身体が熱い。鈍痛が頭部を支配して、目を開けるのも億劫。身体を起こすこともままならない。
典型的な熱、風邪の症状だ。千歳は現在の自分の状況に眉をひそめた。
きちんと髪を乾かさなかったせいか、はたまた夜風に当たりすぎたせいか。一般的な女性より体力に自身のある自分がまさかこんな失態を犯すなんてと、千歳はベッドに仰向けになり目を覆う。
朝方異変に気付き、朝餉の支度をする前に起きていた福本に事情を説明すれば、頭をポンポンと撫でられた。
『粥でも作ってやる』
だから休め、という言外の意味に、普段ならおいそれと好意を受けない自分が、無言で頷いた。福本が至極満足そうに笑んだのは忘れられない。
朝食が終わるような時間に、くたりとベッドに横になっていた千歳のもとに粥を運んできたのは神永だった。
『弱ってる千歳を見られるなんて役得だな』
満面の笑みでそう言ってのけた神永に、思わず何かを投げつけたくなる衝動に千歳は駆られたが、それすらままならないほどの頭痛が頭を支配していた。そのためジロリと睨みつけ眉をひそめることしかできなかった。
『小言は聞くから、さっさと治せよ』
鬱陶しそうな視線を向けつつも、へらりと笑って頭を撫でる神永の手を払いのけないのは熱のせいだと思い込ませた。
(怠い)
時刻は昼を回った。相変わらず痛みに支配された頭は千歳が正常な思考をすることを許さない。
(いつぶりだろう、こんなに酷くなったのは)
福本が作った粥を食べることもできない。神永が持ってきていた時には湯気が出てきたそれも今は冷え切っている。申し訳ない気持ちを覚えつつも、千歳は寝返りを打つ。
寝ては起きての繰り返しで、夢うつつな、思考が安定しない中脳裏に浮かんだのは小さい頃の思い出だ。
幼き頃に出会った魔王は、孤高で気高く子どもながらにその姿はとても美しいと思った。
千歳自身にあらゆる訓練を施した彼はまるで自分の分身を創り出すように、すべての生きる術を千歳に叩き込んで行った。
しかし千歳も完璧ではなかった。
『ごめ、んなさい』
(あの時も、こんな風に)
布団の上で仰向けになり、自身の中にある熱と戦いながらそううわ言のように繰り返していたのを覚えている。
屋敷の女中が機械的に千歳の世話をしていた中、彼もまた心配する素振りは微塵も見せずしかし落胆した様子も見られなかった。
ただ、畳に似つかわしくないロッキングチェアに腰を掛け無言で本を読んでいた。
意識を取り戻しては謝罪を繰り返す千歳に見向きもしない。
次第に謝罪の言葉も千歳の口から出なくなった。
早く治して、元に戻らなきゃーー
それが、彼を落胆させない唯一の道だと千歳は意識を下層へと持って行った。
朦朧とする意識の中、ふわりと頭に触れた大きな手は夢か幻か。
ーーーー
千歳が倒れた、正確には熱を出して寝込んだという話は、朝餉の時間に食堂にいた機関員が聞いた話だ。
珍しく1人で支度をしていた福本に神永が千歳の居所を尋ねたところ、部屋で寝込んでいるという。神永は、『俺朝メシ届けてくるわー』と、至極楽しそうな笑みを浮かべて意気揚々と粥を持って行った。
(アホらし)
波多野はその今朝方の出来事を思い出してため息をついた。
珍しいこともあるものだと多くのメンバーは最初こそその話題性に食いついたがすぐにその興味は薄れた。当たり前だ、たかが熱だ。
各々が講義後の自由時間を過ごしている中、波多野は食堂にいた。理由は単純
「今日は何がいい」
「何でも」
単なるつまみ食いである。
夕餉の時間の少し前、福本と千歳が支度を始める時間帯に度々波多野はここに来ていた。
それは夕飯の味見だったり、偶に千歳が作る菓子類の味見だったりと様々だが要は小腹がすくのだ。
『身体は小さいのに胃袋は大きいんですね』
悪意なくさらりと言ったその言葉は一生忘れないだろう。
そして今は千歳がいないため炊事場に立つのは福本1人だ。
手際良く野菜を切り、魚を捌いていく福本の手を見ながら波多野はふと熱を出したという彼女を思い出す。
「波多野」
唐突に、福本に呼ばれ波多野はそちらを見やった。
「何」
「千歳に持って行ってくれないか」
福本が差し出したのは、少量の粥と粉状の薬、そして水差だった。あからさまに不服そうな顔を向けた波多野に、福本は口元に弧を描いた。
「今度何か作ってやる」
こいつ本当に人身掌握するの上手いよな、と波多野は内心苦い思いを抱きつつも苦笑する。
相手を手に入れたいなら胃袋を掴めとは良く言うもので、福本のその申し出に波多野は、降参、という風に両手を挙げた。
盆には粥とグラスと薬、そして片手に水差を持ち、波多野は千歳の自室の扉を開けた。
相手が寝ているからといって静かに開けるほど人間はできていない。ノックもしなければ、片手で開けたドアを足で蹴って入るという凡そ外では出来ない芸当で波多野は部屋の中へと入る。
気取られた感じがしない辺り、やはり眠りに落ちているのだろうと彼女が寝ているベッドへと足を運ぶ。
照明付きの近場の棚に盆と水差を置くと彼女の顔を眺めた。
(辛そうだな)
眉根を寄せてた表情からは決して楽ではない体調が伺える。紅潮した頬、汗ばんだ額、苦しそうに息をする姿は、たかが熱と言えないほど重症な様子だった。
「……さい」
そんな彼女の口から小さく聞こえた声に、波多野は目を見開いた。
「ごめん、なさい…」
うわ言を呟きそして短く浅い呼吸を繰り返す目の前の彼女に、波多野は目を細める。
誰に対して、何に対してー
想像に難くはなかった。彼女が敬愛する人物と現在の状況を鑑みればそのうわ言が何を意味するのは明白だった。
ふと、波多野は胸に違和感を覚えた。
目の前の彼女にその顔をさせるのは紛れもなくかの魔王で、そして今彼女のこの無意識の中に自分はいない。
徐に波多野は千歳に手を伸ばすとその頭を撫でた。
幼子をあやすように、優しく髪を梳く。何度も何度もそれを繰り返せば、強張っていた身体から次第に力が抜けていった。
思わず波多野の口元が緩む。
「…ん」
ゴロンと、千歳が寝返りを打った。
波多野は撫でていた手を一瞬離したが、
「……本当に寝てんのかよ」
呆れたように声を出すが、意識がないことはわかりきっている。
しかし、離したはずの手をしっかりと握っているのは目の前で目を閉じている彼女だ。
無意識なのか、先ほどと同じく寝息を立てたままだが、まるで幼子が親の手を握り遠くへ行かせまいという風な様子に、波多野は眉尻を下げた。
(参ったな)
その行為に対してだけではない、
行為に対して嫌な気持ちを抱いていない自分に対してもだ。
波多野は今一度、自分の手を掴み眠りにつく彼女の顔を見た。
穏やかな寝顔だ。
(仕方ないか)
波多野は肩を竦めると、諦めたようにベッドに腰掛けると、目を開いた時、慌てふためく彼女の姿を思い浮かべてクスリと笑った。
ーーーーーー
熱の無意識
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