• 2−2

       ──頭がパンクしそう。

       手にしていた資料を机に投げ出し、ハルはこめかみを抑えた。長く深いため息を吐き、天井を見上げる。ぼんやりと見つめながら、脳裏に描いているのは数字と文字で組み合わされたこの時代の時系列だった。
       先日、満開の桜が美しい神田川の桜土手を小田切と歩きながらハルは訪ねた、「佐久間中尉は?」と。そんなことまで知っているのかと目を瞠った彼は、旋風に攫われ散る桜を見遣ってかぶりを振った。
       姿が見えなかったため、もしやと思っていたハルの予想は当たっていた。彼はもう、連絡係を解任され、大陸への切符を手にしているのだろう。往復ではない、片道切符を握りしめながら何を思っているのかは分からない。ハルは彼には会っていないのだから。
       今日の日付は、1939年3月22日。朝見た中外商業新報では、政府の財政経済政策の目的を語る大蔵大臣、石渡荘太郎の記事が出ていた。東亜新秩序の建設こそ我が国の不動の方針であり、軍備拡張路線はやむなしとのこと。そのために日満支の経済建設は喫緊の課題であるという内容だった。時節というものを肌で感じることができる紙面だ。
       ハルは地元の図書館で見た新聞紙面を思い浮かべた。アニメを見終わり、原作を読破したハルは図書館に保管されている当時の紙面を読みに足を運んだ。1930年代から40年代にかけての紙面の移り変わりが印象に残っている。戦時色が濃くなるにつれて、紙面を賑わす言葉ワードは目に見えて増えていった。メディアが権力に飲み込まれる様をまざまざと見せつけられた気がして背筋がゾッとしたものだ。
       そういえば、アニメの第1話では新聞売りの青年が号外を発表していた。

      『陸戦隊、青島に上陸』

       1937年7月に中国、北平で起きた日中の衝突、盧溝橋事件。元を辿れば、1928年に中国北東部、満州の覇権を目論んだ関東軍による自作自演の工作、張作霖爆殺事件に端を発している。
       日露戦争の勝利により満州鉄道を含む大陸地域をロシアから譲り受けた日本は同地域の開発を進めていた。インフラ整備、公共施設建設、投資を進め、日本人居留地も増えていた中、しかし経済情勢は1929年にニューヨークを発端とする世界恐慌の煽りを受け悪化の一途をたどる。多くの列強各国は、恐慌によりブロック経済圏を確立。さらには、亜細亜圏の多くを植民地として有していた。日本としては、新たな植民地の獲得が期待できない中、満州という権益を手放す考えがなかったが、辛亥革命後樹立した中華民国、国民党政府の排日運動が既得権益を脅かしていた。
       日満支の経済建設、とは日本の植民地化にある朝鮮半島、台湾、満州に、支那を加えたブロック経済圏の確立のことだった。
       張作霖爆殺事件は、親日派軍閥の張作霖の取り込みに失敗した関東軍が、張作霖の乗った列車を爆破し満州の直接的な支配権を握ることが目的だった。目論見通り、張作霖は死亡したが、すぐに事の真相は明るみにされ、結局は、国民党政府と張作霖の息子、張学良が手を組み満州の支配権は張学良が握ることとなった。
       事件をきっかけに、日中間の関係は冷え込んだ。加えて、関東軍は3年後の1931年に南満州鉄道線路上を爆破。これを、張学良の破壊工作と発表し、ただちに軍事行動へと移行した。5カ月という短期間で満州を占領した関東軍は、体裁の為に満州国の樹筒を宣言。皇帝、溥儀による傀儡政権を作り上げた。
       関係の修復が不能なところまできていた中で起きたのが、両軍の衝突だった。

      (……メモとらないと分からない)

       記憶した内容に齟齬がないかを調べるためにメモを取ろうにも、取ったノートは即没収される始末だ。ハルは頭を抱えた。
       戦後、軍機密となる史料が焼却される中、関係者の証言と残った資料から読み解かれた後に日中戦争と呼ばれる戦争の背景。国内の経済情勢、歴史的背景、軍の思惑、絡み合う点と点を結びつける作業を現時点で終わらせている彼らにハルは肝を抜かれた。軍内部の情報は、機密情報でさえ全て筒抜けなのかとあっけにとられていたハルに、澄ました顔で彼らは教えた。
       後に、幣原外交と呼ばれる外務省幣原喜重郎外相の満州事変の不拡大方針の外交など、軍だけでなく日本政府の意向まで懇切丁寧に講義したものだから、ハルの脳内容量は既にピークを迎えている。
       彼らは、数々の事象からそこにある戦略を読み解く技術に長けている。スパイの技術として当たり前のことかもしれないが、紙の上の歴史的事実を記憶することさえハルにとっては労力を要することだった。
       点となる事象が点在しているのであれば、それを繋ぎ合わせる線を足せばいい。その程度の認識なのだ、彼らにとっては。大事なのは、繋ぎ合わせた点をどう処理して、組織に有利な情報を持ち帰るか。
       盛大なため息を吐いたハルは、机上に投げた資料を手に取った。
      英語の勉強、と称して差し出されたのは、その日中間の衝突に関する資料。後に満州事変と呼ばれる一連の紛争に関する報告書。国際連盟から派遣された日支紛争調査委員会、通称リットン調査団によるレポートだった。

      『どうせなら、社会勉強も兼ねた方が良いでしょう』

       涼しい顔で宣った三好に貼りついた笑みがそのままになってしまった。どうせなら、赤毛のアンとか風と共に去りぬとか、小説の英語版でも貰えればまだやる気が起きたかもしれないというのに随分な鬼畜ぶりである。
       連盟文書のため定型句が多い分読みやすいかもしれない、と謎のフォローを入れた小田切に英和辞典などの辞書が積まれている部屋を案内され、ここ数日、ハルはこのレポートと睨めっこだった。

      「中国の概観とか事件の背景とか民族感情とか、詳細に書かれてるんだなぁ…」

       束ねられたペーパーをペラペラと捲る。
       機関員なら、これを一読して情報を統括し、活用法を瞬時に考えるのだろうか。
       湧き上がった疑問に捲る手が止まった。脳裏に浮かんだ彼らの顔貌は自信に満ち溢れている。

      「あたりまえ…か」

       言わずもがな。歪んだ笑みの中にある自負心に苦笑した。


      「調子はどうだ」

       ノックオンの後に部屋に入ってきたのは、半分教育係となってしまった小田切だった。その顔貌にハルは一瞬詰めた息を吐き出した。

      「そこそこ…ですかね」
      「微妙な答えだな」
      「個人的には及第点でも、皆さんとしては落第点だと思うので」
      「落第と判断するにはまだ早すぎるだろう。ほら」

       福本からだ、と渡されたのは小皿にふたつほど載せられた甘味だった。

      「ちょうど食べたいと思っていたんです。ありがとうございます」

       自然と溢れた笑みに小田切もつられたのか微かに口元を緩めた。穏やかな顔貌にハルはふと、桜並木の下で見た小田切の顔を思い描いた。

      (複雑そうだったなぁ…)

       佐久間中尉は軍人だった。どこまでも愚直な軍人だった。もし、彼が陸士を出ずに地方人として過ごしていたら、それは佐久間という人間とはまた別の存在になっていたろう。佐久間中尉は軍人だからこそ彼足り得た。
       ハルは、小田切の出自を知っている。故に、彼の表情から読み取れるつぶさな感情、起伏をどことなく感じ取っていた。佐久間中尉の話題を振った際、彼は思い詰めた相貌をしていた。
       軍の中では異端の地方人でも、D機関では逆の立場になる。腹の中で混じり合う感情が小田切の苦い顔に現れていた。

      (そういえば、もうすぐだ)

       嗚呼、そうだ彼もだった。日々の生活と学業に忙殺されてハルも失念していた。
       ネットで予約をして満を持して届いた設定資料集、その中で2ページを割いて書かれていた文章。
       四月十一日、飛崎弘行少尉は結城中佐に辞職願を提出する。次の任地は、北支。隊付きで中尉に昇格するものの、銃弾が飛び交う最前線の地だ。
       軍は知りすぎた人間を生きて内地に置いておかない。死地を用意して潔く世を去り靖国に祀られろというところだ。
       辞令を受け取った彼のその後をハルは知らない。外地で華を散らすのか、内地へ戻ってくるのか、はたまた─

      (……あり得ない、か)

       魔王の囁きがまた聞こえることは、ないのかもしれない。
       いずれにせよ、このまま時が進んでやってくるのは、確定された未来だ。
      ハルは未来を知っている。小田切の日頃の行動を見る限り、彼の監視はまだ始まってはいない。
       ハルの隣に腰を下ろした彼を見遣り、ハルはふと思案した。

       今、話せばどうなるだろう。

       先に待ち受ける任務、囚われている相手、事件の結末をまるで小説の世界のように語ればどうなる。
       影を落としたその相貌に未来を語ることでハルの知る物語は変わって行くのか。

      「戸張?」

       怪訝そうな小田切の声にハルはハッとした。手にした甘味は掌に乗ったまま、ハルは小田切を見つめてしまっていた。すみません、と弾かれたように甘味を口に含む。甘い味が広がって、どことなく気持ちが落ち着いた。

      「考え事か」
      「……少し、色々と」
      「……先が見えるというのは、思うことが多くなるものなんだな」

       物憂げな小田切の声音にハルは瞼を伏せて、口を噤んでしまった。返す言葉を探しても見つからない。口を開き、言葉を発しようとして噤む。視線を彼に向けては、逡巡したように泳いだ視線を下げた。

       何が言えるというのだ。

       言ったところで彼が変わるわけではない。カール・シュナイダーが死なずとも、野上百合子に囚われている自覚を持とうとも、彼が彼でなくなるわけではない。
       佐久間中尉が軍人であるから彼であったように、小田切もまた彼たり得る芯を持つからこそ彼なのだ。そこを失った彼は、きっと小田切ではない何かになる。
       そしてそれを、彼が許容できないことはすでに証明されているではないか。
       奥歯を噛み締めてハルは俯いた。

      「……お前は知っていることを前提に話すが、戸張」
      「……はい」
      「何も言わなくていい。それが、互いのためだ」

       一線を画すような口ぶりだった。尖った声に視線を上げれば、意志のこもった瞳がハルに向けられていた。逸らすことのできない、強い視線だった。

      「……分かり、ました」

       口を真一文字に結んだのちに、ハルはひとつ息を吸ってようやっとその一言を告げた。
       分かっている。変えられる未来など、あるはずがない。あって良いはずがない。
       あるべきではないのだ。
       所詮は他人。そして、ハルは物語において部外者だ。さらに言えば、凡人だ。この化け物じみた能力を持ち、圧倒的な自負心を持つ彼らを前にハルはあまりに無力だった。例え、彼があの化け物の中で異端児であっても、ハルが彼と彼の自負心に触れることなどできるはずがない。否、あってはならない。
       望みたくない未来を知っていて、それでも己の力量では何を成すことも叶わない。現実はひどく無情で、故に現実だった。




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