oxy


手繰るほど縺れる


 伍番街スラムに住む人々には顔を知られている。見つかれば、またハウスに連れ戻されるだろう。まずはできるだけ伍番街スラムから離れようと考えた。

 無我夢中に走りつづけて、隣の隣の隣、八番街スラムにたどり着く頃には、疲労が限界を迎えていた。息を切らしながら、ふと視線をやった空の東側はわずかに白み始めていて、朝の気配を感じる。ハウスを出たのは日を跨いで間もないくらいの時間であったから、少なくとも4時間ほどは走りっぱなしであったことに気づく。

 曙の八番街スラム駅には人影ひとつなく、寂れたホームには無機質な光の明滅を繰り返す自動販売機と錆びついたベンチだけがあった。伍番街スラム駅と大差ない風景と空気の匂いに、少しだけ落胆する。縺れそうになる足をなんとか御して、よろめきながら、半ば倒れ込むような形でベンチに座った。

 こんなに遠くまで来たのは初めてだった。治安の悪さや、モンスターが出没するということもあり、ハウスのルールで伍番街スラムの外に行くのは禁止されていた。伍番街スラムの中であれば、何かあったとしても身内が守ってくれるが、他所に出てしまえばそうはいかないからだ。

 これからどうしようか。無一文の10歳の少女にできることなど限られている。だが、何をするにも金が必要だ。金がなければ腹を満たすことも、安全な寝床を得ることもできない。

 そこまで考えて、瞼が重くなる。先のことはあとで考えよう。今はただ、疲れた。眠りたい。
 一度閉じてしまった瞼はもう開かなくて、指先も僅かに動かすことも叶わないほど、全身が重くて仕方なかった。





 夢を見た。記憶の断片を切って貼って作り出された架空の情景ではなく、確かに事実として存在した過去の映像がそのまま流れている。いわば、回想のような夢だった。




 私は物心ついたときから、他人との関わりを億劫なものだと思いこんでいたきらいがある。ハウスの孤児や先生、スラムに住む人々との接触を意図的に避けてきた。授業もボランティアも放り出して、街のはずれを彷徨く私を連れ戻しにくるのは、決まって君だった。
 

「おい」


 雨の中、捨てられていた私を拾った君。私にとって君は、サラとはまた別の意味で、特別だった。


「戻るぞ」


 君は口数こそ多くはないものの、自立心や正義感が強く、遊び盛りの同年代の他の子どもたちよりも大人びて見えた。みんなが外で走り回って遊んでいるなか、ハウスの職員やスラムに住む大人たちに声をかけては、進んで彼らの手助けをする。その様は、君のハウスや伍番街スラムに対する愛着の深さを示していた。

 毎回私を連れ戻しにくるのも、君に根付く正義感、あるいは自身が拾ってきた面倒ごとで大人の手を煩わせまいという責任感によるものか。私は君に親性を感じたことはただの一度もなく、君もまた、そんな私の存在に責任を感じる必要はないというのに。


「#ロゼ#」


 かけられた言葉を無視して、君の方は見向きもせずにぼんやりと宙を見つめる。反応のない私に痺れを切らしたようで、君は私に近づくと小ぶりな丸太でも拾うかのように、無遠慮に私の身体を小脇に抱きあげる。ふわり。地面から足が離れる。抵抗はしなかった。抱きかかえられながらハウスに戻る道中、君は何も語らず、何も聞こうとしなかった。


 君が他人を謗ることなど滅多になかったが、愛想ない捻くれ者の私を内心では疎く思っていたのかもしれない。


 最後に君と顔を合わせたのは、君が13歳の誕生日を迎えて、多くの人々に門出を祝われながらハウスを出て行った日だろう。「元気でな」とそれだけ告げられた。社交辞令のような別れ文句からは、君の良くも悪くも淡白な面が垣間見える。涙を流しながら別れを惜しむほど私と君との思い出は多くない。それに、今生の別れというわけでもないのだ。だが、これからは私が突然姿を眩ましても、わざわざ探し回ってまでハウスに連れ戻そうとする人はいないのだと思った。繋げられていた首輪とリードを外された犬のような感覚だった。

 君が今どこで何をしているかなんて知らない。ただ、時々ハウスに顔を出していると聞く。特別避けているわけではないけど、私がそれを知るのはいつだって君が去ってからだ。
 できれば、もう会わないほうがいいと思う。会わない時間が長ければ長いほど、君は私に対する責任を忘れてくれるはずだ。ひょっとすると、もう、私の存在ごと忘れてるかもしれない。それでいい。君は私の飼い主でもなんでもない。ただ気まぐれに私を拾った通りすがりであってほしいのだ。


***


「きみ、ちょっと、起きなさい」


 どれくらいの時間が経ったのだろう。沈んだ意識が覚醒する。薄目を開けて、声の主を捉える。きっちりと着こなされた皺ひとつない制服。その装いは、その男が駅員であることを示していた。

 自分がここにきた経緯、神羅の存在を思い出して、すぐさま身を起こして構える。少し休憩するだけのつもりがかなり寝入ってしまっていたらしい。迂闊だった。駅員、すなわち神羅鉄道の社員は訝しげに私を見る。逃げなければならないのに、手足に力が入らない。身動きができない。


 捕らえられる? それとも、次の瞬間には銃を構えた神羅兵が押し寄せてきて、そのままここで殺される?


「あのねえ、こんなとこで眠られちゃ困るんだよ」


 一瞬感じた、そんな危機感はすぐに収まる。この様子だと、私が何者で、どういう経緯でここにいるのか、なにも知らないのだろう。少しの安堵と同時に、この数秒、無意識に呼吸を止めていたことに気づく。頭がくらくらする。足りない酸素を補おうと、身体は浅い呼吸を繰り返した。


「親御さんも心配してるだろ、風邪ひく前にはやく家に帰りな」


 建前で心配する素振りの裏に、はやく面倒ごとを早く片付けてしまいたいという思考が透けて見えた。だがそれは私も同じで、有難いことこの上ない。まだ警戒は解かず、駅員を視界に捉えたままベンチから離れる。
 それを見た駅員は、やっと仕事が始められると言わんばかりに大きなため息をついて、ホームの駅員室の方へ消えていった。


 周囲を見渡す。最初に来た時は私以外に誰もいなかった駅も、始発に乗らんとする人々で次第に騒めきを取り戻し始めていた。私はとにかく人目につかないところへ行こうと、駅から離れることにした。





 もうハウスには戻れない。行く宛てもない。それだけならいい。これからは常に神羅の存在に怯え、逃げ惑いながら生きていかなくてはならないのだろうか。そんなの無理だ。だってこの街は、この国は、神羅のものだ。どこに行っても神羅の目があり、影がつきまとう。もはやミッドガルで生きていこうとすること自体が無謀なのではないか。


 どうしよう。


 ふと、君の顔を思い出す。だけどすぐにそれをかき消すようにかぶりを振った。君だけは、なにがあっても頼らない。二度も拾わせてたまるものか。そんなことをするくらいなら、このまま野垂れ死ぬほうが幾分かマシだ。


「お嬢さん」


 突然、頭上から声が降ってくる。


 派手な髪色、黒いスーツと鈍く輝く装飾品で身を包むその男は、明らかにカタギではない風貌をしていた。目を細め、値踏みをするような視線で私の頭から足元までを見る。そして頷きながら「悪くない」と呟いた。


「訳ありのようだね」


 彼の誘いは悪魔の囁きだ。そういう予感はあった。だけど良心に従った道徳的判断だけで生きていけるほど、この世界は優しくないということも知っていた。手段や過程はどうでもいい。今はただ、神羅から逃れなければならない。重要なのはそれだけ。


「着いておいで。君にこの世界での生き方を教えてあげよう。なに、心配することはない。君には才能があるだろうからね」


 差し出された手を迷わず取る。彼は見た目とは裏腹に、話し方や態度は紳士的な男であった。紳士の仮面を被っているだけなのかもしれない。だけどその手は今まで出会ったどの大人のそれよりも私にとって価値のあるものだった。

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