しんしんと降り積もる雪は嫌でも思い起こす。一人きりで踏みしめた新雪、凍えた足の裏は霜焼けし、感覚のない両脚をひたすら動かした。どこまでも続く凍てつく淋しい世界で見えた光に引き寄せられ、火に飛び入る虫のようにゆらゆらと手を伸ばす。温かな空気と光を背にした痩躯を、私は瞳に生を灯してじっと見つめた。
あれから、ずいぶんと時間がたった。
「……起きたか」
ぱたんと本が閉じる音と淡白な声音が耳朶を打つ。うっすらと開いた瞼が裸電球の淡い光を視認した。身を捩れば木製のベッドがギシリと鳴る。音に合わせて鋭利な痛みが後頭部を走った。
「っ、…」
「無理に起きるな。熱が下がってないだろ」
上半身を起こそうとした千歳の体は言うことを聞こうとしない。ズキズキと己の行動を阻む頭痛と淡白な声に大人しくベッドに横たわる。
半身をうつ伏せにしていると、伸びてきた掌が千歳の額に張り付く髪を避け、額に添えられた。ぴくりと緊縮した千歳に構わず、彼は「まだ高いな」と事務的に呟く。自然と千歳の視線は彼に据えられた。
何故、ここに彼がいるのか。
単純な疑問を頭に浮かべ、千歳は彼の横顔を見つめた。サイドテーブルには水桶と白布が置かれていて、布はしっとりと濡れている。額に手を当てれば、湿り気を帯びていた。
「……波多野、さん」
「ん?」
「……いつから?」
「お前が寝込んでからずっと」
言葉少なの会話で理解した状況に、千歳は居たたまれなさを覚えた。
体調を崩したのは人生で二度目だ。
一度目はまだ自分が魔王に預けられて日が浅いころだった。ベルリンの冬の寒さに体が慣れず、耐えきれなかった幼い体はすぐに熱を持った。
自己管理能力の欠如を童心ながら感じた千歳に構わず、魔王は己の為すべきことを為した。協力者と会うために日中は外へと赴いていたため、千歳は大半の時間を一人で過ごした。時折尋ねに来る大家の夫人には年相応の笑顔を見せて、貰い物は全て調べた後に魔王のデスクに置く。高熱を出している時さえ、いつ何時、何が起こったか。誰と出会い何を話したか。魔王からの“課題”は際限がなく、自身の体調の如何など些末事だった。
留守を任されている。幼い心に刻まれた小さな自負心だけで動いていたが、魔王にとってはとるに足らないものだったろう。そもそも、任せるほど有能でもなかった。毎日、深夜に感じていた掌が添えられた額の感触がその証左だったといえよう。魔王に相応しい、冷たい掌だった。
「すみません」
「……何が?」
「時間、を……奪ってしまって」
しかし、目の前の彼は違う。年端もいかない娘の世話をしているわけでもない。良い年の女の世話のためにいるのだ。何故、その命令を結城中佐が下したのかは定かではないが、申し訳ない気持ちを感じた千歳は無意識にシーツを握った。
「お前に奪われる時間なんざない」と鼻で笑った波多野は肩を竦めた。気遣いなのか本心なのか判別はつかなかったが、それもそうだと思い返す。
彼らは結城中佐に選ばれた訓練生だ。"無為な時間"を過ごすほど阿呆ではない。
では、これに何の意味があるのか。無駄に回る脳が余計に熱を高めたのかズキリと痛みが走った。「余計なこと考えてんじゃねえよ。寝とけ」と呆れ声と共にぼすりと無骨な掌が髪を撫ぜた。ゆったり、緩慢に、子どもをあやすような仕草に千歳が目元を緩める。
「波多野さん……きっと、下の子がいますね」
「そうだな」
「否定しないんですか?」
「しようがしまいが関係ないだろ」
どうせ、嘘(フェイク)かどうかわからずじまいだ。
言外に込められた意味に千歳は眉尻を下げた。
千歳は機関員の子細を知らされていない。結城中佐は千歳に対しても彼らの一切の経歴(プロフィール)を見せることなく、ただ彼らの世話を命じた。名前も出身地も家族も、過去の一切を千歳は知らされていない。
「波多野さん、少し時間をいただいて良いですか…?」
「寝てろって言ってんだろ」
「ちょっと、だけ…まだ眠くならないんです」
こてんと僅かに首を傾けて懇願すれば、彼は長いため息を吐いた後、「何だよ」と渋々折れた。
「昔話、聞かせて、ください」
「は?」
「波多野さんの昔話、聞きたいんです」
正常な思考なら聞かない意味のない質問も、弱った体と回らない頭ならば聞けてしまう。熱とは随分と都合の良い麻薬のようなものだ。
「……ただの物語(ストーリー)が聞きたいってか?」と半笑いの波多野に「織り交ぜた話でしょう?」と微笑めば、彼は虚をつかれたように目を瞬かせた後、ニヤリと歯を見せた。
「良いぜ。話してやるよ」
──波多野が生を受けたのは、夏。向日葵が天に向かって勢いよく伸びる季節。産まれたその地は入道雲が彼方に見えるような土地で、人の往来が活発な街中に波多野と家族は住んでいた。
山と海が近い街で、父親は国鉄職員として勤務していた。母親は体が強くなく、入退院を繰り返す生活。「面倒かけてすまないね」が口癖だった。
「なら、下の子達のお世話は波多野さんが?」
「歳も離れていたからな。十も離れてりゃ、そりゃあ面倒見るのは上しかいない。遊び盛りで体力が有り余った二、三歳児だったから振り回されたけどな」
「目に浮かぶようです」
くすくすと笑んだ千歳の額を軽く小突き、波多野は続けた。弟と妹に手を焼いた日々が色鮮やかに綴られる。
「よく俺の本を奪って走り回っていた。学校の教科書を隠して遊んだ時は、俺が読み終えていたことに逆に腹を立てて…あれは笑ったな」
「気を引きたいのにそんなことをされたらむくれもしますよ」
「違いない」と、からからと笑う波多野の横顔をぼんやりと見つめる。父親は、母親は、と家族の話をする波多野の姿をじっと見つめていた千歳に気づくと、彼は僅かに訝しみ「何だ?」と尋ねた。
「……とても、暖かいお話だと思ったんです」
仄かな笑みを浮かべた彼女に目を瞠った波多野は、軽やかに話していた相貌から一転、硬質な表情を見せた。
「"俺"の話ってだけだ」
「はい。それでも、暖かいから…いいんです波多野さんの……」
紡ぎかけた言の葉を千歳が止めた。僅かに逡巡した視線、薄く開いていた口が遠慮がちに噤まれる。「何だよ」と波多野が問いかけても、「……いえ、大したことではありません」と返すだけだった。
「……お前は?」
暫しの沈黙の後、波多野がぼそりと尋ねた。視線を向けた千歳に、「お前は、どうなんだよ」と、水に濡らした白布で彼女の額の汗を拭いながら再度問いかける。
千歳は、一度口を一の字に結んだ後、ゆっくりと開いた。
「わたし、母の顔を知らないんです」
凛と紡がれた言の葉は、ひどく寂しいものだった。
「もともと、凄く寒いところにいて、その時から母は居なくて…というか、どこかに行ってしまって。その後は、よくある話ですよ」
──身売り。
珍しい話ではない。貧しい農村の家庭ではあることだ。口減らしの為に花街に、或いは豪農に売られる娘の話を波多野も聞いたことがないわけではない。特に数年前の恐慌の煽りでそれは飛躍的に増えた。役所が斡旋しているくらいだ、何も驚くことではなかった。
ただ、それを淡々と紡ぐ彼女の相貌から目が離せなかった。
「母親は子を慈しむものとか、父親は家を守るものとか、そういったものはきっと街中の人々にとっては当たり前のことだったかもしれませんが、そんな“綺麗”な現実はどこにも落ちていませんでした」
仄暗い瞳が饒舌に語る現実に波多野は引き込まれる。
どこまでが真実でどこまでが嘘か。そんな疑義を挟む余地がないほどすらすら口から流れ出る情報を波多野は黙って聞いていた。
千歳の過去を波多野は知らない。以前、聞いたことはあったが明瞭な答えは返ってこず、それは他の訓練性も同じだった。
故に、聞き入ってしまった。
「次男坊だったら奉公に出されていたかもしれませんけど、女はもっと楽に“切る”ことができるから。そんなところだったので、もう、あまり記憶になくて…覚えてるのは、父親だった人間の冷たい背中と、真冬の雪原だけ……」
吹雪いていた。その日はひどく天候が悪く、それでも男は幼子を連れて歩いた。慈愛のある掌ではない。無機質で冷たい、凍ってしまうような掌が幼子を無情に連れて行った。
千歳は一度目を深く閉じた。
「けれど、私は堪え性がなかったので逃げ出したんです」
「……その状況で?」
「はい…真冬の……それも、どこだか分からない土地で。ふふ、馬鹿でしょう?」
緩んだ目元はほんとうにおかしそうで。決して懐古するような過去ではないというのに、彼女は柔らかく笑んでいた。
「だから、私……雪が、嫌いなんです……寂しくて、…冷たくて、どこへ行けばいいか、分からなく、なるから」
だんだんと千歳の瞼が落ちてくる。落ちて、上がって、それを繰り返す彼女に波多野は問いかけた。
「……それで、お前はどこにたどり着いたんだ?」
「……たどり、……つい、た…」
「辿り着いたからここにいるんだろう」
ここ、という言葉をちょっとばかし強調すれば、彼女はそっと瞳を閉じた。「暖かいところ、ですよ」と至極幸せそうに紡いだ言葉はまるで彼女の"本心"のように思えた。
「"しょう、さ"は…あたたかくて…ずっと、見てくれて……でも、それも続かなくて。けど、それでも私は、中佐、と……」
ことりと事切れたように言の葉は止まる。スースーと小さな寝息を立てて眠りに落ちた彼女に、波多野は肩まで布団をかけ直した。
「……少佐、ね」
いったい、それは誰のことなのか。
冬の寒さが厳しく、かつ積雪の多い地域。山でも海でもありえるが少なくとも関東近郊ではない。彼女が幼い頃、おそらく十五年ほど前に少佐。
(……"まだ"足りないか。いや、だが"どこまで"など意味がない)
そもそも、紡がれた話が真実なのか定かではない。
しかし、"目的"は達せられた。
水桶の水を換えに行き、戻ってみればベッドの中で彼女は変わらず寝息を立てて寝ていた。額の汗を白布で拭った波多野の耳を「中佐…」と小さな声が打つ。
「……お前は、どこに居た方が良かったんだろうな」
あどけない寝姿に、波多野はぽつりとひとりごちた。
*
外光が薄く入るだけの室内で、僅かな光を背に受けた男は波多野を一瞥することなく問うた。
「それで、"あれ"は何と?」
あれ。即ち、"彼女"。
怪訝に眉を僅かに顰めた波多野は即座に気を取り直して答えた。
「要約すると、身売りされかけたけれど逃げ出して拾われた、と」
「誰に拾われた」
「さァ。少佐とだけ口にしましたが、如何せん、すぐに寝こけたので」
肩を竦めた波多野の耳朶を、結城中佐の鼻で笑った音が打った。くっくと溢される笑いに波多野の眉間に皺が寄る。
──そもそも、アンタは全てを知っているだろうが。
喉まで出かかった言葉はすんでのところで呑み込んだ。
千歳の"過去"を聞き出せ。荒唐無稽な課題を課したのは他でもない魔王様だ。達の悪い風邪を引いた彼女の看病など最初(ハナ)から目的ではない。
面白い、と思った。
他の訓練生が聞けていない過去を暴くのは、ただ面白いと、そう感じた。
「……それで、……貴様は"何"を話した」
含意のある視線に波多野の息が詰まった。彼の口元は弧を描いている。愉悦を湛えた視線が饒舌に心境を物語っている。
この男は、どこまでも──
「"必要なこと"だけを口にしたつもりです」
勃然とそれだけを言い放ち、波多野は「失礼します」と踵を返した。
「──あれは、昔から冬を嫌っていた」
ドアノブに手をかけた彼の背に掛けられた言葉は、嘲笑っていた。
ぐっと波多野はノブを握り締め、無言で執務室を後にした。
──暖かいから、いいんです。
脳裏に蘇る声音は、頭から離れそうになかった。
看病
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