夜晩く

――誰にだって、人に言いたくないことの1つや2つあるものだろう。

かつて私にそう言ったくせに、彼は寂しそうな顔をするのだ。


***


玄関先で出迎えた私に淡く微笑んだ北村さんは、しかしすぐに眉根を少し寄せた。

「どうかしました?」
「いや…、中に入ろう。ここは寒い」

私は疑問符を浮かべながらもその言葉に素直に従い、身体を反転させる。そうして私達は一緒に居間に入ると、2人してその暖かさにほっと息をついた。
疲れているだろう彼にお茶の一杯でも用意しようと思いキッチンに向かおうとしたところでトンッと優しく肩を押され。ぽすり、とソファに収まった私は突然のことにびっくりして目の前の北村さんを見上げた。

「え、なんですか、」
「ちょっとここに座っていなさい」
「え?どうして」
「いいから」

優しくけれど有無を言わさぬその様子に、私は口を噤む。こうなってしまっては彼は頑固で、そう簡単に折れてはくれないことを短くない付き合いから知っている。
私の代わりのようにキッチンの方へ向かうその背中を仕方なく見送り、ソファに頭を凭れさせながら何かしてしまっただろうかと考えを巡らせた――全く覚えがない。
怒っているような雰囲気では無かった、でもどこか様子が変だった北村さんの少し顰められた顔を緩く閉じた瞼の裏に描きながら待っていると、ふわりとコーヒーの香りが鼻先に漂い始める。申し訳なさよりも先に期待が勝って、自然と口角が上がった。

「すまない、寝ていたか?」
「起きてますよ〜ぼんやりしていただけです」

近づいてきた足音が止まってから目を開けた私は、両手に見慣れたマグカップを2つ持った北村さんにこちらこそすみません、と謝罪と感謝を同時に伝えつつ白色のマグカップを受け取った。先程から感じていた苦味のある香りが色濃く、温かな湯気と共に立ち上るそれの縁に、私は口をつけ息を吹きかける。そうしてそろりと飲み込んだコーヒーの味と身体に広がる温度に、身体も心も解けていくような気がした。

「味に問題はないか」
「ばっちりです、とっても美味しい」
「そうか、良かった」

私の好み通りにミルクと砂糖を入れてくれた北村さんも、私の隣で黒いマグカップからコーヒーを一口飲む。きっとそっちは私のものより少し苦味が強いはずだ。
お互いがお互いの味の好みをきちんと把握していることにほんのりと心を温めていると、おもむろに北村さんが口を開いた。

「…何かあったのか」
「?どうしてです?」
「会ってすぐ、傷ついたような顔をしていた」
「傷ついたって、」

そんな心当たりはない、と続けようとしたところで、1つだけ自分の奥底に引っかかったままの棘に気がつき、不自然に言葉を途切れさせてしまった。

「やはりな。どうしたんだ?」
「…いえ、なんでもないです」
「なんでもないということはないだろう、あんな顔をしていて」
「北村さんがどんな私の酷い顔を見たのかは分かりませんが、本当になんでもないですよ。……誰にだって言いたくないことの1つや2つ、あるでしょう?」
「それは…」

――以前、北村さんが危険な事に身を投じていた時期があり、偶然に手酷い怪我を負っている場面に遭遇したことがある。北村さんからとにかく君の身にも危険が及ぶから、と何時にもなく真剣な表情で強く言われたため、何も聞けないまま会うことも連絡を取り合うこともやめていた、そんな時だった。だから思いもよらない再会と心配していた以上に傷ついている姿を目の当たりにして動揺した私は、その言葉も忘れて彼に駆け寄り手を伸ばしてしまった。
しかし私よりずっと冷静だった北村さんは私の手も言葉も全て突っぱねて、すぐに立ち去るように言った。詳しく説明もされず、ただ距離を置かれて、その上何もせずに通り過ぎろと言われた私はかっとなり、どうして、と声を上げてしまった。
そんな私に、痛みも酷いだろうにいつものように落ち着き払った瞳で私を真っ直ぐ見据えて、北村さんは言ったのだ。誰にだって、人に言いたくないことの1つや2つあるものだ――と。

「…まだ怒っているのか」
「違いますよ!確かにあの時は怒りとか悲しさとか色々と収まりがつかなくてもうだめだなって思ったりもしましたけど…ちゃんと会いに来てくれて、そのことで喧嘩も仲直りもしたじゃないですか」

久しぶりに部屋まで訪ねてきて、でも今はまだ何も話せないと言われて、じゃあ何しに来たんだと喧嘩になって。
お互いに言いたいことを言い合って、お互いにどれだけ相手のことを想っているのかを思い知らされて。
大切で、大切だからこそ心配で、大切だからこそ危険に晒したくなくて。
お互いに手を繋いだままで居たかった、ただそれだけの2人だった。それが分かれば、もう十分だった。
……けれどもちろん、後から事件の話せる限りの全容を聞いた時、あの喧嘩の日が"明日死ぬかもしれない最期の夜"だったと知った時は再び怒った。
人に一生モノの傷痕をつけるような事をしないで下さい!と言ったら、驚いた後に謝ってきた顔がしかつめらしい表情をしながらも殆どわからない程度にほんのりと笑っていたのは、未だによく理解できないけれど。

「…でもちょっと、意趣返しみたいなところがあったかもしれないです、ごめんなさい」

少し気まずくなって苦笑しながら伝えても、北村さんの表情は晴れなくて。

「あの、だから、本当に気にしないでください」
「…そうか、なら良いんだが」
「……ずるいですよ」
「ん?なんだ?」

――貴方にそんな心配そうな、寂しそうな顔をされたら、絆されてしまう。

「……本当に個人的なこと、というか。私自身が飲み込めばいいだけのことで、でも少し引っかかってしまっているだけなんです」
「何があったかは…聞かないほうが良いのだろう」
「そう、ですね…ごめんなさい」
「いや、無理に聞いてしまってすまなかった。…だがもう1つだけ教えてくれ」
「なんですか?」
「君は誰かに傷つけられたのだろうか」

再び同じ質問をされて、私は自分の中の棘を改めて見つめる。
私は私のやりたいようにしていただけで、それが妨げられそうになって。もしかしたら相手は悪気はなかったのかもしれない、けれど私は…少しだけ、嫌だなと、怖いなと、なにより悲しいなと、そう思って。それが未だに小さな棘となって残っているだけなのだ。
そう伝えると、北村さんは深い溜め息をつきながら言う。それが傷つけられたということなんじゃないか、と。
傷つけられたなんてそんな、と咄嗟に思ったのが表情に出ていたのだろうか、北村さんは私の顔を見つめていた。
と思うと、手の中からマグカップが優しく奪い去られる。そうしてテーブルの上に2つとも置いたその手が、私の頭を引き寄せた。

「君はどうして、そうやって自分のことになると鈍いんだ」
「鈍くなんかないです…!」
「いいや、恐ろしく鈍い。…そして、恐ろしく優しい」

片手はまだ私の後頭部に優しく添えられている。額に触れる服の下から、確かな北村さんの温かさを感じる。

「詳しく何があったのかは分からない。だが嫌な思いをしたんだろう?意に沿わないことを期待されて、それに怖い思いをしたんだろう?それが、傷つけられたと言わないのなら何だと言う」
「でも、」
「相手に悪気はなかったかもしれない、か?…そう思えてしまうから君は優しいんだ。飲み込まなくて良いんだ。…少なくとも、俺の前では飲み込まないでくれ」

――引っかかっていた棘が、外れた気がした。と同時に、熱い何かがこみ上げてくる。
思わず目の前の服を掴み、溢れ出そうになるものを抑えようとする。
だけど、いつの間にか背中に回っていた手が。大きくて温かくて、誰よりも優しいその手が、促すように私を撫でるから。
私はその手に甘えてしまうのだ。




私の溢す水滴が北村さんの服を濡らす。申し訳ないと思いながら大きく息を吸って自分を落ち着けようとしたけれど、不器用な呼吸を繰り返すだけで。僅かに苦しく震える息を少しずつ整えていくのが精一杯だった。
そんな私を、北村さんはずっと黙ったまま腕の中に匿い続けてくれた。

「…すみません」
「謝ることはない。落ち着いたか?」
「はい、…ありがとうございます」

さほど長い時間ではなかったけれど遠慮もなく泣いてしまったことに今更ながら恥ずかしくなって、顔をあげられない。鼻をぐすぐすとしている私に使うと良い、と手渡してくれたティッシュを有り難く使わせてもらう。目元や頬を拭い、すっきりするまで鼻をかんだ――ここまでくれば恥ずかしさなんて今更だ。
ようやく顔をあげると、心配そうにこちらを見つめる北村さんが居て。
改めて恥ずかしさと、気まずさと。何よりも愛しさが込み上げてきて、私は再び北村さんの胸に飛び込んだ。
まさか抱きつきてくるとは思わなかったのだろう、北村さんは少し焦ったような声を出して上体を少しぐらつかせたけれど、しっかりと抱きとめてくれた。
照れ隠しも含めて思わず笑ってしまった私に呆れたのか、ため息一つ落とした北村さんの腕が再び私を囲う。
まったく、という言葉には棘ではなく安堵の色が見えて、私は更に嬉しくなってしまった。

「ねえ、北村さん」
「ん?なんだ?」
「明日お休みですよね?朝あれ作ってください、あの特製ジュース」
「構わないが…材料はまだあったか?」
「あ…無かったかもしれないです…もし足りなかったら明日起きてから買いに行きましょう。角のスーパー早くから開いていますし、帰ってきてゆっくりとご飯食べるのもたまには良いと思うんですが…どうでしょう?」
「ああ、良いな。そうしよう」

そう言って優しく笑う顔を見て、私も笑みが溢れる。
ふざけて小指と小指を絡めて、約束です、と言う私に、約束しよう、と北村さんは至って真面目に返してきた。
明日をまた二人で迎えられること、それがこんなにも楽しみで嬉しいことなんだと、この指を通して伝われば良いのになんて、ちょっと思ってしまった。


夜は静かに、更けていく。

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