茜色が空に差す夕暮れ時。大東亜文化協曾から電車で三十分ほど離れた住宅街に設けられた公園にはちらほらと子ども達の姿が見えていた。黄色い声を上げて走り回る子どもらは、空を見上げて名残惜し気に互いを見遣る。ある子どもは母に手を引かれ、ある子どもは近所でまとまって家路へと着き、公園からあっという間に喧噪が姿を消した。
甘利は代わりにやってきた静けさに頬を緩めると、朱色に滲む空を見上げた。ごそりと一本取り出した煙草で一服すれば、紫煙が空に靄を作る。簡素なベンチにもたれると、ギィと鈍い音が耳についた。
黄昏るにはもってこいの空間が甘利は好きだ。自由に気ままに己が心を浮遊させることが出来る。
静かに、緩やかに流れる時に身を任せるこの時間はなんと至福なことか。
「……で、何の用ですか、甘利さん」
その時を切り裂いたのは鋭利な声だった。
甘利は、至福の時間を割かれたにも関わらず、ニンマリと口元を歪めると声の主を振り返った。
「別にこれといった用はないよ?」
千歳ちゃん、と一段声を高めてやれば淡白な相貌に皺を寄せた彼女を拝むことが出来た。
偶々だった。尾行の訓練で訪れていた当該地域で見つけたこの公園で、甘利は結城中佐の協力者と情報の受け渡しを行っていた彼女を見つけた。ベンチに腰掛け指向性を絞った声で話している彼女が一体どのような会話を行っていたかは定かではなく、甘利に気づいた彼女は早々に話を切り上げたのか、近場にいた協力者は住宅街へ姿を消した。
「用もないのに邪魔をしないで下さい」
「別に俺が居ても居なくても支障はないだろう?」
「居る意味もありません」
「手厳しいなぁ」
言葉とは裏腹に甘利はからからと笑う。千歳の鋭利な言葉など意に介さない様子に彼の後ろから盛大なため息が漏れた。
嘆息した彼女の相貌を夢想して甘利はくつくつと声を殺して笑みを作った。能面が板についている彼女が自身に関心を向けるだけでも、たいそう愉快だ。
背越しにも伝わる不満の気にそろそろご機嫌でも取ろうかと口を開きかけた刹那、公園の入り口にひょこりと幼子が顔を出した。着物の裾をきゅっと握る幼女は、きょろきょろと辺りを見渡す。人の気配に気づいたのか、千歳も振り向いてそちらを見遣った。
幼女は辺りを見渡すと、甘利と千歳を視界にいれたが、すぐに項垂れる。気落ちした様子の幼女は、今度は不安げに口の端をきゅっと結んだ。
僅かに膜の張った瞳を伏せて、ぼそりと形作られた唇が言葉を綴る。
──お父さん。
「どうしたの?」
凛と、澄んだ声が甘利の耳朶を打った。
見れば、するりと風のように甘利の横をすり抜けた彼女は、まっずぐ幼女の元へと足を進めていた。
あまりにも迷いのない行動に思わず呆気にとられる。彼女が幼女の元へと歩みより、その目線に合わせてしゃがむと幼女は一瞬、肩を震わせた。が、もう一度、彼女が「迷子?」と問えば、不安を前面に出して、首を横に振った。
「あのね、お父さん、此処に来るって…でも、もう夜になるのに来なくて」
たどたどしく説明する幼女に千歳は頷く。彼女の背しか見えないため、今どのような顔を幼女に向けているのか甘利がうかがい知る術はない。
ただ、今にも泣きだしそうな幼女が、たどたどしく彼女に状況を説明するその様を見れば、彼女が今どのような表情をしているかは想像に難くはなかった。脳裏で目の前の光景を俯瞰して、彼女の相貌を夢想する。
その情景に、なぜだか妙に、甘利の胸は躍った。
甘利は徐に立ち上がり、彼女の隣まで足を進めた。近づき、彼女と同じように幼女の前に屈んだ甘利は幼女に穏やかな笑みを向ける。「なら、おじさんが一緒に待ってあげよう」と。
唐突に現れた大人の男に幼女がぴくりと身構えた。よく躾けられた子だ。知らない人間を無条件に信用せず、警戒するように親に言われているのだろう。
幼女の反応に、千歳が甘利を一瞬鋭く睨み付けた。その一刹那だけで甘利は彼女の心を理解する。邪魔をするな、と。
その心すら甘利にとっては愉快でしかなく、極上に歪められた口元を彼女に向ければ、彼女はすぐに目元を緩めて甘利を見た。
「ええ、そうしましょう」
──貴方。
微笑みの裏の忿懣に、笑みは深まった。
*
闇の色が濃くなる前に、幼女は遅れてきた父親と共に帰っていった。
上等なスーツを着た男は全力で走ったのだろう、息を大きく乱して公園に駆け込んできた。幼女の名を呼んだ男に、甘利と千歳と話していた幼女は「お父さん!」と顔を綻ばせ、一目散に飛び出した。先ほどまでの泣き出しそうな表情から一変、満面の笑みを浮かべた幼女は男に飛びつく。
男は、はしりと幼女を迎えた。「遅くなってすまない」と謝罪する男からは、善人の匂いしかせず、本当に全力で幼女を迎えに来たのだろうということが窺える。さしあたり、勤務帰りの公僕といったところか。
「おじちゃんとお姉ちゃんがね、一緒に居てくれたの」と報告する幼女に合わせて、千歳と甘利が一礼する。礼を述べる男に二人そろって気にしないように伝え、早く帰ることを伝えれば、幼女の腹の虫が都合よく鳴いた。恥ずかし気に頬を染めた幼女に、「はやく帰って、ご飯を食べようね」と千歳が笑みる。向けられた好意に、幼女はこくりと頷いた。
手を振り、闇が広がろうとする黄昏時を、幼子と父親が帰る。その帰路を見送った甘利は、二人の背中が見えなくなった刹那、纏う雰囲気を硬質化させた隣人に苦笑した。
「怒らないで」
「……怒ってはいませんが?」
「さっきまでの雰囲気に戻してほしいな」
「必要なら戻しますが、その必要性を感じません」
にべもなく、ぴしゃりと跳ねのける言い様に、眉をハの字にする。完璧に甘利の『妻』を演じていた千歳の姿は欠片も残っておらず、怜悧な瞳が甘利を射抜くとそのまま視線を外した。
確かに怒ってはいないようだが、しかし氷を体現する様相に苦笑いしか出てこない。「嫌だった?」と聞けば、首を振る。「必要がないだけです」と無色の声を返した千歳に、甘利は肩を竦めた。
「俺は千歳ちゃんとなら、必要がなくても喜んで夫婦になるんだけどな」
からからと笑う。
するりと出た言葉だった。それは、偽りのない甘利の本心だった。
もし、彼女と夫婦になれと言われれば、それが望まれるのなら、甘利は躊躇なく彼女と契りを結ぶことが出来る。彼女と家庭を築き、子を成して、生活することは困難なことではない。想像することも実現することも、まったく不可能だと認識していない。むしろ、ひどく容易いとさえ感じた。
家族というものを甘利は多少は知っている。
「ご冗談を」
そう感じる甘利の心に、千歳の無色の声色が突き刺さった。視線を彼女に据えれば、酷薄の笑みを浮かべた彼女が、スゥ、と目を細めた。
「目を閉じたら何処かへ消えてしまいそうな夫なんて、馬鹿馬鹿しいでしょう?」
そう言い放ち、ふいと視線を逸らす。
その横顔に、甘利の視線は吸い込まれた。
彼女にしてはツンとした態度だった。常に一歩先を見て、物事を俯瞰して、何もかも飲み込み受け入れる。そんな彼女にしては、甘利の目の前にある横顔は、ひどく幼い。感情というものに蓋をしていない、彼女の一面。
そこにあったのは、年相応のあどけなさだった。
そっぽ向いた顔から滲んだ、彼女の色。馬鹿馬鹿しい、と怜悧な瞳を向けて、嘲笑を僅かに込めた口元を浮かべながら、そっぽ向いた横顔は幼く、むしろ愛らしいとさえ思えた。
内に広がる妙な高揚感に甘利の声が弾む。
「俺はどこにも行かないさ」
「そうでしょうか」
「厳しいなぁ」
棘のある声色にくすりと笑う。肩を竦め、どう機嫌を直してもらおうか、と思案する甘利に千歳はくるりと振り向いた。
柔らかな髪が揺れ、伏せていた瞳が甘利と向き合い、転じた視線が彼を捉えた。
「甘利さんは何処へだって行けますよ」
仄かな笑みを浮かべながら、下がった眉尻、伏せられた眼。揺れる瞳に映るのは哀の色のこもった彼女の深層だった。
その相貌が、甘利の目にひどく焼き付いた。
──嗚呼、そうだ。
彼女の言にどこか納得する己がいた。
自分は何処へだって行ける。何処までも自由に、何処までも囚われずに。
家庭を築き、子を成して、夫婦円満な生活を送ることが出来ても、『育む』ことは叶わない。善人の匂いをつけることは出来ても善人に成ることは、自分にはできないのだ。
家庭人を演じても、それはまやかしにすぎないことを彼女は知っている。
『目を閉じたら何処かへ言ってしまいそうな夫なんて』
D機関員にとって当たり前の思考そのものが、彼女にとって好ましくそして哀しく─
「千歳」
ひとつ瞬き甘利は彼女の名を紡ぐ。改めて見下ろした彼女は自分よりひどく小さい。
自分を見上げた、その小柄な体躯を抱き寄せ、後頭部を撫でた。
「ごめんな」
「……別に、貴方と夫婦になりたいと思ったことはありませんが」
「うん、でもごめん」
ごめん、と呟いた甘利の声に、彼女はもう、言い返さなかった。後頭部を撫でる甘利の指先を感じるように、ただ瞳を閉じる。
──敵わないなぁ。
声にならない諦念を胸中に吐く。
空を見上げれば、茜色は既に落ちていた。
自由人
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