『捨てられるものは捨てろ』
仄暗い執務室で、魔王は恬淡に言い捨てた。何を、とは明言しないあたり、優しいのか酷いのか判然とはしないが、"何"が分からないほど初心でもない。
処女性を後生大事に持つほど身が固いわけでもなかった。そもそも生娘なんて、唯一使える女という武器には邪魔でしかない。
だから彼女は早々にそれを捨てた。誰でも構わなかったから、ちょいと男を引っ掛けようかと思ったけれど、存外面倒見の良い"兄さん"が街へ繰り出そうとした彼女の肩を、ポン、と叩いて。「ちょっと付き合えよ」なんて人懐っこい瞳を妖しく三日月に歪めたから、彼女はそれに応じて、無味乾燥な協會の自室で華を散らした。
それから、彼女にとって躰を使うことは当たり前となった。甘ったるい男、嗜虐的な男、さまざまな相手を処理することに抵抗はなく、淡々と事をすまして仕事を終える。
躰と心が、切り離されているように、己を殺して。
だから、彼女にとって彼は、ひどく不可思議だった。
「──波多野さんは、優しいですね」
「は?」
秋口に差し掛かった時節はまだ暑さが尾を引いている。
円宿に男女二人。しっとりと、熱が籠る室内で、敷布団の上の彼女はぽつりと呟く。下ろした髪を手櫛ですいて、整えながら視線は彼とは合わない。
「絶対に体に負担かけないし、変なこともさせませんから」
「……変なこと?」
「世の中には、慰み物に無体を働くことを好む殿方も多いんですよ」
「経験があるってことか」
「さァ、どうでしょうか」
横目で見遣り、薄く笑った彼女に、波多野は数度目を瞬かせて視線を外す。
彼女は──千歳は、そんな彼にどこか安心感を覚えていた。
波多野という男は、ひどく甘くて、ひどく優しい。月並みな言葉だが、D機関の機関員としてはきっと、異質だ。彼らは怜悧な瞳で他者を、社会を、世界を見定め必要とあらば切り捨てる。何者にも囚われず、何者にも心を向けず、ただ孤独に愛された彼らは己だけを拠り所とするために、孤高で強い。圧倒的な矜持だけを頼りとして、真っ黒な孤独を歩む姿しか彼らには似合わない。
その中で、月並みな言葉が似合う機関員がいようとは、彼女も思っていなかった。
「優しいけれど、事務的なところは流石と言えますよ」
後腐れなく女を抱きながら、けれどマスタベーションにはならない。きちんと、その場限りの情くらいは提供するあたりが、彼らの素性を知っている女に対する礼節とも言えた。
女に対する甘言やらの扱いが面倒な場合に千歳の躰を《使う》のが当たり前となっている中、彼は、違う。事務的な行為であっても、扱いが粗雑になることはなく、自慰行為と遜色ない荒々しさだって、ない。
言葉数は少ないけれど、その手つきは女の躰を案じている。
(もともとの性状なのかカバーかなんて意味はないけれど)
それでも、目の前の彼に感じる心は本物だ。
そして、彼のその性状を好ましいと感じている自分がいるのも、確かだった。
──好ましい、ね。
ふと、自身の思考に彼女は薄らと口元を緩めた。
籠っていた熱が徐々に引いていく。溶かされていた思考も集束していた。
特段、これ以上居ても意味はない。
「そろそろいきましょうか」と肌着を肩にかけようとした──
「気が変わった」
──刹那だった。
ぐるんと、視界が反転する。薄い敷布団が背中に当たり、月明かりを背にした彼の相貌を拝めた。
細められた眼と、歪んだ口元にゾクリと背筋が粟立つ。「え」と呆けた声を出した千歳に、彼の表情は変わらない。
「もう一回やる」
「え、ちょ、やっ……」
するりと、内股を撫でた指先に躰が反応する。首筋を食まれ、柔らかな髪がくすぐったい。ざらりと鎖骨を舐った舌に、腰が跳ねた。
急にどうしたと、目を白黒させる彼女に波多野は、ニィ、と口角を吊り上げる。
「とびっきり優しいのと荒いの、どっちが良い?」
「……どっちもナシは」
「なら、どっちもありだな」
「やっ──はたのさ、ひあっ!」
耳たぶに歯が当てられ、柔く噛まれる。左手は双丘に添えられ、ピンと立った頂を捏ねた。
火照りが収まり切っていなかった躰に熱が戻る。じわりと濡れ始めた股座に羞恥心が芽生えて、思わず身を捩って逃げかけた──が。
「逃げんな」
「あっ、ぅ」
手を縫いとめられて、ぎゅ、と乳房をつねられる。ビリビリと走る快感に目が潤み、そのまま彼を睨め付けて見ても、効果はない。「煽るなよ」と薄く笑ったその口で、唇を塞がれた。
(やだ、こんなの)
舌を絡め取られ、口蓋を犯され、感覚が麻痺する。舐め取られ、吸われ、絡まる唾液に背筋がぞくりと粟立った。どろどろに己を溶かすような丹念な愛撫に思考が麻痺する。躰の底から湧き上がる肉欲が、彼を欲して。
その、さなか。千歳の耳が信じられない言葉を拾った。
「──かわいい」
ぷつりと唇と唇を繋ぐ透明な糸が途切れて、彼の顔が厭らしく歪む。愉悦を多分に湛えた相貌が千歳を見下ろしていた。
その瞳に、須臾に千歳は直感する。
──嗚呼、これは駄目だ。
警戒信号が脳内に鳴り響く。目の前の男から離れないといけない、と理性が叫んだ。
「波多野さっ、ん! やっ、だ……あ!」
ぐっ、と力を込めて引き離そうとしても無駄だった。体格差も筋力差も明白で、しっとりと濡れそぼってしまった蜜壺に、また、骨張った指が埋まって。
「あっ、んん!」
ぐりぐりと、二本の指が中を撫ぜる。ぷっくらと主張する箇所をコリコリ擦られて、千歳が霰もなく鳴いた。声を抑えよう手の甲を口元にやっても、直ぐに片手で縫い止められる。
「ひっ、あ──やっ、んぁ! あ、」
「千歳」
「あっ、やだ……ふ、あ」
「可愛い、千歳」
「やっ、耳元でっ、しゃべん、ない、でっ」
「好きだ」
そんな、思ってもないことを。
理性では分かっていても、煮立った脳は正常な思考を寄越してくれない。
親指の腹が、陰核を撫ぜた刹那、びくん、と躰がしなる。収縮する膣が波多野の指をきつく喰み、淫猥な肢体に彼が薄らと目を細めた。
ぐりぐりと、再度蠢く指にまた、躰はしなって。「もう、やっ……」と息も絶え絶えに懇願する千歳を見下ろして、彼は一等、口角を上げると彼女の額に口付けた。
「かわいい」
「っ、や……だ、それ、やですっ」
どうして。わざわざ今日に限ってそんな、女を落とすような見え透いた言葉を吐くのか。
「もう、いいです、から……ん、ぅ」
もう一度、抱きたいのなら好きにすればいい。
けれど、そんな愛だの恋だのに準じる言の葉を囁かないでほしい。だって、彼が言葉にするにはあまりにも、空疎だ。空っぽの、心なんて込められていない。
聞きたくない、言葉。
「んっ──ふ、んん」
「……はっ、本当にお前は、かわいいな」
透明な糸が互いをつなぐ。ぐずぐずの思考は徐々に心体どちらも欲を求め始めて。
「──っ、あっ、ふ」
ぐちゅん、と。濡れそぼった秘所に充てがわれた剛直が、緩慢に中へと推し入る。ゆっくり形を整えるように、時折、腰を引いて戻りつつ奥へ奥へと。
汗ばんだ首筋に這わされた舌すら敏感に感じ取って、膣は収縮する。もっと、早く欲しい、なんて感じてしまう情欲に理性が待ったをかけるけれど、それを嘲笑うかのように波多野が、ニィ、と口の端を上げた。
「──っ、」
「何考えてんだ」
「あ……や、っひぁ! あっ!」
どちゅん、と。唐突に奥を抉られる感覚。理性の牙城を突き崩すように、荒々しく、抽送が繰り返される。
考えることは許さない。理性を手放して、溺れろと躰に刻みつける、交わりだった。一度ならず二度三度と果てている千歳の躰は、限界をとうに超えて、ただ与えられる悦を享受するだけの雌と成り果てる。
「ひっ、おくっ、ごりごり、や、らっ」
「ん、了解」
「っ、やっ、ぁあ! ひっあ、やめ、やめ、てぇ」
おかしくなりそうだった。甘く囁かれる声音も、そのくせ荒々しく打ち付けられる腰も。こちらのコントロールを奪う性交自体はよくあることだが、そこに夫婦のような睦言が加わるのは別だ。「かわいい」「好き」そんないりもしない甘言に意味などないというのに。
「──っ!!」
囁かれるだけで果ててしまう。はっはっ、と短く荒い呼吸を繰り返していると、それすら呑み込むようにまた、抽送か再開された。視覚も聴覚も全て犯される感覚に躰が戦慄き、一層、逸物を締め上げる。必死に快感を逃そうと白布を握りしめ、僅かに身を捩る千歳の努力は、しかし彼が許しはしない。
「逃げんな」
「やっ、ひっあぅ……あ、そこ、やらぁ!」
ゴリゴリと、亀頭がぷっくりと熟れた膨らみを擦れば、千歳が身も世もなく鳴いた。言葉にならない音が高くなり、抑えが効かないと手で口を抑えようとすれば白布に縫い付けられる。煮え切った脳ではもはや何も思考することはできなかった。
「はた、のさ、あっ! もっ、むり、むりっ」
「無理じゃないだろ。ほら、此処」
トントンと、彼が子宮を柔肌の上から指で押す。
「孕む準備、できてるじゃん」
厭らしく歪んだ口元に、きゅう、と胎が反応した。浅ましく欲する躰に、波多野は再度、腰を押し付け最奥を穿つ。
「孕めよ」
「あっ、──っ、」
駄々をこねる子どものように首を振っても、許さないと言わんばかりに子宮口を潰される。快感を容易く拾う躰が憎くて、けれど平静な思考を押し流す荒波に千歳は身も世もなく鳴いた。
「やっ、もうむりぃ……」
「無理じゃないだろ。子宮降りてきてる……なぁ、ココ、好きだろ?」
「っ、しらなっ……あっ、おく、やめて……そこっ、一緒に、弄らないでぇ!」
熟れた陰核を指の腹で押されて、中と外からの刺激に視界が白く弾ける。平静なんて装えなくて、仮面を引き剥がすような荒々しさにただ、翻弄される。
何度も、穿たれて。かと思えばゆっくりと攻められて。「千歳」と甘く、穏やかに囁かれる声音すら麻薬のように脳に溶けていく。
自分に堕ちろと、身を委ねて溺れろと。
「や、だ……」
そんなの、ずるい。ひどい、最低だ。
こちらを暴くだけ暴いて、堕としてその先なんて、知らないくせに。
いやだ。いやだ。
「っ、いじわるしないで」
弱々しく溢れた声に、ぴたりと波多野の動きが止まる。不自然な停止にぱちりと目を瞬かせた千歳は、彼を見上げて。
「はたの、さ……んっ、ぅ」
その表情を認識する前に降ってきた口付けに、反射的に目を閉じる。同時に止まっていた抽送が再開され、再度、躰は跳ねた。果てた肢体に追い打ちをかけるように、波多野は腰を最奥に打ち付けて、子宮口を押し潰して。
「───っ、!!!」
どろりと、流れ込む感覚。いつもならすんでのところで抜いて、腹にぶちまけられるそれが、一定の間隔で収縮する逸物の中を通って自身の胎を染め上げる。
うそ、なんで。硬直した躰に、しかし波多野は擦り付けるように、ぐっ、と逸物で奥を舐った。雄々しく、獣じみた行為に目尻の涙がはらりと落ちる。
「──はっ、……ほんと、に、出すなんて」
長く深い口づけが終わると同時に、千歳は呆然と呟いた。信じられない、と彼に抗議の視線を遣ったが。
「当たり前だろ。孕ませるためなんだから」
「……なに、いって……あっ、」
ずるりと、抜かれて思わず色めいた声が出る。自分の内側を支配していたモノがなくなって、その感覚すら過敏に感じ取る躰に嫌気が差す。股倉の湿り気と、太ももに張り付いた白濁が肉欲の生々しさを象徴していた。
嗚呼、ほんとうに出されたんだと、薄ぼんやりと現状を俯瞰する。すると、波多野が手繰り寄せた白布を千歳の肩にかけた。
「お前、ドイツ語いけるだろ」
「……はあ」
「パスポートは中佐に貰え。明日の一三◯◯に横浜から出発だ」
情事後とは思えないほど恬淡に決定事項を伝える彼に面食らう。ぽかんと、数秒は言われた内容を理解することに要した。
しかし、すぐに自身にも仮面を被せる。彼らほどの化け物ではないが、千歳もまた、仮面には慣れているからだ。
──とはいえ、渋々感は拭えずに。結果、長く深いため息が漏れた。
「承知しました。……ただ、行くのは結構ですが、わざわざ中に出す必要はなかったのではないですか?」
大方、夫婦の仮面を付けるための人形役といったところだ。それ自体は理解できる。
しかし、であればこそ、妊娠(リスク)を回避するのは寧ろ当たり前で、ならばなぜ、その逆を全力で行ったのか。
千歳の問いかけに、波多野はぱちりと目を瞬かせた。そうして、あまりに荒唐無稽な、馬鹿げたことを口にする。
「嫁に娶るんだから、おかしくはないだろ」
さも当然と。あっけらかんと。何故それが分からないと言わんばかりの声音。
あり得ないことを口にした彼に、千歳は視線を逸らした。
無意識に、拳を握る。意味が分かるけど理解できない。──否、したくない。
だってほんとうに。そういう意図があるとしたら、どうして。
不安が押し寄せて、けれど口を突いて出たのは問い掛けだ。
「……カバーなのに、ですか」
「任務が終わったらハイさようなら、になるとでも?」
「意味が、わかりません」
「逃がさないようにするには手っ取り早いだろ」
淡々と、平然と返す彼に、そして折り重なった不安に、千歳は俯いたまま、声を荒げた。
「だから! 意味がっ、」
分からない、と。そう、続けようとしたが、しかし。
「分からないなら教えてやる」
刹那、手首を掴まれる。反射的に彼を見遣った千歳は、悟ってしまった。
「お前が欲しい。だから逃がさない。それだけだ」
──嗚呼、もう逃げられない。
視線の先、自分を正視する波多野に、言葉一つ返せない。峻拒しなければ。きっとこれは訓練だ。だから、惑わされてはいけない。己を律しろ。自分は──
《好ましい、なんて》
「っ、」
体を駆け上がったえもいわれぬ感情に、千歳は僅かに身を引く。この場にいたら、自分の感情が全て暴かれて、彼に取り込まれてしまうような恐怖に似た感情が芽生えて。
けれど、彼はそれを許さない。
「千歳」
「あ……ん──っ、」
柔らかく呼ばれた名前。呆然と彼を見つめれば、優しく、甘い口付けが施される。唇を食み、舌を絡ませ、引けた腰を筋肉質な腕が抱き寄せて、身も心も溶かすような、甘い甘い、口付け。
己が想いを、全てぶつけるような──。
(こんなの、ずるい)
白旗しか許してくれないじゃないか。
たっぷりと咥内を愛撫した彼は満足げに目を細めた。戯れるように耳朶をひと舐めされ、千歳は身を震わせる。
お返し、と至近距離の首筋に柔く歯を立てて、千歳はむくれてみせた。
「……強引です」
「嫌なら逃げろよ、逃がさないけどな」
「逃げないとわかっているから、したんでしょう? 同意が得られない相手に無体を働くろくでなしじゃありませんよ、貴方は」
小さく嘆息すれば、波多野は彼女の首筋に顔を埋めた。「波多野さん?」と疑問符を浮かべた彼女に、彼はそのまま、心底呆れたといった風に紡ぐ。
「お前のそういうところ、ほんとさぁ」
「そういう、とは……?」
「なんでもねえよ」
なんだそれは。眉根を寄せた千歳は、しかし感じる彼の体温に、苦笑する。
彼の今が、仮面(カバー)なのか素顔なのか、自分には分からない。もしかしたら、ある日ふと消えていなくなって、彼という存在はなかったかのように、記憶からも薄れるかもしれない。
それでも──
「波多野さん」
今、この時。
目の前にいる、彼の温もりは、声は、確かに本物だ。
「──すき」
だから、千歳は囁く。いずれ消えゆくとしても。
それが、千歳という女の、せめてもの矜持なのだ。女に生まれ、女の役目を負った、己の矜持。
柔らかな髪を漉き、耳元でそっと、甘ったるく伝えた劣情に、波多野はぴくりと体を震わせた。
肩口に埋められていた頭をもたげ、気怠げな双眸が向けられる。
「おまえ、もう一回抱き潰すぞ」
「いいですよ。気が済むまでどうぞ」
「……ずいぶんと余裕だな」
ぽすんと、体が傾いて、三度目の合図の口付けが降ってくる。明日があるのに、と明後日の方向に行った思考を溶かすように、惜しみない劣情がもたらされる。
薄らと、差し込む月明かりが彼を照らす。さらさらと揺れる髪の毛、汗ばんだ肢体が、曝け出されて。
(……嗚呼、ほんとうに)
彼は、ここにいて、今、ちゃんとつながっていて。
その事実が、たまらなく。
──いとしい、なんて。
脳裏に浮かんだのは、やはり月並みな言葉だった。
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