03





「一華さん、今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。小五郎さんのパソコン、また見に来るよ」
「お願いします」
「またね、一華姉ちゃん」
「またね、コナン君」

探偵事務所の扉の前で蘭とコナンと挨拶を交わし、階段を降りる。一華さん、と中ほどで蘭に呼ばれ、立ち止まって振り返った。

「あ、あの、今日教えてもらった番号にまた連絡してもいいですか?」
「もちろん。ありがとう、蘭ちゃん」

蘭が嬉しそうに笑った。その笑顔を見て一華は、いい子だなぁ…と純粋に思う。
彼女にもう一度手を振って、事務所の建物を後にした。

建物から一歩出た瞬間、一華の頭はポアロで再会した降谷の事でいっぱいになっていた。
「安室」と呼ばれていた。しかし、彼は間違いなく「降谷零」だ。五年も会っていないとはいえ、見間違う筈がない。記憶が薄れないように、何度も何度も脳裏で再生してきたのだ。
偽名を名乗っている程だ。知らないふりをされても仕方ない。それくらいは理解できる。
でも…と、一華は心の中で呟く。

(結構、堪えるなぁ)

ふっと苦笑いが漏れる。
無事に生きている姿を見られるだけでいい。ずっとそう思ってきた。それなのに今、傷付いている。結局は、自分の事を気にかけていて欲しかったのか。
一華は自身の中に湧き上がった感情と、それを自覚していなかった己の未熟さに呆れた。

次に訪問する予定の工藤家に向かう為、二丁目方面へ歩き出した。
ーその時、突然横から強い力で引っ張られた。

「え、ちょっ……!!」

バランスを崩すまいと引かれる方向へ足を動かすが、倒れ込むように細い路地に入ってしまった。誰かに腕を掴まれていると認識したのはその時で、咄嗟に声を上げようとしたが、その人物を見て一華は踏み止まった。

「零さん…?」
「シッ」

降谷は、一華を壁に押し付けたまま人差し指を立てる。その「静かに」の合図に大人しく従った。半分は、驚きのあまり声が出なかったのだが。
彼は鋭く周囲を警戒すると、やっと一華を解放した。服装はポアロにいた時と同じだが、エプロンは脱いでいる。
一華の心臓は早鐘を打つようだった。ずっと会いたかった人が、間近にいる。あんなにも再会の日を心待ちにしていたというのに、いざ本人を目の前にすると、用意していたはずの言葉が一つも出てこない。
先に口を開いたのは、降谷の方だった。

「なぜ此処にいる…どうして東京に戻って来たんだ」

険しい口調だった。
都外に住んでいたのは、両親を殺した犯人に狙われないようにする為だった。当然、彼も知っている事だ。
一華は負けじと降谷を見上げる。憧れ続けた紺青の双眼に見つめ返されるだけで、本当は嬉しくて涙が出そうだった。

「決めたんです。"あの日"の記憶を取り戻すって」
「駄目だ」
「どうして…」
「何の為に、北条氏が君を此処から遠ざけたか分かっているのか」
「分かっています」

一年前に亡くなった養父は、警察庁情報通信局の局長だった。そして、一華の実父の親友でもある。
当時、両親が殺された事をいち早く知り、他に近しい親類のいなかった一華を、彼は養子として迎えてくれたのだ。
記憶を取り戻しても危険が増えるだけだと、自身の"能力"を隠して生きろと教えられた。
彼が一華について何か知っている事は察しがついたが、拾ってもらった恩もあり、何も聞かず言い付けを守って生活していた。

「でも、北条さんはもういない。それに……零さんは、知りたがってたじゃないですか」

私の記憶の中身を。
そこまで言わずとも伝わったのは、降谷の見開かれた眼で分かった。いつもそうだ。彼は察しが良い。
そしてそれと同じくらい、彼女も頭が回るのだ。

「北条さんも、零さんも、私が思い出せない部分に重要な何かがあると知っていた。そこに、両親が死んだ原因があると」

零さんの親友である"彼"も、知っていたのかもしれない。

「これ以上は、嫌です。もう誰も失くしたくない……。危険だと分かっていても、思い出したい。貴方の力になりたいんです」

降谷はしばらく黙っていた。俯き加減の顔に長めの前髪がかかり、暗がりという条件も手伝って表情が読み取れない。
表通りの車の行き交う音が、別の世界での出来事のように遠く聴こえた。

そんな中やっと彼が口にした言葉は、通りの喧騒を掻き消すほど、クリアな音で一華まで届いた。

「…もう、それは必要無い。この件にこれ以上関わるな」

頭の先が痺れて、クラクラした。
拒絶されたという事実を脳が受け入れるのに、いつもの倍はかかった。
降谷はおそらく、ずっと一華の居場所を知っていたはずだ。同じ本庁の人間が引き取ったのだから、調べれば直ぐに分かっただろう。
記憶を取り戻したかどうか、確認しに来ることはいつでもできたはずだ。でも、彼と彼の関係者はこの五年間一度も接触して来なかった。

(ああ、私はこの人に、必要とされたかったのか…)

瞼が震えて、目を閉じる。頬に温かいものが伝った。
それでも後戻りをする気は、とうに無い。
両親を殺した人間は、まだ捕まっていないのだ。

「では、自分の為に動きます。これは…私の事件でもあるから」
「駄目と言っているだろう…僕の言う事を聞くんだ!」
「今更……命令しないでください!」
「……っ、一華!」

伸ばされた手を弾いて、一華は逃げるように路地を後にした。ここで安易に追って来るような男ではない。自信があったので、彼女は一度も後ろを振り返らずに走った。


降谷は、先ほどまで一華が立っていた場所の前で立ち尽くしていた。しかし、頭の中では次の手を考えている。

『彼女は我々の"切り札"にも、"脅威"にもなる』

ポケットからおもむろに携帯を取り出し、履歴の中にある番号の一つに発信した。

「風見か?ひとつ頼みがある……」

手短に用件を伝えて、相手の返事も待たずに切った。
そろそろ店に戻らなくては、さすがに怪しまれる頃だ。
降谷は自身の掌を見つめる。今しがた、彼女の手を掴み損ねた右手だ。

「君まで、死なせる訳にはいかないんだ…」

彼の脳裏に先立った友の顔が浮かび、震えるその手を握り締めた。









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