消えないもの








「失礼します、室内の掲示物を回収にきました」


声をかけて部屋に入ると、理事長は1人だった。理事長に会うのは入学式以来だ。それも遠目に見ただけだから、こうして面と向かうのは初めてだった。名前はえーっと、確か…そう、松永理事長。スーツの似合うダンディーなおじさんだったと記憶していたが、間近で顔を合わせると、ぞわりと背筋に悪寒が走った。


「やぁ、君は神代くんだったかな」


「はい、こ、こんにちは理事長。突然お邪魔してすみません」


「構わんよ、好きに作業してくれたまえ」


なんで名前知ってるんだ。疑問に思いながらも、品のいい笑みを浮かべる理事長に会釈をして、壁の掲示物を剥がしにかかる。妙な緊張と、焦りからか手が震えた。よくわからないけど、ざわざわする。この感覚はなんだろう。感じたことのない不快感、この場から一刻も早く立ち去りたい。どうしてこんな感情が湧いてくるのかもわからない。


「そこは手が届かないだろう、代わろう」


もたもたと作業する私の様子を見かねてか、理事長が席を立ってすぐ側に来た。私の目線より高いところにあるポスターを代わりに取ろうとしてくれたのだ。ただの親切なはずなのに、私の手の震えは余計に酷くなった。


「おや、顔色が悪いが。大丈夫かね?」


近くなった距離、心配そうな声音とともに顔を覗き込まれて目が合う。凄みを感じる色気の奥。感情の読めない目に、一気に恐怖が押し寄せた。

知らず、呼吸が浅くなる。酸素が急に薄くなったように、息が吸えない。冷や汗が首を伝う。


「はっ、はっ、…ツ」


苦しい、なんで、急にどうして。自分の急激な体調の変化に戸惑う。さらに耳鳴りと眩暈まで襲ってきて視界が涙でぼやけた、直後。


「神代、落ち着け、大丈夫だ」


庇うように視界を手で塞がれた。耳元で低い声がする。霧隠くんの声だ。ふらついた身体を支えられているのだと自覚して、なぜか安心した。いつの間に霧隠くんが来たのか。なんでこの声に安心するのか、よく分からないのに、何故か当然のような気もして。漠然と助かった、と思った。


「申し訳ありません、彼女の体調が悪そうなので失礼します」


「…構わんよ。忘れていても覚えていることもあるようだ」


「…っ、?」


そんな会話がかろうじて聞こえて、意味もわからないまま抱えられるようにして部屋を出た。どっと疲労感が襲ってきて、体に力が入らない。ようやく薄くなった空気が戻ったような気がして、大きく息を吸い込む。抱えられたままどこかへ移動しているのが分かったが、私が意識を保っていられたのはそこまでだった。



▼▼



「…、…?」


ふ、と意識が浮上して、目を開けると無機質な天井が目に入った。一瞬どこにいるのか分からなくなったが、すぐに自分のいる場所が保健室のベッドの上だと気づいた。

あれ、なんか私、理事長室に行って、それで急に具合が悪くなって…。だるい頭を傾けるとすぐそばに人がいた。


「…霧、隠くん?」


「起きたか。気分は?」



ベッドの横にパイプ椅子を広げて座っていたのは、霧隠くんだった。読んでいた本を閉じてすぐにこちらの心配をしてくれる彼に、変な既視感を感じる。


「大丈夫、ごめん。ありがとう」


私が急に倒れたおかげで彼は帰りそびれて、挙句付き添いまでさせてしまった。申し訳なさに謝ると、気にするなとぶっきらぼうに返された。
私の荷物もベッドのそばに置かれていて、それも多分霧隠くんが取ってきてくれたんだろう。
普段全く関わりがないクラスメイトに、何から何まで…もしかして彼めちゃくちゃいい人なのでは?

「帰れそうなら送る。無理そうなら先生を呼んでくるから家まで送ってもらうか、家族に迎えを頼め」


「へ、平気。帰れる」


迎えはともかく、先生に送ってもらうなんて恐縮してしまう、と慌ててベッドから起きた。少し気怠い感じはしたが、さっきのような具合の悪さはない。壁の時計を見ると部活も終わるような時間になっていた。私は1時間以上寝ていたらしい。


「そうか、じゃあ行くぞ」


「待って、才蔵…っ」


当たり前のように私の荷物を持ってくれる霧隠くんに慌てた拍子に、なんでか下の名前で呼び掛けてしまった。びっくりしたようにこちらを見る霧隠くんの表情は単に下の名前を呼ばれただけのものではない気がした。


「ご、ごめん、つい。なんか咄嗟に呼び捨てちゃって…」


「……いや、才蔵でいい。そっちのが呼びやすいだろ」


彼の動揺もさることながら、私もかなり動揺していた。なんでポロッと呼び捨てしてしまったのか。いや確かに霧隠くんより才蔵のが呼びやすいのはそうなんだけど。
本人に許可をもらったものの、お互いに気まずさを感じながら廊下を歩く。私を気遣ってかゆっくりと歩調を合わせてくれる才蔵はやっぱり優しい人だと思った。


「理事長には失礼なことしたよね、謝る機会ないかなぁ」


「謝る必要はないし、なんならもう近づくな」


校門までかと思ったら、なんと家まで送ると言って聞かない才蔵に折れて一緒の帰り道。
なんとか話題はないかと考えて、さっきのことを持ち出したら、一気に才蔵の機嫌が悪くなった。近づくな、ってそこまで言う?


「そりゃ、顔みて倒れるって最大に失礼だけど…尚更誤ったほうがよくない?」


「違う、そっちじゃない。お前は何も悪くない。悪いのはアイツだから、もう近づかなくていい」


…どう考えても、私が悪いはずなんだけど。才蔵はとにかく理事長が大嫌いな様子だ。理事長となんかあったの?と迂闊に聞けないくらいの殺伐とした雰囲気を感じた。私も理事長と対峙した瞬間、とてつもない嫌な気分になったけど。何かされた覚えもなければ理事長は終始優しかった。それなのに思い出すだけで鳥肌が立つ。そういえば。


「さっき理事長なんて言ってた?」


記憶が曖昧だったけど、部屋を出る時何か言われた気がする。


「しょうもないことだ、気にするな」


「そう」


才蔵はそれだけ言って教えてくれなかった。




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