺れた瞳に三好は続ける。

「悪くないと僕は思いますよ」

嘘か真か。夢か現実か。放たれた言葉の中にある真意がどこにあるのか、彼女には分からない。

「本当に、嘘ばかり」

消え入りそうな声音ごと呑み込み、三好は再度彼女を抱き込んだ。



ーー



夢を見るのもひとり


prev next
back


言葉の遊び リンク文字