1945年5月8日にドイツ軍が降伏し、欧州での大戦が終結。同年8月15日にはそのドイツの同盟国であった日本が降伏し、全世界で数多の命が消え去った大戦は此処に幕を閉じた。
戦争の終結が意味するものは数多くあるが、明確に分かれるものがある。
敗者と勝者、即ち敗戦国と戦勝国。
前者に属する日本は現在、米国の庇護の名の下、その統治下に置かれている。
フランスは、後者に属していたが国内はとても戦勝国とは言えない実情を抱えていた。大規模な穀倉地帯を含む北部が戦場となったフランスは経済に大打撃を受け国力が著しく低下。大国フランスとして名を馳せた事実は過去の栄光と化していた。

フランス船籍、マルセイエーズ号が横浜港を出港して1ヶ月。
マルセイユの港に波多野たちが降り立ったのは初冬の、凍てつく風が肌を撫ぜる時期だった。地中海性の気候であるが、冬の時期に吹く寒風はそれを忘れさせるほど凍てついている。

そこから鉄道で北へ向かい、花の都フランスの象徴、首都パリへと彼らが行き着いたのは更に半月が過ぎた頃だった。


「ドイツ軍の撤退の時に被害が少なかったんですね。建物が残っています」
「統治下にあった時の司令官が破壊命令に背いたらしいからな。まぁ、保身の為の根回しも周到だったらしいが」

くつくつと笑う波多野に、悪い顔しないで下さい、と千歳が苦笑する。

大戦による破壊を免れたパリの街並みは大層美しかった。1850年代の都市計画の一環で、上下水道から道路区画、建築整備が進み現在の統一された建造物群の礎が造られた。その後、新古典様式を取り入れた街並みも整備されて行くが、街の景観を損なわない為の配慮を忘れないパリ市民の美意識の高さに、訪れる人々は揃って舌を巻く。

タクシーの車窓から眺める街並みに千歳は心踊った。此処を訪れたことがないわけではない。しかしながら、色味を帯びた存在としてこの花の世界に足を踏み入れたことはない。
隣に座する波多野を見遣れば視線がぱちりと合う。
色彩豊かな同じ世界を見ているのだと思うと、えもいえぬ充足感に包まれ千歳は思わずはにかんだ。


ホテルに荷物を置きひと段落着いた後に、波多野を含めた視察団一行は足早にホテルから姿を消した。昼過ぎから行われる、各国の司法担当や外務官僚などを招いた学会に間にあわせる為のハードスケジュールだ。
一服ぐらいさせろと不満を漏らす者達には目もくれず、進む時計の針をトントンと叩き、案内人は彼らの尻を叩いて連れて行った。
怒涛のスケジュールに残された夫人はぽかんと呆気に取られ、所在無げに辺りを見渡す。夫が仕事をしている間、夫人は大層暇を持て余すのだ。夫人が出席するのは、学会の中で行われるパーティーのみ。

「これからどうするのかしらね」

パリ観光と洒落込もうかと、浮き立つ気持ちとは裏腹に平静を装っていた千歳は唐突に掛けられた声にびくりと身体を震わせた。
振り返れば、艶のある黒髪を纏め上げ、藍色のコートに身を包んだ夫人が眉尻を下げて千歳を見つめていた。

ーー確か、

「あ、ごめんなさい。私は宮永の妻の佳子よ」

上品な笑みを携える優麗な貴婦人は、波多野の上司、宮永部長の妻の佳子夫人。
宮永の家に入る前は横浜に本社のある貿易会社のひとり娘として育てられ、その生い立ちから欧州への渡航歴もある。大層格式の高い御令嬢を、政界に精通していた宮永家が貰い受けた。
記憶された情報を引っ張り出すと、千歳は頭を下げて挨拶した。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。波多野の妻の千歳でございます、主人がいつもお世話になっております」

一歩下がった、低い位置での口上に宮永佳子は、あらやだ、と頬を膨らませた。

「そんな固くならないで頂戴。その手の身の振り方は嫌という程見てきたから、こちらが疲れちゃうわ」
「ですが、」
「佳子さん、とでも呼んで頂戴な?ね?」

気品のある佇まいは崩さず、しかし子どもらしい純真な笑みを浮かべる彼女に目を瞬かせた千歳は、躊躇いがちに口を開く。

「……佳子…さん?」
「えぇ、それがいいわ」

ふふ、と目尻を下げた夫人からは溢れて居るのは気さくで好奇心旺盛な人柄だ。

(噂には聞いていたけれどー)

幼少期から様々な国を渡り歩き、多様な人種の人間と言葉を交わしてきた彼女は誰に対しても物怖じせず高圧的にもならず、それでいて気品は重んじている。
凛とした佇まいは、同性から見ても崇敬の念を抱かざるを得ない。

阿呆のようにその相貌を見つめていると、くすくすと笑い声が夫人から漏れた。

「そんなに見つめられたら困っちゃうわ、千歳さん」
「あ、申し訳ありません」
「いえいえ、良いのよ。噂の可愛らしいお嫁さんに会えて私も嬉しいのだから」
「噂…ですか?」

再度ぽかんと彼女を見つめれば、その様子が可笑しかったのか夫人は笑みをさらに深めた。

「夫から貴女方のことを聞いていたの。大層優秀な部下が入ったと、その部下はまだ妻を娶ったばかりだと。あんまり楽しそうに話すものだから興味が湧いちゃって」

ーーだからこの視察でお話ししようと楽しみにしていたのよ。

悪戯っぽく口の端を上げてずいと千歳に耳打ちした夫人に千歳は驚きを引っ込めると、仄かな笑みを携えた。

(やっぱり可愛がられているんですね)

今頃、その上司と共にタクシーで移動しているだろう彼に想いを馳せる。

D機関にいた頃の彼の上司といえば、言わずもがな身の毛もよだつような漆黒の魔王だ。彼らを化け物として完成させた張本人。
現在の彼の上司である宮永哲郎氏はそんな魔王とは対照的な人物だった。昔気質という言葉がよく似合う男で、面倒見が良く口癖は「困ったことはねぇか?」
波多野のことを、はた坊、と呼び可愛がっているようで、帰宅後に彼が、どんだけガキ扱いしてんだよ、と何度もボヤいていたのを千歳は知っている。

しかしながら、千歳はもう一つ知っている。


『でも、嫌いじゃないでしょう?』


その言葉に反応した彼の顔はひどく不満げで、それは彼の本心の表れだった。


(構ってもらう、なんてことなかったからなのかな)


今、この瞬間も彼は隣にいるであろう上司に、はた坊、と親しく呼ばれているのだろう。そう考えると、自然と千歳の口元は緩んだ。


「ねぇ、千歳さん。パリは来たことがあります?」

弾む夫人の声に千歳の意識は彼女に戻る。

「はい、もう10年以上前ですが」
「あら、なら私の方がご案内出来るわね!ね、一緒に街に、」
「皆さん、少し宜しいですか!」

会話に華が咲き掛けたまさにその瞬間、パンパンと手が叩かれ夫人達の視線が其方へ移った。視線の先には、暇を持て余す夫人の案内役である外交官。
さて、これから何処ぞへと連れて行ってもらえるのかと夫人達は彼の発言に眼を見張る。

「今から夕方迄の時間、3つの班に分かれてパリをご案内します。2つの班は日本国政府の役人が案内しますが、1班はフランス政府の役人がご案内します」

ざわりとあたりの空気がどよめいた。
フランス政府の役人が案内役、そこの一点が波紋を呼び訝しげな視線が役人に降り注がれる。
彼は非常に優秀なー、日本についてよく知っていてー、など必死に弁明する哀れな外交官の言葉には露ほども意味はない。男の優秀さなど瑣末な問題だ。誰もが皆、見知らぬ土地の異国人に、案内など頼みたくはなかった。

どうせなら2人きりで赴きたいものだと溜息をついた千歳の耳にカタンとよく通る靴音が届いた。
必然的に視線が走らされる。

一歩一歩足音が近づき、そして外交官の横に立った『現地の役人』


「……あ」

瞳に映し出された相貌に千歳は息を呑んだ。



「アラン・レルニエです。よろしくお願い致します、マダム」



必然なのか偶然なのか。
千歳の前に現れた男は、朗らかに顔を緩めて微笑んだ。



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