「はた坊、お前嫁をとったのは1年前だったか」
唐突な上司の言葉に波多野は持っていた紙の束から視線を上げた。ただの世間話をするにしては今彼らが居る場所は些か不適当だ。
くるりと見渡せば、役人の一言一句を聴き漏らさまいとペンを走らせる東洋人の数々。鼻持ちにもならない口上を並べ立てて居るのは青い目の異国人達。
「何ですか、藪から棒に」
形ばかりペンを取る波多野と、その上司、宮永哲郎は異国人から漏れる話を右から左へ聞き流していた。
「1年前っつったら、終戦を迎えて直ぐか。」
「そうですね。」
東洋人など未開の土人と何ら変わらない。そう考えている西欧人は多い。語りの節々から漏れる侮蔑の念は2人が彼らに耳を傾けることを放棄させた。
「お前、内地にいたのか」
「静岡の方に。お陰で五体満足でこうして生きているんですよ」
肩を竦めて宮永に苦笑した波多野は、彼の表情を見ると、その笑いを収めた。
「……本当に、良かったな。」
強面に揺れる瞳はひどく苦しく眉は歪められ、しかし笑みを零す。宮永哲郎は心の底から彼のその軽口を噛み締めていた。
ーーーー
「あの人ね、本当に嬉しそうに話すの」
荘厳なステンドグラスから落ちる淡色の光を帯びた彼女の相貌は、ひどく儚げだった。
パリはセーヌ川の内部、パレ通りに位置するサント・シャペル教会。ゴシック建築の最盛期、1248年に建築され特にパリ最古のステンドグラスが拝める場所として有名だ。外観の尖塔からも分かるその高さは見る者を圧倒する。
千歳達はそんなパリ随一の名所に足を運んでいた。案内役の彼、アラン・レルニエの計らいであった。
『人があまり来ない時間帯があるんです』
悪戯っぽい笑みを浮かべ、片目を瞑った彼の言った通り昼下がりのその時間帯は人が疎らだった。
千歳は宮永夫人と残り数人の暇を持て余した奥方と共に礼拝堂で穏やかなひと時を過ごしていた。高々とある天井まで緻密な彩色は施されている。
腰を落ち着かせた千歳の隣に座した宮永夫人は千歳に続けた。
「どんな小さなことも楽しそうに話すの。頼んでいた仕事を早く片付けた、一緒に一杯飲んだ、嫁の話を聞いた、とかね?本当に心の底から楽しそうなのよ」
眉尻を下げる夫人の眼差しには温かみがあり、千歳はその瞳に吸い込まれる。何て美しい人なのだろう、そう思わずにはいられなかった。
「どうしてそこまで…」
思わず漏れた声は、夫人のその曇りなきまなこに引き寄せられたせいなのかもしれない。
何故、この人達はそれ程まで気にかけるのだろう。
ぽつりと溢された疑問に夫人は柔和な笑みの上に哀切の色を重ねた。
「沢山見てきたからよ。帰って来なかった多くの若い人を」
痛切の念を噛み締めるように夫人は目を閉じて眉根を顰めた。
宮永夫妻に子はいない。望めど授かることはなかった。そんな夫妻にとって我が子のように可愛がっていたのが近所に住んでいた子供たちであったという。赤子のそれこそ産まれた時から佳子夫人が世話をした子どももいた。気立ての良い夫人と強面に似合わず面倒見の良い宮永氏は近所でも評判が良くそして慕われていた。
穏やかな日々だった。陽の気が溢れる平生に誰もが微睡んでいたのだ。
ーーあの戦争までは。
「ひとり、またひとりと行ってそして帰ってくることはなかったわ。戦死の報が届いても多くの人が泣きもしなかった。黙って受け取って恨み言の一つも言わずに。それが堪らなくあの人にとっては重かった」
伏せられた夫人の瞼、その双眸は千歳の心にチクリと刺さる。
紡がれる言葉は重かった。重いという単語さえ軽く思える、それ程までにその事実は重く辛く暗い影を夫人に落としていた。
多くの若者が召集された。特に戦況が悪化し、一億玉砕などという言葉が流布され捨て身の攻撃を行うようになった終戦の年の辺りではそれが顕著になった。初老の男性すら召集の対象となっていたその絶望的な戦局。
「あの人はただの役人。何か出来るわけではなかったわ、けれど自分の無力さにいつも泣いていた」
知らされる報せに泣き喚くことも許されない。皆が我慢しているのだと、お国の為だと、そんな体裁のために強いられた苦痛を誰もが経験していた。
流す涙は嬉し涙でなくてはならない。お国のために立派に死んだと喜ばなければならない。
狂気的なその『感情』を演じた多くの隣人に、夫人は宮永氏はいつも涙していた。
夫人が紡ぐ想いを千歳は黙って受け止めた。
一体どれだけの人々がその苦しみを味わったのだろうか。愛する人を子を亡くす痛みに心を寄せ、人としての生を生きる千歳にも心の臓が潰されるような、
(苦しい)
胸が締め付けられる感触に、千歳は手を当てた。
「……だからかしらね、あの子達と同じ年代の貴女達が今こうして2人で支え合って生きている、それが嬉しくて仕方ないの」
だからお節介も許して頂戴ね。
夫人に広がる笑みは矢張り悲壮の色が滲み出ていて、作るべき表情が分からずに千歳はただ頷いた。
ーー誰かを亡くす痛み。
経験がないわけではない。一度、たった一度だけ感じた痛みを嗚咽を殺して呑み込んだあの日。
二度と体感したくない、そんな痛みだった。
ーー三好さん。
ふと見上げた先に入った、聖なる乙女の姿に吸い込まれるように千歳は掌を合わせた。
ーーーーー
世間話のような軽い口調の中に秘められた暗く重い背景に、波多野は閉口していた。
日本が辿ってきた開戦までの道のりと終戦までの過程は波多野達D機関の耳にも入っていた。外地で何が行われ、内地がどのようになったか全て知っていた。
しかし、それは単なる情報にすぎない。電報で打たれた文字から読み取るのは人の営みではなくただの事象。戦局と死者数、大本営の意向、それらを結び合わせただけのもの。
故に、その無機質な文字に込められていた人の想いに触れたのは初めてであった。
自分は人でなしだ。人の心の機微を読み取り利用し最適解を導くだけの化け物だ。
そう自負していた波多野はしかし宮永から紡がれる人の営みに、痛みに図らずも苦悶の表情を浮かべた。
自分も一歩踏み外していればそうだったのだ。
あの日、自分の手からすり抜けた彼女はそのまま戻ってこなくてもおかしくはなかった。偶然と奇跡という、以前の自分ならば一蹴する曖昧で不確定の要素が手繰り寄せた唯一の存在。
「お前も随分と嫁を待たせたんだろう」
渋色を滲ませていた波多野に宮永から柔音が向けられた。
視線を遣れば強面に似合わぬ柔和な目元を拝むことができた。
「うちのとこもな、文句ひとつ言いやしねェで、黙ァって全部飲み込んじまう奴だからよ。そんな女ってのはよく分かる」
困ったもんだと苦笑しながら、宮永の瞳には慈愛の色が浮かんでいる。深く澄んだ色だ。
ーー心底惚れてんだな。
矢張りこの男に強面には似合わない。内心苦笑する波多野を、宮永は見透かしたのか人より大きな掌で波多野の頭をくしゃりと撫で回した。
「っ、ちょ、宮永さん」
「……大切にしてやれよ」
「え」
「言ったろ?あぁいう女ってのは、何もかも飲み込んじまって吐き出し方をしらねぇんだ」
パッ、と手を離した宮永と視線が交錯する。
「てめぇしか付いてやれねぇってことをよく覚えておけよ?」
いつになく鋭く、真剣な眼差しと紡がれた言葉は矢張り重く、波多野の胸にずしりとのしかかった。
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