記憶の鍵 01


工藤家のインターホンを押すと、出てきたのは家主の妻、有希子だった。
予想外の人物の登場に一華は唖然としたが、有希子は構わず駆け寄りハグをした。

「一華ちゃん!元気だった?綺麗になったわね」
「有希子さん…!アメリカにいるんじゃ無いんですか?」
「一華ちゃんが来るって新ちゃんに聞いたから帰ってきたんじゃない!優作はさすがに無理だったけどね」
「優作さん…マカデミー賞受賞されてから忙しそうですね」
「そうなのよぉ。取材と執筆依頼が殺到しちゃって」

有希子の笑顔と底抜けの明るさに、一華はほっとした。彼女の笑顔は、周りをも明るく照らす力がある。

彼女は降谷から逃げてしまった事を、既に後悔し始めていた。なんて子供じみた態度を取ってしまったんだろう、と。
一華は、同年代の女性と比べても感情の起伏が小さく、まして他人に声を荒げた経験など数えるほどしか無い。
それなのに彼の事となると、どうしても冷静さを欠いてしまう。その説明できない感情に支配されてしまう自分が、嫌いだとまで思う。

「大丈夫?あまり元気が無いわね」
「い、いえ…大丈夫です」
「体調が優れないようでしたら、とりあえず居間で休んで頂いては?」
「え?」

有希子との会話に、突如聞き慣れない声が乱入する。いつの間にか、玄関前に男が立っていた。発言したのは彼のようだ。物腰は柔らかいが、眼鏡の奥の眼からはあまり表情が読み取れない。背が高く安定した立ち姿から、身体を鍛えているなと一華は評価した。

「ああ、失礼、申し遅れました。この家に居候させてもらっている、沖矢昴と申します」
「初めまして…」
『………ろ…!』
(……え?)

沖矢に名乗ろうとした一華だが、突如脳裏に誰かの影と声が浮かび、その場で固まる。

黒い。黒い影だ。
違う…あれは、服が黒ずくめなんだ。ズボンも、ジャケットも、帽子まで黒い。
こっちに近寄ってくる……駄目、早く隠れないと…でも、足が震えて動かない。
『……ろ…!……やく…!』


「……ちゃん?一華ちゃん!?」

肩を大きく揺さぶられ、一華の思考は再び現実に戻ってきた。間近に有希子の大きな瞳があった。一華は自分でも気づかないうちに、両手で頭を抱えていた。背中を伝う冷や汗に、少し身震いする。

「ちょっと…顔真っ青じゃない!休んだ方がいいわ。ほら、入って」
「え…あ、すみません…」

有希子が一華の肩を支えると、沖矢が扉を開けて二人を通した。
一華はまだ動悸が治まらなかった。
今の映像は何だろう。
自分が知っている記憶の中に、あんな経験は無かった。つまり…

(あの日の記憶を、思い出しかけた…?)

しかしそれ以上考えようとすると、ズキズキと頭が痛み、脳が考える事を拒否してしまう。

沖矢は有希子に連れられる一華の背中を、何も言わず静かに見つめていた。


「あの…すみませんでした、ご心配をおかけして」
「いいのよ。何かあれば頼ってって、前に言ったじゃない」

テーブルに温かい紅茶の入ったカップが三脚用意され、一華が座るソファーの向かい側に、有希子と沖矢が並んで腰掛けた。有希子はまだ心配そうな表情だ。
頭痛や動悸はすっかり治まり、顔色も幾分良くなった。ざわざわと波立つような気持ちも、今は無い。既に先ほど見えた記憶を、冷静に分析し始めていた。

「あの、沖矢さん…でしたよね」
「はい」
「私と、何処かで会った事ありますか?」

確信は持てないが、沖矢を見た瞬間に記憶が蘇った気がした。ただ、今はもう彼を目の前にしても何も起きなかった。

「いえ……今日初めてお会いすると思いますが」
「そうですよね」

彼の返答を聞いてあっさり引き下がる。一華とて、沖矢とは初対面だと思っていた。

両親が殺された五年前の"あの日"。おそらく事件を目の当たりにしたショックで忘れてしまった記憶を、一華はまだ少しも取り戻せていない。

(あの何かを言っていた黒ずくめの男…。あの男が、両親を殺した犯人?いや、だとしたら私だけ生きて逃がす訳が無い……)

「あの…」

突然発せられた沖矢の声に、一華も有希子も彼に注目する。

「今日は帰って休まれた方が良いと思いますよ。家までお送りしましょうか?」
「そうね。ちゃんと休んだ方がいいわ」
「あの、でも、新一君にパソコンの事頼まれて来たのに…」
「そんなのいつでも出来るからいいの!」

結局、一華はお茶を一杯飲んだだけで帰ることになった。
降谷との再会もあり精神的に消耗していたので、沖矢の提案に助けられたと一華は密かに思った。

沖矢が家まで送るという提案を、一華は丁重に断った。
工藤家の留守を任せられる程なら信用しても良さそうだが、つかみどころの無い彼の雰囲気に警戒心を持っていた。
代わりに沖矢が呼んだタクシーが着く頃、有希子はもう一度一華を抱きしめた。
嫌味の全く無い上品な香水の匂い。頬にあたる柔らかい髪。女性の憧れるものを全て纏ったような彼女にハグされると、一華はいつも嬉しさと共にドギマギしてしまう。

「今度は優作も連れて来るわね」
「はい。優作さんには後でメールしておきます」
「何かあったら、ちゃんと教えてね。新ちゃんにでも構わないから…」

一華は、有希子の優しい言葉に記憶の事を話したい衝動に駆られたが、結局は何も言い出せないまま工藤邸を後にした。




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