記憶の片隅に置いて来た相貌だった。差し出された右手を握り返し、発したのはカバーの名前。D機関のスパイとしてのプライドは誰もが憧れる英雄すら凌駕する。
しかし、真っ直ぐで芯の通ったその瞳と共にいることができればどんな未来があっただろうか。
一瞬でも、そう思ってしまった自分に魔王は口角を上げたのだ。
『アラン・レルニエ、僕の名だ』
「アラン・レルニエです。初めましてミスターハタノ」
差し出された右手は変わらない。けれど、その相貌からは以前は残っていた青さが消えていた。凛々しく一介の政府関係者として堂々たる面持ち。
学会後のパーティの列席者は各国の要人ばかりだった。皆、柔和な笑みという仮面を貼り付け恭しく挨拶を交わす。
パリ中心部に位置する創業から100年以上経過している老舗ホテル。学会後の立食パーティの会場は欧米人種で溢れかえっていた。
政府関係者も多く見られる。会場では世間話という名の腹の探り合いが散見された。
合流した千歳達夫人の一行を率いていた青年に波多野は息を呑んだ。ドクンと波打つ鼓動がはっきりと意識出来るほど彼は動揺した。見間違えようのないその青年は、確かに波多野が掌を交わした彼そのものだった。
彼の後ろに控えていた千歳と視線が合えば、困ったように眉尻を下げる。
蜘蛛の子を散らしたように夫人らは夫の元へと走り去り、千歳と佳子夫人も波多野達の元へとやって来た。
「初めまして、波多野亮介です。」
「宮永哲郎だ。ツレが世話になったな」
「とんでもないですよ。お二人ともフランス語が堪能で私の案内など不要なご様子でした」
「あらとんでもないわ。アランさんのお陰で色々な所を回れたもの」
楽しかったわね、と語りかけられ朗らかな笑みを返す千歳の姿に確かに有意義なパリ観光だったのだろうと想像がついた。
暫くは夫婦水入らずで楽しむといい、そう言い残した宮永夫妻に背を押され波多野と千歳は会場の片隅で列席者の顔ぶれを観察していた。そこには、以前D機関の資料で確認した要人らもちらほらと見られる。
大国フランス、その威信をかけた国際学会なのだろう。温和な雰囲気の中に度々見られる主催者側の張り詰めた糸に隣から千歳のため息が聞こえた。
「疲れたか?」
掛けられた言葉にぴくりと肩を鳴らした千歳は苦笑した。
「はしゃぎ過ぎた後にこのような場は矢張り肩が凝りますね」
「仕方ないだろ。幾ら大戦で首都に被害は及んでいなくても、今のこの国の立ち位置は芳しくない」
「必要な場なことは重々承知しています、けれど」
すぅと千歳の目が細められる。視線の先で繰り広げられる列席者達の歓談を見遣り、そして波多野を見上げた。
「どうした」と彼が問えば開きかけた口をそのまま、瞳を伏せ口籠る。何かに逡巡した様子に再度波多野は促したが、首を振り「何でもないです」の一点張りとなった。
「お前なぁ」
「本当に大したことないんです。……それより、何か飲み物でも取ってきますね」
「千歳」
するりと掴もうとした手をすり抜けた千歳は、足早に部屋を歩き回るウェイターの元へと駆けて行った。伸ばされた手が行き場をなくし、仕方なく波多野はそれを降ろす。
(なんなんだよ、一体)
嘆息し、降ろした掌を握り締めた。
すり抜ける感覚を波多野は好まない。
記憶に刻まれた苦々しい過去のこともあるが、もうひとつ、己が身につきまとう亡霊が度々囁くのだ。
『手にしたいものがすり抜けないようにな』
ちらりと、テーブルの上に置かれた色とりどりの花々に視線を遣る。仄かな色味の中にある白百合を視界に入れた途端、片隅に追いやっていた記憶が迫ってきた。
陽の気配が近づく時節のことだったーー
ーーーー
亡霊が付いて回っていた。波多野が足を進める先には至る所に亡霊がいた。
ローゼンシュトラーセ32番地。ベルリンの郊外に立つなんの変哲も無いアパートメント。
亡霊の拠点は既にアプヴエーア、ドイツ国防軍情報部の手によって調べられている。そこを避け拠点を移しながらの活動にも、矢張り亡霊は付いて回った。
1941年、バルカン半島からギリシャ地域にかけての圏域を制圧したドイツ軍はイギリスへの本土上陸線のため前哨戦となる制空権制圧作戦を展開したが、これに敗北。その矛先を東へと向け始めていた。
その混迷極める情勢の中、波多野は渦中にあるドイツに居た。なんの因果だろうと、冬の寒さの残るベルリンの街を足早に歩く。
フランス、パリでドイツ軍とレジスタンスの動きを調査した経験を買われたのか、その時に発した小生意気な要求を聞き入れてもらえたのかは分からない。
確かなのは、前任者が消えた、だから自分が此処に居る、それだけだ。
残されていたのは、舌を巻くほど緻密に整理された無駄のない情報網。その軌跡を辿り自分はこなしていかなくてはならない。
自分は、『真木克彦』を越えなくてはならない。
強烈な自負心が心の臓を熱くする。
肌を撫ぜる冷風が感じられぬ程に波多野の内にこみ上げるプライドは熱さを保っていた。
真木克彦。
一歩一歩足を踏みしめながらその名を反芻する。完璧と言わしめるその能力に賞賛の念を抱きながら、しかし胸の内に湧き上がる不要な情に波多野は首を振った。
必要ないものだ。残された軌跡を辿りながら、足元ばかりを見つめていた波多野がふと上げた視界の先にに鮮やかな色が止まった。
無数の十字架が地を埋める。嘆きの場であり、祈りの場であり、静寂が支配する場だった。散見される人々は皆顔に暗い影を落とし、悲壮感の漂う背中は心中を物語って居た。
ベルリン郊外の墓地の一角に建てられた慰霊碑の前に波多野は居た。碑の前には真新しい花束が置かれ、度々この地に足を運ぶ人間がいることを伝えている。
誰の名が刻まれているわけでもない。身寄りの無い、名もなき人間たち。誰の記憶からも忘れ去られ、その存在すら消えゆく者達の墓。
死人に口はない。どこの誰とも分からぬそれらの墓に波多野は目を細めた。
「……下らないな、真木」
ぼそりと独り言つ。春先だというのに、息は白がかっていた。
真木克彦は、死んだ。
偶発的な事故だった。何の作意も謀略も働いていない、そう、運が悪かったそれだけだ。
ただ運が悪かった。言葉にすれば、そんな陳腐で簡潔な一言で『真木克彦』の全ては終わったのだ。最も魔王に近く、完璧で非の打ち所がない。そんな男の生が、たった一瞬で呆気なく無情にも散った。
こんなにも馬鹿げた話があるか。
胸を支配する鈍痛を感じ、波多野はそれを掴み取る。充てられた掌に力を込めて想いを掻きむしった。鈍痛は激情に変化し、しかしそれを波多野は押し殺す。
真木克彦は美しかった。ひどく美しかった。彼の生は、その美しさは死をもって完成された。
スパイとしての真木克彦の生は美しく気高く、彼は孤高の存在となり、そして消えていった。
苦々しく、波多野は唇を噛んだ。
ーー勝ち逃げかよ。
三好、と波多野の口から溢れたのは化け物の名だった。
追い付けもしない。追い越せもしない。軽やかな足取りで何てことは無いとステップを踏む男は此方をちらりとも振り返らず歩み続ける。
超えることなど叶わないではないか。
完璧で完成された彼の生には死が必要だった。その事実に、波多野は顔を歪めた。
握りしめた花束から一欠片の花弁が落ちる。ひゅるりと風が吹き、墓前に舞い落ちた。
「……なぁ、貴様は、ーー」
舌に乗り紡がれかけた言葉はしかし呑み込まれた。
(…言うまでもない、か)
脳裏で弧を描いた彼が口を開いた。
『当然だろう』
ーー満足に、決まっている。
亡霊が喉を鳴らした。
「……はっ、そうだよな」
吐き捨て、自嘲した波多野に、亡霊は語りかけた。
『貴様に出来るのか、波多野』
それは、亡霊には似合わぬひどく真っ直ぐな眼差しだった。
『背を向けたままの貴様に、俺が勤まるのか』
パサリと花束が投げ捨てられた。
「当然だ」
亡霊は、尚笑い続けた。
ーーーー
白百合の花が揺れる。碑の前に落ちる花弁、笑う亡霊。眉を顰めた波多野に声は木霊した。
「波多野さん」
ぐいと唐突に掴まれた腕にハッと目を見開く。掴んだ主に眼差しを向ければ、愁眉に染まった彼女の相貌があった。
ぼうとしていた意識をゆっくりと現実へと戻していく。ひとつゆっくりと瞬きをした。
「どうした?」
「いえ…何だか、不穏そうにされていたので」
不安げに瞳を揺らす千歳に、何でもねぇよ、とぼそりと低く唸る。
『貴様に出来るのか、波多野』
花弁がひとつはらりと落ちた。
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