ひどい戦争が起こった。
多くの兵士が、人が、物が、草花が、壊れて死んでなくなってしまった、戦争だった。
前線と銃後の区別がつけられなくなったその戦争は、多くの犠牲者を出して、そして終結した。
戦争が起こっている間も、数多の生活が存在して、時に消えていった。
戦争が終わった後も、数多の生活は続き、しかしその焔は風前の灯のように弱く儚い。

たった数年で変貌した現実の中で、ひとりの女がかつての街を歩いていた。





頭の中に描かれた地図を頼りに足を進める。様変わりした東京の街並みを尻目に千歳はただ進んだ。積み上げられた瓦礫、汚れた衣服を引きずる人間が死の気配を未だに街に残している。
埃かぶった街並みに千歳は唇を結んだ。
米軍の空襲の爪痕は深く広くこの街に刻まれている。その傷跡に塩を塗るように、彼方此方で戦災孤児が地に座って彼らの靴を磨き、若い女は胸元を開けて彼らを誘っていた。

様変わりした街並みが、なぜだかひどく胸に沁みた。

知っている街も人も何もかもがこの数年のうちに変わっていた。己が歩く道を追想しても、今と繋がるほど原型をとどめていない場所もある。破壊し尽くされたこの国の現在が現実を無情に知らせている。
緩慢に歩いた先、頭の中に広げた地図の到達点で千歳はその場所を見た。

「……そう、ですよね」

そこには、そこにも何もなかった。
目の前にあるのは、ただの瓦礫の山と埃の匂い、それは今やこの街のどこにでもあるありふれた風景だった。世界に溢れるほど存在するワンシーンが眼前にあるだけだった。
理解していた事実にふと千歳から笑みが溢れる。
黒ずんだ瓦礫が告げるのは業火の結果。

此処には何もなかった。

そう告げるための最期の焔を彼は灯して闇の世界へと消えたのだ。子飼いの魔物達も、おそらく、一緒に。
どれだけ記憶の中に鮮やかな日常があろうと、
どれだけその事実は己の中に存在していようと、
何もない。
何も。
何もあってはいけない。

「……分かってる」

呟いた言葉に対して千歳の顔に落ちたのは濃い影で、目の前の事実を咀嚼して飲み込む作業がひどく困難だった。

千歳は過去を追想するように目を細める。

食堂での遊戯(ゲーム)はたいそう楽しかった。食事をとる姿も、講義を受ける姿勢も、何もかもが鮮やかな日常だった。化け物であり、人格を上書きされた彼らであっても、その存在肌身で感じていた。
記憶の欠片に光る鮮やかな日々が、目の前の現実の無情さを体現している。虚構の中で生きていた人間達は所詮まがい物であったのだと突きつけてくる。

千歳は屑となった瓦礫の欠片を手に取った。

自分は此処にいてー
彼らも此処にいてー

それでも、それを伝える事実はもはや何も残されていない。

「わかってるん、ですよ…」

力を込めればパラパラと崩れる残骸が、ひどく虚しく千歳の心を蝕んだ。
吐露したいのはどのような気持ちだ、胸に刺さった棘は抜けない。納得しようとすればするほど、痛みは増していく。


「……ちゅう、さ」


胸に手を置いて拳を固く握り締める。

鮮やかな思い出も、記憶も、日々も、何もかもが痛かった。





「魔王じゃなくて、悪かったな」





感傷に浸っていた千歳の背後から声がした。
時が止まったかのように千歳は目を見開き、身体を緊縮させる。

ーーどう、して。

緩慢に身体を後ろに向けた先、視界の端からゆっくりと捉えられた小柄な体躯と挑戦的な瞳に、一刹那、息をすることを忘れた。
そこにあったのは、あの時と同じ鮮やかな色で。


「ひっどい顔」


冷たくなっていた身体に暖が戻っていく感覚だった。記憶の中と変わらぬ彼の姿が千歳の痛みを和らげていく。
それでも、紡がれるのはただただ彼がそこにいるという事実への疑問だった。

「ど、う、して…」
「理由が必要か?」
「だって、皆さんは…まだ、」

いるはずがない、戻ってくるはずがない。
スパイである彼が、こんな場所にいるはずがない。
悲哀から一転、喜びに包まれそうになった心を千歳は諌めた。違う、違うはずだ、と理性で感情を押さえつける千歳の姿に、彼はー

「まあ、理由なんてないけどな」

波多野はそう言うと、薄い笑みを浮かべて千歳の頬を撫でる。そうして、らしからぬ言葉で彼女の心を濡らした。



「おかえり、千歳」



言葉が、染み渡る。
視界がぼやけて目頭が熱くなって、胸にこみ上げた情動が千歳の瞳を濡らした。







あれは、幾月前のことだったろうか。

夜空の輝きを下で風を感じながら、千歳は記憶を振り返っていた。
茅葺き屋根の住宅の縁側、庭にそびえるのは立派な桜の木で、その周りには黄色の菜の花達が風に揺られている。
空襲で焼け野原になった東京を離れて千歳が波多野に連れてこられたのは、閑静な田舎町だった。疎開地として解放されていた村のひとつに何故だか彼は居を構えていたらしく、家に着く前にすれ違った村人達は気さくな様子で彼と談笑していた。
隠れ家のひとつ、と通された日本家屋は清掃も行き届いていて彼が幾分か前から此処に居着いていたことを示していた。戦前から何度か顔を見せていたおかげか、地元の人間には不審がられることはなかったらしい。職業は公僕だと己を卑下しておけば、必要以上にはつつかれなかったということだった。

『千歳お姉ちゃんは、先生だったの?』

じい、と村の子ども達の好奇の視線を浴びたのが移り住んで一週間と経っていない頃だった。
誰がそんなことを、と言葉を詰まらせた千歳
に、波多野にいちゃんが、と女児のひとりが漏らしたが、思えば彼以外にそのようなことを喋る人間などいない。
おかげで、千歳は村に溶け込む意味も兼ねて寺子屋を開くようになっていた。読み書きだけではない。化学、物理学などから歴史学、文学まで、聞かれれば全てを教えた。しかし、英語などの外国語は敗戦感情を配慮して教えることはなかった。
農村の子ども達は重要な働き手だったため、女児の多くは一定の年齢になれば嫁ぐか、或いは身売りをするか。男児は、長男以外は満州に渡る者も少なくはなかった。

目に星をいくつも見せて己を慕う子らに、千歳の日常は、また、色付いていった。


「風邪引くぞ」


物思いに耽っていた千歳の身体に麻の羽織りが無造作に掛けられる。呆れ声と共に降ってきたそれを肩に掛けて、千歳は軽い調子で答えた。

「それほどか弱くありませんから」
「どうだか」

よっこらせ、と隣に腰を下ろした波多野を横目で捉え、千歳は再び空を見上げる。

「綺麗ですね」

瞬く星々の輝きはネオンに支配される街とは比べ物にならないほど壮麗だ。喧騒とはかけ離れた静謐な雰囲気は、視覚だけではない、聴覚や嗅覚さえもその輝きを享受する手助けをする。
緩やかな時の流れを全身で感じながら眺める彼方の世界は、ひどく美しかった。

「綺麗、か。ゆっくり星を眺めることなんてあまりなかったからな」
「忙しい日々はお好きでしょう?」
「否めないが、時々は立ち止まりたくはなるさ」
「止まる必要なんてないくせに」

笑みを零せば、波多野は「馬鹿言え」と顔を歪め、顔を上げて空を拝んだ。

「必要がなくても、止まりたくはなるもんなんだよ」

夜空に吐いたその言の葉に、千歳はぴたりと笑みを止めた。彼の横顔を見つめて、すぅと目を細める。
星を眺めながら、どこか遠くを見つめているような相貌に、千歳は徐に口を開いた。

「波多野さん」

呼び掛ければ、彼は首だけ千歳に向ける。
あの頃と変わらないその顔に、千歳は笑掛けた。



「もう、大丈夫です」



何故、彼があの場所に来たのかは分からないーー

この家に住み着いてから、千歳はその理由をそれとなく探ろうとした。会話の中、家の中の痕跡、残された機関員としての彼の役割を探したが結局何一つとして掴むことはできなかった。
夫婦の役割でも演じるつもりかと思った。が、過ぎ行く日々を共に過ごす中で、彼は指一本たりとも千歳に触れては来なかった。
共に寝て、起きて、食事する。町へと仕事へ出かける彼を見送り、炊事洗濯をこなした合間に子ども達に学を施した後は、近所の畑で農作業を手伝い、裾を分けてもらう。そうして夕餉の支度をした後は彼を待ち、共に食事を済ませて、風呂に入って床に着く。
夫婦というには淡白だが同居人と言われれば首を振る、そんな間柄で千歳と波多野は日々を過ごして来た。

必要がなくても、止まりたくはなる。

それはきっと、自分のことではないのか。

「今まで、お気遣いありがとうございました。でも、もう止まる必要はないですよ」

彼らは常に走り続けている。
彼の魔王の元でその真価を発揮し、世界を股にかける彼らが、たかだか敗戦という状況に甘んじてなりを潜めるとは思えなかった。

魔王は、最後の後始末として止まることを命じたのだろう。
女という不完全な生き物を処理する為に、敢えて、感情が比較的豊かな彼を寄越したのだとしたらー

「ここの生活も慣れましたし、とても充実しています。結局、私はどこかで繋がっていないと生きていけない不完全な生き物だった」

彼はもう、此処にいてはいけない。

かつて千歳は、自分を拾った魔王との糸を辿って、雛鳥のようにその背を求めた。
その甘さを理解した彼だからこそ、波多野を使いとして遣り、そして此処での居場所を千歳に与えた。
だとすれば、彼はもう、役割を果たし終えた。

「でも、もう大丈夫です。波多野さんは行かれるんでしょう?あの人のところに」

そよ風に草木が揺れる。
春は旅立ちの時で、別れの時だ。


「もう、大丈夫だから」


別れを告げなければいけない。
走りを、止めてはいけない。

心に決めた想いを舌に乗せた千歳を波多野は見据える。


「……え」


刹那、千歳の手首を掴むと同時に引くと、その身体を抱き留めた。
予想外の彼の行動に千歳の思考は右往左往する。目を白黒させる彼女に構わず、波多野は腕の力を強めた。

「馬鹿か、お前は」
「え…、と」
「お前は…!」
「っ、」

語気を強めた波多野はその勢いのまま千歳に紡いだ。

「あの人の命令で、俺がお前と此処にいたと思っているのかっ、」


ーなんで。
ーなんで、そんな声で話すの。


違う、筈だ。
彼は魔王の命令でここに来て
魔王の命令で千歳を再教育し
生活の場を与えたに過ぎない。

それで、良かった。


ーなのに、なんで。


「そんな命令をあの人が俺に与えて、お前を…そう扱うと思っているのかっ、お前は」
「……そんなの、分かるわけ、ないじゃないですかっ!」

厚い胸板を押し退け、千歳は半ば叫んだ。

「あそこに戻っても誰もいなくて、そんなこと分かりきっていたけれど悲しくてっ、それが、無意味なことだと分かっていたのに、こんなっ、こんな優しいことをされてっ…、もう、
なんでこんな、なんで、」

不完全な女という生き物に生まれた性なのか。
彼の魔王の期待に添えなかった報いなのか。

「なんでまた、悲しくなることを言うんですか…」

せめて、離れるなら割り切って欲しかった。
これは命令だと、千歳の言に首を縦に振り、なんてことはないと離れてくれればよかった。
居場所を与えたのなら、あとは旅立ってくれればよかったのだ。
そうすれば、こんな感情を持つことなんてなかった。
鮮やかな日々がまた千歳に蘇り、彼が千歳ち与えた感情がせり上がって、溢れた。


「いかないで、なんて、…言いたく…なかった、のに」


その声がなければ、過ぎ去る筈だった情動が晒される。溢れた感情は元に戻すことはできなかった。

春草が揺れる。そよ風がざわりと空気を揺らして、夜のしじまを凪いだ。
沈黙が流れる空間はどれほど続いたか分からない。
俯いていた千歳は、吐露してしまった感情に後悔をじわりじわりと感じていた矢先、ふと彼に名前を呼ばれて顔を上げた。

「千歳」

月明かりに照らされた相貌に魅入る間も無く、千歳の眼前から彼は消えた。
正確には、近過ぎて視認ができなくなった。

「ふ、…あ、」

この数カ月、指一本触れてこなかった彼からの、初めての口付けだった。
咥内があつい。奪われた唇は彼の愛撫を享受して、緩やかにしかし確実に千歳の思考を麻痺させた。千歳は彼の浴衣の裾をぎゅっと掴んでその愛撫の終わりを待った。

「…、は、…ぁ、波多野、さん」

長い口付けが終わり、ようやく息を目一杯吸えた千歳に波多野が口を開く。

「勘違いしているようだが、俺は自分でお前のところに行った」
「……え」
「中佐の命令でも、任務でもない。俺個人の意思でお前を迎えに行き、そして此処に連れてきた」
「……なん、で、そんな…だってっ、」
「言わないと分からないかよ」

射抜く視線に身体が緊縮する。理解してはいる、それでも納得できない現状に千歳の思考は混乱していた。
逃げたくなるような告白に、逃がさないと言わんばかりに波多野は続けた。

「俺はお前を手放す気がない。隣にお前がいない未来などいらないと言っているんだ」
「だ、て…機関は…」
「他の連中はいろいろとやっているが、俺は抜けた。だからもう、俺にも行くところなんか無いんだよ」
「じゃあ、今までの生活は、」
「いきなりお前を連れ帰って手篭めにするってか?犯罪者じゃあるまいし、誰がそんなことするかよ」

「他に渡すつもりもなかったがな」と鼻を鳴らす彼に、千歳は開いた口が塞がらなかった。
なぜ、どうして。その問いが頭を巡り、しかし彼が放った言葉にその思考は霧散する。

「出て行こうなどと思うなよ?なんなら、出ていくことができないように今からでも手篭めにしてやろうか」

小生意気な笑みでそう言われれば冗談か本気か分からない。勢いよく首を振った千歳に、波多野は快活に笑うと、穏やかな笑みを浮かべた。

「お前は、あの場所に囚われていた」

ぽつりと波多野が零した言の葉が千歳の胸に刺さる。

「女は感情的になり、殺すとはあの人がよく言った言葉だが、確かにお前は優秀であるにも関わらず、どこかで感傷に浸るフシがあった」

そうだ、だからこそ自分は化物になりきれずにのこのことあの場に帰って来た。
そうして、彼に拾われたのだ。
不完全な生き物となってしまった自分の不甲斐なさに俯いた千歳は、しかし直ぐに己を包んだ波多野の温もりに戸惑う。

「っ、波多野、さんっ」
「だが、それが良かったんだ」

強められた腕の力と言の葉に千歳の身体は再び硬直した。
良かった、と、肯定の言葉は予想外だった。

「俺は、お前の存在が心地良かった。だから、最後にお前を連れて行くと決めていた。あの場に俺がいたことも、この場所も、今までの生活も全部、俺の都合だ」

滔々と紡がれる言葉は本心なのか。それを疑うことは千歳には憚られた。
虚構を演じる意味が、ない。
綴る想いが本物ではないと口にはできない。
何より、それをー


「ず、るい」


望んでしまった、自分がいる。

「そんな、そんな言葉はずるいです。私は皆さんほど優秀じゃないのに、感情に流される女なのに、そんな言葉、言われたらそんなの…」
「千歳」

今一度、合わされた視線から逃れる術などない。真摯な瞳を受けた千歳の選択する未来は定められていた。



「共に生きてくれ」









不測の事態に陥った時、伴侶の顔が浮かんだらスパイは引退だと誰かが言っていた。それは、おそらく本当だ。
走り続けていても、どこかで立ち止まりたくなる。
必要がなくても、立ち止まりたくなる。

それでも、日常と非日常の両立は、波多野は可能だと思っていた。

機関を抜けずとも、走り続け、立ち止まり、また走る。繰り返しの日々を生きることは可能だと自負していた。それだけの技量が自分にはあると認識していた。
しかし、一瞬にしてその自負が霧散したところを見ると、やはりスパイとは孤高の存在なのだと認識を改めざるを得なかった。

苦悶の表情で彼女が紡いだ言葉は、何よりも波多野の心を捉えた。

「行かないで、か」

それをどれほど彼女は魔王にかけたかったろうか。
抱えていた胸の痛みを吐露した相貌に全ての理性が持っていかれた。ただ、彼女に触れて、想いを綴りたかった。

ーー随分と腑抜けたな、俺も。

それを厭わないあたりが、潮時だった。

静寂と自然の音が混じり合い、穏やかな夜の時間が流れる。
静かな寝息を立てる千歳の頬を手の甲で柔らかに撫で、波多野は笑みをひとつ零した。



その日の夜、ひとりのスパイがその任を終えた。





《旅立ちと別れの春》


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