転機
不思議な共同生活が始まってひと月が経った。正直まだひと月しか経ってないことが信じられない。
バイトと大学以外の時間、常に一緒に過ごしているせいで、普通より密に過ごしてるとは思うけど。
最初は完全に猫を被ってた佐助さんは、今では家事万能のお母さんな上、時々アルバイターになる。最近は教えたネットも使いこなして、たまに私の知らない情報をくれたりもする。おもにスーパーの特売日とかね。
たかがひと月、されどひと月。
馴染むほどの時間こちらの世界にいるという事は、裏を返せば、その間あちらの世界に帰る術が見つからなかったという事で。協力すると言ったのは自分なのに、私ばかりに気を使わせて、佐助さんに申し訳がたたない。
有効な手立てを見つけられないまま、焦りだけが募っていく。
天気がいいからと、朝から窓を開けて家の掃除をしていた時だった。自分の部屋もあらかた綺麗になったところで、空気の入れ替えをしていたほかの部屋の窓を閉めに行く。
両親は3ヶ月に1度くらいのペースで帰ってくるため、部屋の換気や軽い掃除は定期的にしていた。兄は大型連休になると顔を出して、いそいそと新しく買った漫画を本棚に補充しては、帰っていく。以前お義姉さんに漫画が多すぎると怒られたらしい。こそこそと実家に場所を移して集められた漫画は優に2000冊を超えていた。
「漫画喫茶でも開けそう...」
兄の部屋の窓を閉めながら、ふと本棚に目をやった。____次の瞬間。
バサッ
「……ーッ!?」
目の前の本棚から独りでに落ちてきたそれに、声にならない悲鳴が漏れた。後ずさった拍子に背後の棚に背中がぶつかり、がたんと音を立てる。
床に落ちていたのは、いつかの図書館で見た、深紅の本だった。足元から言い様のない恐怖が伝う。あの時すぐに本棚に戻したはずの本がどうして兄の部屋にあるのか……。いや、それよりも。
「なんで…忘れてたの……?」
1番おかしいのは、どうして今の今までこの本の存在を忘れていたのか、ということだった。
手がかりを探しに行った図書館でどこからともなく落ちてきた紅い本。中身は白紙だった。
あまりに不気味で咄嗟に逃げてしまったけれど、こんな記憶があっさり忘れられるわけがない。なのに、いつの間にか綺麗さっぱり忘れていたのだ。こうして目の前に再び現れるまで、まるで記憶に蓋をしてたかのように思い出せなかった。
「どうして……」
疑問は尽きないまま、恐る恐る本に手を伸ばす。震える指でそっと表紙をなぞると、表紙の紅色が波打ったような気がした。
恐ろしいのに、目が逸らせない。まるで魅入られたかのように手に取って、表紙を捲る。
「…ッ…なに、これ……」
以前見た時は白紙だったはずの頁には、びっしりと文字のようなものが書き込まれていた。しかし、どう見ても日本語じゃない。かといって見覚えのある外国語というわけでもなかった。
全く読めないそれをぼんやりと目で追って見るうちに、さらに異常なことに気付く。
内容が分かるのだ。
決して文字が読めている訳ではない。それなのに脳内で誰かに語られているかのように、本の内容がするすると頭に入ってきた。自覚した途端、突然膨大な情報が、今度は映像となって流れ込んでくる。頭が鋭い痛みを発して、立っていられずその場にへたりこんだ。咄嗟に棚に手を付くと、なにかが指に触れて、ガシャンと派手な音をたてて床に落ちる。
「なんか凄い音が…… っ、 アキちゃん、どうしたの!?」
ふらりと現れた佐助さんが次の瞬間私の肩を抱いていた。焦ったような声で名前を呼ばれる。佐助さんの声に答えようと、口を開くが息が漏れただけで声が出ない。その間にも手にした本から次々に情報が渦を巻いて頭の中を駆け巡る。
激しい頭痛と眩暈に襲われ、私は耐え切れずに意識を手放した。