03


 助けてくれた彼に家まで送り届けると言われて危機を救ってもらった挙句それ以上の迷惑は悪いとわたしは遠慮したが「またナンパされたら面倒だろ? それにあいつら戻ってくるかもしれねーし」と怖いことを言うので、素直にお願いをして送ってもらったのだった。目立つ御幸のことはもちろん知っていた。話しをしたことこそなかったが栄純が話す御幸の態度や物言いや、生徒たちの噂話を鵜呑みにしていたわけではないのだが、校舎内や練習風景の見学で見かけるだけだった彼は少し怖い人なんだろうと勝手に思っていたのだ。けれど実際に会い、話をしてみると想像していた人物像とは全く違い、面倒見の良い優しい男性という印象しか持てなかったのだ。見目良いのは噂通りで隣を歩くのは少し緊張した。
 家に帰ったわたしは荷物を置いて、まずはお風呂に入るため浴槽を洗って湯を沸かした。今日は少し遅くなると姉に連絡をしていたので夕飯は作らなくても良いと言われていた。
 風呂の準備ができる間わたしはリビングからベランダに出て夜風に当たろうと思い引き扉を開けてベランダ専用に置いてあるサンダルを履いて外に出た。腰上程の手すりに両手を置いて星が瞬く空を見上げて仰いだ。昼間よりも少し肌寒い夜だった。身震いがして羽織りを忘れたと思ったが、すぐに風呂に入るので取りに戻るのは諦めた。
「いろんな事があった一日だった――」と一人呟いて今日起きた出来事のひとつひとつを思い出していた。
 朝から栄純に倉持を紹介したいと言われ、学校終わりに他校の男子たちとのカラオケに行き、そこでは思いもよらず懐かしい名前を聞いた。思った以上に楽しめた初対面の男子たちとの集まりに気分を良くした帰り道だったが、しつこく誘う男二人からのナンパを御幸によって救われた――そんな色んな人と出会ったとても濃い日だった。
「倉持先輩、橋野くん、それに御幸先輩か――」
 まさか一日で数人の男子と顔見知りになるなんて想像もしなかった。極力異性との交流をしないようにと心がけていたわたしには降って湧いたような出来事だったのだ。
 御幸によって無事に送り届けられた帰り道で判明した事実があった。御幸と鳴はシニア時代互いに所属しているチームが試合をするたびに帰り際に鳴から話しかけられていたらしく、二度目には一方的に一也呼びになっていて、それからはよく話をするようになったのだと言っていたのだ。
「まさか御幸先輩が鳴ちゃんと知り合いだったとは……」
 鳴のシニア時代には試合や練習を観に行ったり応援しに行ったりしていたのだと彼に言えば、思い出したように「そういえば見たことあるかも」と言っていた。ともすればわたしたちは昔から顔見知りになり得ていた可能性が十分にあったのだ。
 ――あの頃のわたしは鳴以外は目に入らず会話をする家族以外の異性と言えば鳴しかおらず、わたしの世界は鳴を中心に組み立てられていたようなものだった。鳴が稲城実業高校に入学し、一年生時から一軍のピッチャーに抜擢された時には姉達とそれはもう飛び上がって喜んだものだった。そんなわたしだったので希望校を自分の言ったとおり稲実にすると踏んでいた彼は、わたしが青道に入学すると言ったときには「なんでよりによって青道なんだ!」と、全身怒りの塊で火山が噴火を耐えきれず爆発させたように怒っていたのを今でも鮮明に憶えている。
 リビングの奥から「お風呂の準備が出来ました」と機械の女性の声が聞こえてきたところでベランダからリビングに戻って脱いだサンダルを綺麗に並べ直して引き戸を閉め上げ下げするタイプのロック錠ををしっかりと閉めたことを確認したわたしは風呂場へと向かった――。
 風呂から上がりキッチンの冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。風呂上がりの喉はカラカラで冷たい水を一気に飲み込んで咽喉を潤した。部屋に戻ると携帯の着信を知らせる小さなランプがぴかぴかと光っていて、わたしはそれを手に取り二つ折りになっている携帯を開いて小さな画面を見た。液晶には着信一件とメールが二件という通知があった。メールの通知にカーソルを合わせて決定ボタンを押した。画面は切り替わり受信メールを見てみると、一件は橋野だった。
『今日はありがとう。成宮に聞いてた藤咲さんに会えて本当に嬉しかったよ。またよければ話しような! じゃ、おやすみ』という簡素な内容だったので、わたしも
『メールありがとうございます。こちらこそ今日は楽しくお喋りができて良かったです。図々しいお願いなんですが鳴ちゃんには私と会ったこと内緒にしてくれませんか? すみません。ではまた。おやすみなさい』と簡単すぎず長文になりすぎない程度に返信をした。送った後にもう一件来ていたメールを見ると、送信名には成宮鳴と出ており、嫌な予感がしたが無視する訳にもいかず少し迷って開いて見た。
『ちょっと! 電話でなよ! メール見たらすぐに折り返しすること!!』と文字が並んでおり、内容で着信の通知は彼のものだとわかったのだ。俺様な彼を放置しておくと後々大変なことになるので、電話なんて珍しいな、と思いながらも着信履歴から彼にコールをした。3回程呼び出し音がなって「遅いよ! 今まで何してたんだよ!」と言う彼の興奮した少し高い声が聞こえてきた。
「ご、ごめん鳴ちゃん。ちょっと色々あって今やっと落ち着いたところなの。鳴ちゃんこそ電話なんて珍しいけどどうしたの?」と私が問えば
「どうしたのー? じゃねーし! なんで橋野と会ってるんだよ! 意味わかんねー。雛ってばそんなに飢えてんの?」激昂しながら彼が言った。
「え? な、なんで知って――「知ってるに決まってんじゃん! あいつおいらの友達だよ? 今日雛と会うってメールが来てた。お陰で部活中イライラしっぱなしだったんだよ!? で、さっき部屋に戻って電話で問いつめた! ねー、なんで橋野に会ったの? もしかして好きなの?」と、矢継ぎ早に質問する彼にはたじたじになった。
「今日初めて会った人だよ!? 好きになるわけないじゃない。それに会ったのはわたしの友達にどうしてもって断れなかったから他の子の代わりに行ったの。じゃなかったら行かないよ……わたしがそーゆーのが苦手なの一番よく知ってるでしょう」
「――まー、それはそうなんだけどさ。やっぱりちょっといい気はしないってゆーかさ……あー、てかもういいや。雛が好きじゃないんだったらそれで」
 最後の方は声が小さくて聴き取れなかった。「なんて言ったの?」と訊いたけど彼は「なんでもないっ」と教えてはくれなかった。
「てかさー、遊ぶ暇あるんじゃん。ならその時間うちの試合観に来なよ。青道に入学してから全く来てくれないじゃんか」
 電話越しなのに彼の頬を膨らましむすっとした表情が目に浮かぶようにわかった。わたしは短く笑ってから
「だって鳴ちゃんに会うの怖かったんだもん。怒られそうで」と肩を竦めて言った。
「はぁー? そりゃ怒るでしょ! 雛は稲実に入学すべきだったんだからさー」
「ほ、ほらーその話になっちゃうから……だから試合観に行きたくても行かなかったんだよ。鳴ちゃんが怒らないって約束してくれるんなら次の試合は観に行きたい」
「もうっ! なんだよそれー。……そーゆー言い方されると俺が折れるしかないじゃん! ――しょうがない、じゃあ約束するから絶対来てよ!」
「わかった。ありがとう、楽しみにしてるね」
「日程はまたメールするから。同室の奴帰ってきたからそろそろ切るよ」
「うん、明日も練習頑張ってね。おやすみ、鳴ちゃん」
「おやすみ」
 電話を切ったわたしは久しぶりの彼の元気そうな声と変わらない俺様っぷりに安堵して通話が切れた携帯画面を見ながら微笑んだ。それと同時に胸の奥底から込み上げる気持ちはとても温かく、彼がわたしのことを気にかけてくれているという事実が嬉しかったのだ。二年に上がり、背番号1のエースナンバーを背負っている彼なので多忙だと理解している。彼の頭の中は野球でいっぱいでわたしの入る隙間など微塵もないと思っていた。
 翌日は夢見もよくすっきりとした気持ちで目覚めたわたしはベッドの上でひとつ大きく伸びをした。例の悲しい夢も見なかったのだ。意気揚々と学校に向かう支度を済ませ、持っていた携帯で時刻を確認すると本日も野球部の朝練時間には間に合いそうだった。



 野球部の立派なグラウンドに到着したわたしは昨日のようにフェンス越しに練習風景を眺めた。部員たちみなそれぞれが守備やティーバッティング、投球練習などに分かれて練習しているようだった。
「青春してていいなぁー……」とつい本音が溢れてしまった。無意識に独り言を呟いた時運悪く前を通りかかったのは御幸で、立ち止まり目を大きく見開いてわたしに向ける表情をみるにどうやら呟いた言葉はばっちりと聞こえていたようだった。恥ずかしさと気まずさが入り混じり、誤魔化すように彼へと声を掛けた。
「み、御幸先輩! おはようございます」と、勢いよくお辞儀をしたわたしに「――おぅ、おはよう」と彼も言った。
 彼の身体には重装な装備が着けられていてキャッチング練習の途中だと伺えた。彼は左手に持っていたキャッチンググローブで口元を隠して、くつくつと声を殺して笑ったのだ。最後の望みで何事もなかったように振舞って彼が聞こえてなかったことにしたかったのだが、やはりそうは問屋がおろさなかったようだ。なんだか昨日からかっこ悪いところばかり見られている気がする。いや、実際にそうなのだ。
「あ、えっと、あの――今日は練習日和ですね」と、混乱してよくわからない声をかけてしまった。
「まあそうだな。いい天気だし」
 笑うのをやめて笑顔で応えた彼は数歩わたしに近づいた。彼は昨日のラフな服装のイメージとは打って変わり
黒縁眼鏡ではなくスポーツサングラスをしていて、黒いフレームの隔たりがなくなったことによって綺麗なその瞳がよく見えた。
「青春してるように見える?」と彼がいたずらっぽい眼差しを向けて言った。
「そうですね。栄純君見てると大変だけど毎日充実してそうで羨ましいなとは思います」
 素直に言ったわたしに彼は「そっか」と優しい顔をしてそれ以上問い詰めることはしなかった。少しの間があいてそういえば、と思い出したわたしは鞄の中から手作りのクッキーの包みと冷蔵庫にいつも常備しているレモンの蜂蜜漬けが入っている両手に乗るほどの大きさのタッパーを取り出した。
「御幸先輩! 昨日は本当にありがとうございました」ともう一度お辞儀をして手に持っているお礼の品を差し出した。
「これ――手作りが嫌いじゃなければですが。クッキーとレモンの蜂蜜漬けです。良ければもらってくれませんか?」
「マジで? ……つーかそんなの気にしなくていいのに」
「いえ、先輩が助けてくれなかったらどんな目に合ってたかわかりません。わたしにとっては命の恩人ですので」
「いやいや、それは大袈裟すぎるだろ。ま、けどありがたくもらっとくわ。って言っても今は受け取れねーから、昼休みそっちの教室に行くよ。沢村と同じクラスだったよな?」
「は、はい! あ、いえ! わたしが先輩のクラスに持っていきますので教室にいてくださると助かります」
「そうか? んー、じゃあ悪りーけど頼むな」
「急いで行きます。逆にご迷惑だったらすみません」
「いや、マジで嬉しいから。じゃ、そろそろ俺行かねーと。だからまた後で」
「はい! 練習頑張ってください」
 彼は「おぅ」と言って背中を向けて右手を振り走って練習へと戻って行った。遠ざかる後ろ姿を見つめていたわたしの胸の奥でピリッとした痛みが走った気がした。

 

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