ずっとずっと昔。
人間が生まれるより前から“ソレ”は存在していた。
“ソレ”は生き物が心にため込む不快な感情を餌に生きていた。
生き物が感情を動かし、空気中に溢す気を吸収して生きる“ソレ”の体は、個体によって形は違えど、全て夜より暗い黒色をまとっていた。
“ソレ”は他の生き物と何もかもが異なっていた。
しかし、それでも“ソレ”は生き物と共存していた。
そのバランスが崩れたのは人間が誕生してから。
人間は、他の生き物と違って複雑な感情を持っていた。
それでいて人間の感情は他の生き物より大きく揺らめき、たくさんの気を空気中に放っていた。
たくさんの気を放つ人間に自然と“ソレ”は近づくようになった。
人間の傍にいれば餌に困らない。それでいて様々な種類の不快な感情を食べられた。
そんな“ソレ”を人間は恐れた。
恐れると余計にたくさんの気が放たれた。
そして、ある日“ソレ”は人間を襲った。
たくさん、たくさん濃度の濃い感情が人間から溢れた。美味しい気を満足いくまで確保できた。
“ソレ”は人間を襲うことを覚えた。
ある日、“ソレ”は人間に近づいた弾みで人間を傷つけてしまった。
すると、もっともっと濃い感情が溢れた。
“ソレ”は人間を傷つけるようになった。
いつしか傷つけられ過ぎて死ぬ人間も出始めた。
だけど“ソレ”はそんなこと気にしなかった。
代わりになる人間が他にもいっぱいいるから。
人間たちは“ソレ”を恐れ、“ソレ”から逃げて、“ソレ”に怯える日々を過ごしていた。
いつか皆“ソレ”に殺されてしまうんじゃないか?
誰もがそんなことを考えていた。
しかしある時人間は“ソレ”に襲われながら、殺されない人間がいることに気づいた。
彼らは何度“ソレ”に襲われても、なぜか殺されることなく生き残るのだ。
さらに彼らは共通して、ある言葉を理解していた。
人間は考えた。
彼らという存在で“ソレ”に対抗できないか?
彼らは人間に請われて“ソレ”をどうにかできないか模索し始めた。
彼らは自分達が“ソレ”の餌となる気をあまり外に出さない体質なのではと仮説を立てた。
その間彼らは互いに交わって子を成した。
その子どもも“ソレ”に殺されることはなく、彼らは自分達の考えが正しいと判断した。
それから彼らは血を濃くしながら“ソレ”への対抗手段を探した。
そして、ある言語を作り上げた。
それは彼らが生まれながらに理解していた言葉から―“ソレ”が扱う言葉から作った。
“ソレ”の言葉を模倣しながら、“ソレ”の言葉と相殺し合う彼らだけの言語。
彼らはその言語によって“ソレ”を倒す手段を手に入れた。
しかし、“ソレ”も大人しくやられるわけではない。
人間を襲うようになってから気性が荒くなった“ソレ”を倒すのは容易ではなかった。
だから彼らは体を鍛え、“ソレ”と戦うための体を作るようになった。
体を作りながら更に言語を研究し、もっと強力で“ソレ”に効果のある言葉の連なりを編み出した。
いつからか彼らはひとつの集団から一族になった。
一族は生まれながらにして“ソレ”と戦うために教育され、人生を全て“ソレ”を滅することに注いだ。
人間はそんな一族を崇め、称え、そして恐れて距離をとった。
“ソレ”と渡り合う彼らは、最早人と似て非なるものになっていた。
それでも、彼らは今以上の力を求め“ソレ”と戦い続けた。
そして、長い月日の果てに一族は“ソレ”をとある場所に押し込めることに成功した。
“ソレ”に襲われなくなり、人間は安心して自分達の領域を増やした。
人間は栄え、どんどん数を増やした。
そんな人間を見守るなかで、彼らはとある変化に気づいた。
人間の間に澱んだ空気が漂うようになったのだ。
それは人々の心を蝕み、人々の感情を悪い方へ狂わせた。
彼らは気づいた。
その澱んでいるものこそ、“ソレ”が糧としているものであり、生き物に有毒なものであると。
澱んだ空気は悪い感情を助長し、さらに悪い感情を生み出してどんどん人々を追い詰めた。
このままでは人間は生きていけなくなる。しかし、だからといって“ソレ”を解き放つわけにもいかず、彼らは悩んだ。
そして苦悩と試行錯誤を繰り返し、新しい言葉の連なりを作った。
新しい力は人間の生きる領域に結界を作り、その結界は別の結界を経由しながら一族が生きる場所に悪い感情を集めた。
集まった感情は閉じ込めた“ソレ”に送られ、“ソレ”によって消化された。
結界が生まれたことで人々は元の営みを取り戻した。
けれど結界の流れによって餌を得るようになった“ソレ”は再び力を取り戻した。
だから彼らは定期的に“ソレ”の数を減らすために戦った。
彼らは一族をより血が濃くて力の強い「結界を形成し“ソレ”を滅する」者達と、それ以外の「結界を支える」者達を作り、一族を分散させた。
そうして、安定した人間の生活を守る基盤が出来上がった。
でも、その頃には守られている人間達のほとんどが“ソレ”を忘れ、“ソレ”を抑える一族のことを忘れた。
それでも、彼ら一族は戦わなければならなかった。
人々から忘れられ、“ソレ”から憎まれ、血を絶やすことは許されず、その人生に自由がなくても彼らは戦った。
そして、今も戦い続けている。
生を受ければ、もうその身に課せられた使命から逃れられない――人でありながら人成らざる者とされた一族が自分達を“嘉戯”と名乗っていることを、今は誰も知らない。