三分の一 01


「私は、良い名前だと思いますよ」

ノートパソコンのキーボードを叩く手を止めて、彼の方を見る。

「1と0さえあれば、無限になれるから」

パソコンをトントンと指で叩いて示すと、しばしきょとんとしていた彼が、ああ、と何かに気づいたように声を上げて口の端を上げた。

「"2進数"だね」

私も、伝わったことが嬉しくて顔が自然と綻ぶ。彼と言葉を交わす事が、最近の一番楽しみな時間だ。

「だから、0は私にとって無くてはならないものなんです」

彼と同じ名前の数字を口に出すたび、胸の鼓動が速くなるのが分かる。それを知ってか知らずか、彼は悪戯っぽく笑って私の顔を覗き込んだ。

「それは、数字の話かい?」
「そ、そうですけど」

近くまで迫った彼の整った顔を見ていられず、慌ててエディタ画面に視線を戻す。作業をしているフリをしようにも、続きのコードが全然思いつかない。明らかに顔も熱くなっていた。

「でも…それなら、1が無いといけないな」

零さんは、顎に手を添えてわざとらしく天を仰いだ。こういう芝居掛かった仕草も、様になってしまうから狡い。

「いますよ」
「誰が?」
「例えば…」

コンコン、とノックの音がした。
私達が同時に注目すると、扉を開けた人物は「邪魔だったか?」と苦笑いしながら入ってきた。
短めの黒髪に、切長の目。零さんと共に、私を助けてくれた人ー景(ヒロ)さんだ。

「ほら、彼とか」
「なるほど」
「えっ、何の話だ?」

突然私に差されて、その人はたじろいだ。時々こうして彼を困らせるのが楽しい。

「時間か?」
「ああ、そろそろな」
「分かった」

彼は大抵、零さんを呼びに来る役割のようだ。
私と交わす言葉は、挨拶だけになる事が多い。

「ごめんな、一華ちゃん。慌ただしくて」
「いえ、気にしていません」

謝る姿も爽やかなのは、零さんとはまた違った魅力だ。私は彼の事も好きだ。もし自分に兄がいたら、こういう感じなのだろうか。何度かそんな想像もした。

「一華」

病室から出かかったところで、零さんがこちらを振り返る。

「知らない人間を、中に入れるなよ」
「はい」
「今度はゆっくり話そうな、一華ちゃん」
「はい、また」

挨拶も無く去る零さんと、優しく手を振る景さん。正反対なのが可笑しくて笑ってしまう。


警察の保護下にあるとはいえ、いつまでも入院している訳にはいかない。いずれ私はここを去るだろう。彼らとこうして話をする日々も、すぐに終わりが来る事は分かっていた。

それでも、願っていた。
穏やかで少しだけ刺激的なこの時間が、ずっと続いてくれたらいいのに…と。





ああ、遠くで鐘の音が聞こえる。
もう少し、懐かしい暖かさに浸っていたいのに…。


テーブルの上で、携帯が鳴っていた。
バイブレーション機能がガタガタと端末を揺らし、騒がしさを増幅させている。

「あ……?電話…?」

ソファーで眠っていた一華は、やっと自身のスマホに着信が来ている状況を認識した。
寝不足で重い頭を無理矢理起こし、身体はうつ伏せのまま右腕だけでテーブルの上を探った。
途中、栄養ドリンクの空瓶を叩き落としたが、構わず目的の物を掴む。
ディスプレイには「毛利 蘭」と表示されていた。

「はい…もしもし」
『あ…ごめんなさい。もしかして寝てましたか?』
「うん、いや、気にしないで。…今、何時?」
『十時です。あの、もしお疲れでしたら…』
「ごめんごめん、本当に大丈夫だから。どうしたの?」

姿が相手に見えなくとも、雰囲気は悟られてしまうものだ。一華は蘭の遠慮する態度に反省し、身体を起こしてソファーに座り直した。

『今日、ポアロで安室さんの新しいランチメニューを食べようって話になって…』

蘭が発した"安室"というフレーズに、一華は心臓が跳ね上がるようだった。それに伴い、眠気でぼんやりしていた脳もようやく稼働し始める。

『そうしたら安室さんが、"この前来た一華さんも是非"って誘ってくれたんですけど…』
「れ…安室さんが?」
『はい。でも、今日の今日なので…お忙しいですよね?』
(零さんが…何が目的だろう)

彼とは先日気まずい別れ方をしてから会っておらず、連絡も取っていない。
そもそも、連絡先など知らないが。

昨日は明け方まで本庁で暗号化されたデータの復元作業をしており、帰ってすぐソファーに倒れ込んだ時には、すっかり外が明るくなっていた。

休養を取るか、降谷からの呼び出しを取るか。
…答えは決まりきっている。選択肢にもならない。

「今日は予定無いから、お昼には顔出すよ」
『本当ですか?ありがとうございます!』
「こちらこそ…また後でね」

蘭の声のトーンが明らかに高くなり、その解りやすさに一華は思わずはにかんだ。
電話を切ると、緩慢な動きで洗面所に向かう。

「うん…ヒドイ顔してる」

元々色白なので、目の下に出来たクマが目立つ。一華は鏡に映る自分に、思い切り溜め息をついた。

懐かしい夢を見ていた気がしたが、もう内容は思い出せなかった。

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