「真実の愛ってどのようなものだと思いますか?」

澄んだ声音でそう尋ねた彼女の相貌は、ひどく淡白だった。言葉だけ見れば薔薇色に輝いているというのに、その頬はひとつも緩まず、染まりもしない。寧ろ冷然とした面持ちにこちらが肩を落とした。
街へ繰り出し、アベックとして過ごした帰りだった。訓練とは名ばかりのお遊び。引っ掛ける女は誰でも良かった。そこに千歳が居た、それだけだ。
しかし、そんな蜜仲な状況での発言だと言うのに彼女はおそろしく淡白だった。

「真実の愛、ねェ」

紫煙を空に遊ばせてぽつねんと口にする。愛、それも真実の愛、とは何か。物質ではないものであり、観念的なそれは定義することは不可能だ。ならば、そんなものハナから存在しない。

「それこそ虚構だろう。ありはしない」
「真実なのに虚構なんですか」
「真実だから、だ」
「……つまらないですね」
「あ?」

ツンとした声に思わず眉間に皺を寄せる。
彼女はといえば、格子越しに細い光を落とす月を見上げていた。月光によって一層陶器のような肌に細く白が伸びる。ツゥ、と格子を撫でた彼女の横顔はどこか佗しげだった。

「つまらないですよ」

どこか諦念の込められた言の葉が耳について、波多野は無性に腹立たしくなった。

──つまらないってなんだよ。

そんなの仕方ない。真実なんてものはそもそもありやしない。ましてや、愛に真実だと。愛そのものが虚構だ。人、立場、状況によって消滅するそんな不確かな情に真実も何もあったもんじゃない。掴みとろうとしても消えるものに価値はない、否、価値を見出すこともできない。

波多野は月に魅入られている彼女の腕を引いた。ちょっとばかし強引に引いた。華奢な体躯はいとも簡単にこちらへと落ち、乱れた寝具にその身体を縫い付ける。そのまま、彼女の咥内を貪った。口蓋を舌を歯列を犯していく。息つく間もなく犯した。
彼女の肢体がぴくりと震える。瑞々しい首筋を指先で撫ぜれば、くぐもった声が口の端から漏れた。
たっぷりと彼女の中を堪能した波多野が唇を離すと、粘着質のある糸が二人を繋いだ。
月光が落ちる彼女の相貌はひどく艶やかで、紅潮した頬と、ぷっくりと熟れた果実のような唇が艶姿を強調していた。

「……ねェ、波多野さん」

格子の影に隠れた微笑みが、波多野に向けられる。

「真実の愛って、一説によると、何にも代え難いものならしいですよ」
「どこの情報だよそれ」
「巷に溢れている情報ですよ」

霞みがかった雲が月を覆ったのか、薄明となった月光に彼女の相貌が不鮮明になる。

「いつかそんな愛を知ってみたいですね」
「ぞっとしないな。そんなもの俺は御免だ」
「言うと思いました」

からりと笑う彼女の表層は定かではない。夜目が効く前に、波多野は再度その身体を組み敷く。

それは、寂寞を感じる夜の出来事だった。





あれはいつのことだったろうか。思い起こそうと記憶の海に糸を垂らすくらいだから、ずいぶんと昔なことは確かだった。
あの日の森閑さとは正反対に、今、波多野の耳朶を打ち続けているのはけたたましい夏の声だった。ミンミンやらジージーやら合唱団は無償でコーラスを日夜披露してくれている。実にありがた迷惑だ。
麦わら帽子を被り直す。カンカン照りで雲ひとつない空は澄み切った青が広がっていた。

終戦を迎え、機関が解体されてから年月が経っていた。他の同期が今どうしているかは知らない。互いが互いの近況に興味があるほど交流があるわけでもなかった。
波多野はというと、郊外のしがない一軒家に一人で居を構えていた。終戦時には国内各地で工作に当たっていたが、御前会議の情報を中佐からの報で入手すると一時東京へと戻った。焼け野原となった街並みは後生忘れることはないだろう。
協曾へと足を伸ばした道すがら、軍服を着用した上背のある男が低く呟いた。

好きにしろ、と。

どこかで予想はしていた。敗戦を迎える国において諜報機関があったという事実が残されることはない。上層部の誰もがその存在を認識していたとしても、どこにも見つけることはできずに闇に葬られる。それが、諜報機関の末路だ。
結城中佐の声を聞いたのはそれが最後だった。彼が生きているのか死んでいるのか、他の人間がどのように過ごしているのか、何一つとして分かることはなく、波多野は東京を離れた。

(今ごろ、魔王様はどうしているかね)

太陽光を反射する川面を眺めながら帰路につく。
死んでいるとは思っていなかった。市ヶ谷で開かれている軍事裁判の話は小耳に挟んでいたが、あの男が法廷で裁かれる姿など想像がつかない。
正義の名の下に裁かれる男ではない。あれは人間ではない、化け物なのだから。人ならざるものを人が裁けるわけがないだろう。

深緑に染まった木々を尻目に思い起こすのは同期達の姿だった。花見の季節になれば、誰かしらが声を上げて足を伸ばしたものだ。
まだ、軍靴の足音が遠くに聞こえていた頃の記憶。仮面を被りながら花を愛でていた化け物達は、土手沿いの桜並木の下で語り合った。他愛のない話ばかりをしていたように感じる。

ふと、そこに居た女のことを波多野は思い出した。

淡い光で照らされた夜桜を見上げて、物憂げに花弁を見つめる女の横顔はひどく美しかった。艶やかで、嫋やかで、触れれば壊れてしまいそうな相貌に波多野の視線は囚われた。談笑する同期達の声がどこか遠くに聞こえるほど、彼女の横顔は麗しかった。
壊れやすいものほど、輝きを放つ。

だからなのか、波多野は訓練にかこつけて彼女の身体を組み敷いた。放っておいたら、もしかしたら他の同期が組み敷いていたかもしれないそれを、波多野は貰い受けた。
壊れやすく脆いそれを手に取り、抱きとめ、仄かな色香を放つ肢体を抱いた。己が下で、瞳に膜を張りながら悦を甘受する彼女はやはり、美しかった。

『真実の愛ってどのようなものだと思いますか』

取るに足らない情を、最上のものと定義する瞳を下らないと一蹴しながらも

『知ってみたいですね』

冷たさと温かさ、氷のような面持ちの下に太陽のような心を持つ女を、波多野は──

「……下らない」

カン、と小石を蹴る。真夏の太陽は思考をひどく鈍らせると、苦々しい思いが胸に広がった。
真実の愛がなんだ。

「幻想だ、そんなモン」

誰に言うでもない。ただ、波多野はそう呟いた。


夏の日差しが容赦なく照り付ける。陽炎が揺らめき、視界を惑わせた。
郊外の田舎町、暑さから人の姿は見られず、皆屋内に閉じこもっている。炎天下に姿を晒すなど自殺行為だといわんばかりの閑散具合だったが、ゆらめく視界の先に、波多野は人影を見た。

(……嘘だろ)

ゆらゆら、ゆらゆら。近づくにつれて輪廓がハッキリしてくるそれに、波多野は心中で驚愕した。

溢れる疑問に答えるように、懐かしい声が耳朶を打つ。


「お久しぶりです、波多野さん」


在りし日の幻想が、目の前に顕現した。





「お夕飯、何がいいですか」
「魚」
「一言で返さない」
「煮付け」
「動詞をつける」
「食いたい」
「もう…仕様のない人ですね」

呆れた声音ながら弾んだ口調。怒気なんてものは欠片も含まれていない声が波多野の鼓膜を震わせる。
地元紙の紙面を目で追っていた彼が視線を上げれば、洗濯物を畳んでいる彼女が視界に入った。しなやかな指先が布をタンタンと伸ばして手際よく畳んでいく様を、ぼう、と眺めていれば「どうされましたか?」ときょとんと丸い瞳が波多野に向けられる。「何でもない」と視線をそらせば、「そうですか」と苦笑が返ってきた。

季節は、秋を迎えていた。

陽炎が揺らめくあの日、波多野は彼女と、千歳と再会した。白一色のワンピースを纏った彼女は日の下で波多野に笑いかけた。真夏だというのに、ちょっとも黄金色に焼けていない肌が彼女という人間を際立たせていた。「お久しぶりです」と微笑んだ彼女の相貌に、阿呆のように目を瞬かせたことを覚えている。

それから暫くの間、波多野は千歳と寝食を共にした。
朝起きれば彼女は大抵起きていて、割烹着に身を包み、柔らかな髪を一つに括って炊事場で野菜を切っている姿を、この数ヶ月で幾度となく見た。
その後ろ姿が、まるでただの女のようで。
自分達と同じ場所にいたとは思えないほど澄んでいるさまに、まるでその時間が夢のように感じられた。
振り向いた彼女は、優婉に口元を緩めるのだ。「おはようございます」と、妻のように振る舞う彼女にしかし波多野は悪い気はしなかった。
外に出かける波多野を見送り、帰る波多野を出迎える。家内という表現がこれほど似合う女だったか、と見紛うほどに彼女は自然に波多野の家に溶け込んだ。

「すっかり、秋色になりましたね」

夕餉を済ませ、床に入る準備をしていた時、ふと、縁側に落ちた月を見遣った千歳がぽつねんと呟いた。「なんだよ急に」と眉を潜めた波多野に千歳はかぶりを振る。「深い意味はありません」と返しながら、しかしどこかその顔は浮かない様子だった。

「秋が嫌いなのか?」
「いいえ、好きですよ。暑くないし、虫の音は心地良いし、夏より過ごしやすいですから」
「のわりには、面白くなさそうな顔をしているが」
「気のせいですよ」

嘘をつけ。胸中で毒づいた波多野は彼女の身体を抱き寄せた。手折れそうな手首を掴み、己が下に組み敷く。あっさりとその身を波多野に預けた彼女は、波多野を見上げてくすりくすりと笑んだ。
「なんだよ」と問えば「いいえ?」と返す。不明瞭な感情の波にムッとした波多野は、彼女の唇を奪った。
共に暮らし始めてから、たびたび、波多野は彼女を抱いた。特にこれといった理由があるわけではなかった。が、彼女が内職をする後ろ姿をどうにも目で追ってしまって。
あの日の夜、月がでんと夜空に鎮座し、煌々とした明かりを地に落としていたあの日、貪るように彼女を余すところなく抱いた記憶が波多野に、彼女を抱かせた。

(そういえば、今日か──)

ふと、縁側から漏れる月明かりを視界の端に置き、気づきを覚えた。

「満月だな、今日」

組み敷いた彼女の首筋に口付け、徐に呟く。
あの日、彼女が月に魅入られた人同じ、まあるく明るすぎる月。ひどく妖しく照る月光が格子越しに室内に入り込み、彼女を艶やかに彩った。
在りし日と同じ情景が広がっている。

「……ねェ、波多野さん。あの日の会話を覚えていますか」

組み敷かれている彼女が、満月を見つめながら波多野に尋ねた。月に魅入られた艶姿にぞくりと背筋が震える。

「真実の愛が何か、だったか」

首筋に顔を埋めて甘噛みをしながら答えれば、くすぐったそうに身動いだ彼女が頷く。

「何にも代え難いもの、永遠にそこにあるものが真実の愛。ふふ、波多野さんには無縁のものでしたか」

ほろりと漏らした言葉にはどこか哀の色があった。仄かな笑みを湛えているというのに、哀切を隠しきれない口元が彼女の憂いを際立たせる。
何故だかその姿が、波多野の心に波風を立たせた。

「お前はどうなんだ」
「私…ですか」
「見つけたのか、真実の愛を」

月に魅入られていた双眸を己に向けさせ、逸らすことは許さないと言わんばかりに深い黒と茶が入り混じった澄んだ瞳を見つめる。まあるい瞳がぱちりぱちりと瞬き、そしてふと目元が緩んだ。


「……見つけられなかったから、私はここに来たんです」


波多野の頬に柔らかな掌が添えられる。ひどく温度がない、まるでそこに何もないかのような掌は波多野の胸の騒めきを一層大きくさせた。

「お前は、」
「それを探していたから、きっと私は、『まだ』ここにいるんですね」

温もりのない掌とは対照的に、彼女の笑みは儚くも暖かだった。
暖かで、しかし、人の温度がなくなった肢体はもはや人とはおそらく言えない。

茹だるような暑さの夏のあの日、ちょっとも黄金色に焼けていなかった彼女の肌。
その時から、もしかしたら波多野は気づいていたのかもしれない。


伝え聞いた情報のなかでは、彼女は夭逝してたいたはずだった。


地方から東京へ向かう列車の中、とある列車が米軍の空襲を受けた。機銃掃射が掃討した多くは一般乗客であり、不幸にもその凶弾はひとりの女を貫いた。結城中佐の命を受けて、たまたま、偶然にも、その列車に乗っていた女。千歳という、本当の名は分からないひとりの女は命を落とした。
その情報だけは受け取っていたからこそ、波多野は己の目を疑ったのだ。

顕現した幻想に、これは夢ではないかと。

「未練なんて俗っぽいものを抱えるなんて、思っていませんでした」

切なく細められた瞳が波多野を見つめていて。その瞳は薄い被膜に覆われていた。
震える声に、肢体に波多野は、無言で彼女の唇を奪った。冷たく、温もりの感じられない肢体はしかし確かにそこにあった。

「…ッ、波多野さ、ん…」
「……なんだっていい」
「え……ぁ」
「真実の愛が何だろうが、お前が何だろうが」

これが、在りし日の幻想ならば──


「──どうだっていいんだよ」


吐き捨てるように呟いた後、波多野はただ無言で彼女を抱いた。何も話さず、一言も何事も発することなくただ、ただ彼女を余すところなく抱いた。
溢れ出る嬌声は耳朶を打ち、波多野を全身で求める彼女の優婉な姿が彼の網膜に焼き付けられる。波多野の名を呼び、瞳から大粒の涙を流す彼女は、ただ彼を求め続けた。

空虚な行為に、意味などなかった。
それでも、二人を隔てる理由はどこにもなかった。


夜も更け、虫の音だけが木霊する中、腕の中に抱き留めていた千歳がするりと抜け出し、縁側に立った。佗しげに落ちる月明かりを受け、波多野を振り返った彼女はひどく美しかった。

「波多野さん、私、ひとつだけ嘘を吐いてました」

憂いがみられる瞳が揺れ、困ったように微笑んだ。

「秋なんて来て欲しくなかった。秋は……嫌いです」
「……そうか」
「はい」

月光に照らされた肢体が、いっそうの輝きを放っている。千歳という人間の最期を彩るように、月明かりは彼女を包んだ。

「なァ、千歳」

徐に波多野は彼女を呼んだ。こてん、と小首を傾げて「何ですか」と問うた彼女に、波多野はニヤリと口角を上げた。

「どうだった、真実の愛は」

小生意気な波多野という人間特有の笑みに、千歳は大きな目を瞬かせると、吹き出した。よほどおかしかったのか、しばらく笑いを堪えることなく、ただただ笑った。

「ふふ、波多野さんは、やっぱり波多野さんですね」
「そりゃあ、俺は俺だ」
「自信家でちょっと小生意気で素直な方、です」
「へいへいどうも。……で、どうだったんだ」

先を促せば、千歳はひとつ息を整え、波多野を見遣った。「そうですね」と、前置き、波多野に向き直る。

彼女の瞳には、もう、憂いはなかった。


「悪くはなかったです」


悪戯っ子のように、年相応の笑みを浮かべた彼女は、波多野にあどけない表情を見せた。

「波多野さん」



──さようなら。



それが、波多野が彼女の姿を見た最期となった。





「……何は悪くないだよ」

冷たい月明かりが、男一人の部屋を照らす。確かにあった温もりさえ幻想だったと、そう突き付けるように、がらんと室内は静まりかえった。
誰もいない、最初から誰もいない縁側を見つめ、波多野はぽつりと呟いた。


「重いモン置いていくなよ」


夢か幻か。
ひと夏にもたらされた幻想は、波多野の心にひどく重くのし掛かった。



夢現
prev next
back


言葉の遊び リンク文字