後ろ姿に哀愁が漂うその様に、目を留めてしまったのを覚えている。それはほんのすこし漏れただけのなんて事はない感情だったのかもしれない。
しかし、ひどく深い想いであった。

『他人を気にしている場合ですか』

視線に気づいた彼は冷めた声音で言い放った。振り返った横顔に息を飲んだのはその瞳に彼らしからぬ色が見えたからだ。

『貴女に気にされるのは少々癪に触る』

不快、苛立ち、常に無色で人当たりの良い存在の彼が見せたもの。波風ひとつ立たぬ彼の水面に波紋が広がっていた。

あぁ、これも彼なのだとすとんと胸に落ちる。脳裏に掠めたのはまだ幼さを残す少女だ。彼の背越しに見えた小さな背中もまた、哀の色が深く染みていた。

『憐憫の情なんて必要ない。いちいちそんな目で見ないでもらえますか』

彼のその一言で己の心のうちを理解する。鋭い視線を持つ瞳の中には『人間』としての自分がいた。気付いた自分に鼻を鳴らす彼に、しかし口を開いた。

『実井さん』

その視線に込められた拒絶の色を否定してでも、言わねばならない。

『彼女は、ーー』







西風が肌を撫ぜ、秋晴れの日の朝の寒さは一歩ずつ近づいて来ていた。葉の色づきは進み、道行く人々の目が空へと移ろうそんな時節。
カランコロンと下駄を鳴らす音が響く。藍色の着物を身に纏った少女と青いスカートをたなびかせる女は紅葉が空を染める空間を歩いていた。

「すみません千歳さん。わざわざ付き合って頂いて」
「お気になさらず。丁度暇していたので」

眉尻を下げて謝罪する少女に、千歳は仄かな笑みを向けた。向けられた暖かな情を正面から受けた彼女は何処か言葉を詰まらせて俯く。居心地の悪そうな、えも言えぬ感覚だと言わんばかりの様相に千歳は苦笑した。

原城志乃は数少ないD機関の中でも女伊達らに優秀な成績を収めていた。座学の才は特に秀でていて、花弁のような愛らしさと併せ持つ毒の棘は一層彼女という存在を化け物へと昇華させる。
彼女は輝いていた。水を得た魚のように自由に大海を泳ぐ様は見ている此方さえも快然たる気持ちを抱かせた。

彼女は『化け物』であることに至福を感じていた。


「ねぇ、志乃さん」


くるりと振り向いたその横顔に矢張り千歳は微笑んだ。


「此処は楽しい?」


パチリと丸い瞳が瞬く。小首を傾げた姿はとても人間であった。

「見識を広めて己の限界を超え続けることが出来る。こんな環境は他にはありません。素晴らしい場所です」

恍惚と頬を紅潮させてすらりと紡ぐ彼女は確かに心の底からこの場所を愛し、好み、全身で享受しているのだろう。伝わる想いに千歳は問う。

「此処でないと手に入らなかった?」
「えぇ、だって」
「貴方は、女だから」

そう被せれば、一転、志乃の顔は見事に歪んだ。

ザァと風が吹く。冬の足音を運ぶ冷風が葉を揺らし、紅色の葉を数枚2人の間に落とした。

「私、貴女にお聞きしたいことがありました」

挑戦的な瞳が千歳に浴びせられる。どうぞ、と促せば意を決したような声音が空気を揺らした。


「何故、囚われることを選んだのですか」


それは至極当然の疑問であった。何れ投げかけられるだろうと予想していた疑問に千歳は彼女を見据えた。

「己の力を発揮する道が貴女にもあったのではないのですか。何故貴女は、そんな…」

そこまでで彼女は口籠もる。千歳は目を細めた。
分かっているのだ、彼女の問いの意味を。
結城中佐という魔王の元で己を高め、世界を見据え、人の感情の機微も、その利用の仕方さえ学んできた。時には、女、という身を活用してさえきた。
女であるからと閉ざされてきた選択などない。彼に与えられた全てが己を構成し、そしてその全てはすべからく千歳の血と肉となり身体を巡っている。

故の疑問なのだ。
何故、どうしてお前は。


「そんな感情を持っているんですか」


震える声音と答えを待つ瞳を併せた彼女は矢張り少女だった。

千歳は視線を逸らすと、紅を纏う葉を眺めた。紅く、紅く、己の真価を理解している彼らは散るその時まで色を極めていく。

ふと、千歳の脳裏に蘇ったのは彼の背越しに見えた、哀の色に染まった彼女の背だった。化け物に見えた哀。色の意味が分からぬほど、きっと彼女も彼も愚かではない。

彼女は化け物だ。

しかし、彼女は女であった。

己を高める彼女の強さの裏側には、拳を握り締めながら震える弱さがあった。女だから何なのだ、女であるからそれが如何程の足枷になり得るのだ。滲み出る想いは強さと弱さの表れだった。
それでも、原城志乃は女という己自身を理解し利用しようとしている。自分自身をキャンバスの中の一枚の絵に見立て、額縁の外から『原城志乃』を描いていく。
彼女はその行為にひどく固執していた。


舞い落ちる葉が地を赤で染め上げる。射抜く瞳に呼応するように真正面から千歳は見据えた。

「志乃さんには強い意志とそれに見合う才があります。天賦のものでありそして貴女の努力の賜物でしょう」

並べた賞賛の言葉に志乃はたじろぐ。

「けれど、」

はらりと落ちた紅に手を差し伸べる。鮮やかな緋色に目を細めた。


「その道に囚われてしまっては、何れそれは貴女の首を絞める」


穏やかでない、真を込めた確信を持った声音に彼女は己を尖らせた。

「それは貴女のことではないのですか?」

志乃が一歩距離を詰める。カランと音を立てた下駄が赤を踏みしめた。
既に絡め取られている人間からの言葉に志乃の中の化け物が首をもたげた。

「囚われてしまっているのは貴女です」
「えぇ、だからこそ、」

その頭にそっと手を添え、千歳は矢張り

「囚われている人間を理解できる」

穏やかに笑みを広げた。


どれだけ浮かび上がろうとしても水面には届かない。彼女は優秀であるが故に抜けることのできない深みに沈んでしまっている。
理解しているからこそ抜け出そうとする、利用したいからこそ心を殺す。その息苦しさは続き、まとわりつく『囚われるな』という理は感情と理性を行き来する。
囚われる筈がないという感情、囚われてはならないという理性。その狭間で彼女はしかし化け物であり続けている。

ただ、それは美しくしかし恐ろしく孤独だった。
先の見えない道を進むのは彼らも彼女もそして己も変わらない。


千歳はあどけなさが残る少女を見つめる。
きっと彼女はそれでも歩むだろう。彼女が彼女であり続ける限り、それは避けられない道だ。


ひゅるりと一陣の風がすり抜けた。
落ちる紅を掠め取り、千歳は優婉に笑んだ。

「貴女の思うように進みなさい、志乃さん。でも忘れないで」

艶やかな彼女の頭をそっと撫ぜ、黄の簪に添えたのは拾った紅。



「貴女の心を、どうか忘れないで」



見開かれた瞳にはひどく哀切の色を帯びた己が映っていた。





『彼女は、貴方と同じです』

放った言葉に、彼は口元を歪めた。
嘲笑うその相貌から返されたのは矢張り皮肉に満ちた声音。

『当たり前でしょう。曲がりなりにもあの結城さんが選んだ』
『貴方と同じ化け物です』

遮った言葉に今度は怪訝そうな瞳が向けられる。分かっているなら何なのだと。

けど、と千歳は実井を見据えた。


『貴方と同じ、人間です』
『!』


実井の端正な顔が僅かに歪んだ。


『実井さん』
『忘れないで下さい』


彼女という化け物を。
彼女という人間を。

紅が染める世界の中で生きる彼女のことを、どうか忘れないで。



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