episode.3
痛い、熱い、苦しい
でも逃げなくちゃ、もっと遠くに
捕まったら、酷い目に遭うから
朦朧とする意識の中で、過去の体験が映像となって脳裏に浮かぶ。苦しくて、痛くて、涙が溢れた。息を吸うたび余計に苦しくなって、呼吸の仕方を忘れてしまったのかと思う。とにかく逃げないとという一心で体を起こすと、誰かに肩を抑えられた。強い力に焦って、さらに暴れる。許して、と叫んだ気もする。怖い、お願い、もうやめて。
「落ち着け、ここは安全だ」
低い、男の人の声がした。涙でボヤける視界で顔を判別することはできない。私は、逃げている最中だったはずだ。撃たれた傷が開いて、意識を失って。それで。
「大丈夫だ、もう少し寝ておけ」
もう一度ゆっくりと、諭すような声が聞こえる。耳に心地いいそれは幻聴だろうか、都合のいい夢をみているだけでもう死んでいるじゃないのか。肩を抑える力は確かに強いが痛くないことに気づく。痛くない?そうか、もう死んでしまったのか、これ以上逃げる必要もないのか。なんだ、そうか。納得すると同時に体から力が抜けていく。体が軽くなって、息が、吸える。妙な安心感とともに深い海の中に落ちていくように意識が沈んでいった。
◇◆◇
ぱちっと目を開く。目の前には見知らぬ板張りの天井。手足の感覚はある。おそるおそる腹部に手を当てると、手触りの良い布の下に包帯の感触がした。ベッドに寝かされているみたいだけど、拘束はされていない。それどころか壊れたままついていた手枷も足枷も外れて、代わりに包帯が巻かれている。いったいここはどこだろう。視線を動かすとベッドの脇に水差しとガラスの水のみが置いてある。それをみた途端急に喉が渇くのを感じた。
「…生きてる」
ぽつりと呟いた声は、掠れてほとんど声にならなかった。どういうわけか、私は誰かに助けられたらしい。夢もみた気がするが、あれも夢ではなくて現実だったのかもしれない。体を起こそうと身じろぐと同時にこちらに近づいてくる足音が聞こえた。全身に緊張が走る。手厚く治療して助けられた手前いきなり攻撃されることはないと思いたい。身構えてドアが開くのを待つ。入ってきたのは見覚えのない女の人だった。白いツナギを着ていて、はっきりとした目鼻立ちをした迫力美人だ。手には水の入った洗面器と手拭いを持っていた。視線が合うと彼女はにっこり笑って近づいてくる。
「目が覚めてよかった!ああ、まだ身体は起こさないで。あなたの質問にも答えるから、先にこちらの話を聞いて」
ハキハキとした声に呆気にとられ、少し警戒が解かれる。水飲める?と水飲みを口元に寄せられ一口含む、本当にただの水だ。喉を滑り落ちていく水の感覚に、何日も胃が空っぽだったことに気付いた。
「ここはポーラータング号という海賊船の中。わたしはその船員で、名前はイッカク。あなたを助けたのはうちの船長、トラファルガー・ロー。3日前、シャボンディ諸島で海軍とやりあった時に、船長が怪我したあなたを連れてきてここで処置をしたの。うちの船長は海賊であり医者なんだ。わたしはその処置を手伝って、今日まで経過をみていた…と、ここまでで質問はある?」
こちらが聞くより先にイッカクが先回りして情報をくれた。私が売られそうになっていた島はシャボンディ諸島という島で、ヒューマンショップから逃げた先では確かにあの場に何組か海賊が海兵と交戦していた。そして運悪くその攻撃に巻き込まれたのが私、ということらしい。
「あ、あの、なんてお礼をすればいいか…」
恩が大きすぎて差し出せるものはこの身一つで足りないのではないか。もちろんこの後命を差し出せと言われる可能性もある、何か船員にはさせたくない仕事をするために拾って生かしたのかもしれない。海賊というのだから、労働力とか、掠奪の手伝いとか?何を要求されても命を救われた以上断ることはできないけど…。もごもごと項垂れていると。
「もうすぐ船長がくるから話はその時に。傷の状態を確認したいから少し服のボタンをはずすわね」
イッカクはそう言って徐に私の着ているシャツに手をかけた。反射的にシャツの胸元を握りしめ抵抗する。イッカクはさっき処置を手伝ったと言った。もう身体の傷痕は見られているのかもしれない。案の定悲しそうな顔をされた。気まずくて俯くと、耳がこちらに近づくもうひとつの足音を拾う。船長という人だろうか。顔を上げ、ドアに視線を向ける。
バタンと扉を開けて入ってきたのは長身の男の人だった。
部屋の密度が増え、先程以上の緊張感に呑まれる。尻尾がするりと足の間に入り耳がペタンと勝手に伏せた。現れた男の人は、派手なパーカーにデニムと、およそ海賊船の船長という風貌からはかけ離れているように思う。眼光鋭いカッパー色の瞳とその下の濃い隈とが相まって、とても機嫌が悪そうに見えた。
自然と警戒態勢になる私をじっと観察している。あ、お礼を言わないと。
「助けてくれて、ありがとう。と、トラファルガー、船長?」
「…ローでいい、礼はベポに言え。お前を見つけた船員で、ミンク族だ。お前の名は?」
「…リト」
「傷の具合をみる。服を脱げ」
「え、と…」
「…俺とイッカクは治療の時に一度見ている、今更だ早くしろ」
要点だけを淡々と述べるローの声に、既視感を覚えた。どこかで聴いた?とぽけっとする私の代わりに、イッカクが私のシャツのボタンを外し、胸のすぐ下までボタンを開けて裾を捲ってくれる。胸が見えないように配慮してくれたようで、傷痕を見せるのと同じくらい恥ずかしかったから助かった。
綺麗に巻かれていた包帯が解かれ、当て布の下から茶色い消毒液を浸したガーゼが現れる。傷を覆っていたそれを取り外すときに、ピリッと痛みが走った。自分の傷なのになんとなく視界に入れたくなくて目を瞑る。
「化膿はしてないな、皮膚も再生を始めている。常人よりも回復力が桁違いだな。お前はミンク族であってるのか?」
「…正確には半分だけ」
「そうか。ゾウから来たのか?」
「ゾウ?」
「ミンク族の集落がある場所だ」
「違う、と思う。小さい頃から周りは普通の人たちだったから…」
消毒液を塗り直し包帯を巻き直していく作業を見つめていると、ローにいくつか質問をされ、分かる範囲で答えた。ミンク族の集落…初めて聞いた。母は普通の人で、ミンク族の血は父から受け継いだということだけ小さい頃に聞いたことがある。そのときにはもう父はいなかったが、いない理由は知らない。そして母も今はもう生きていない。
「腹の傷は処置したが、他に気になるところはあるか」
「ない」
「身体に力は入るか」
「う、ぐ、…入る」
「無理に体を起こさなくていい。傷の回復具合からして一週間もすればまともに動けるようになるだろう。普通はもっとかかるが」
「船長、リトの食事は?」
「胃に負担の少ないものなら問題ねェ」
じゃあ何か食堂で貰ってきます、と言い置いてイッカクは部屋を出て行った。処置が終わり、服のボタンを止め直す。そういえばこの服は誰のものだろう。この前に着ていた服と比べて肌触りも着心地も格段に良い。なんだか当たり前のように施されていて、この好意に裏がありそうで怖いのと、そう疑ってしまう自分が嫌いだった。薬品を棚に戻すローの背に思い切って声をかける。
「あ、あのっ!」
「なんだ」
「わ、私、お金持ってなくて、治療費も返せなくて。だからかわりに雑用だってなんだって、私にできることならなんでもやります。ほんとに、なんでも…」
だからこの船においてくれないか。続く言葉は口に出せなかった。尻すぼみに消えていく私の声に、ローは険しい顔をする。
「助けたことに理由はない。強いて言えばうちの船員の同族のよしみだ。くだらねぇこと考えてないでまずは治せ。今後の話はそれからだ」
ピシャリと言われた言葉は口調ほど厳しいものではなかった。