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駄目になる覚悟


 八番街スラムに来たのは初めてだが、街の雰囲気は伍番街スラムとは全く異なる。伍番街は老人と子どもが多くて静かだった。この街はなんというか、全体的に騒がしくて、動きに満ちている気がする。

 目の前を歩く男は、慣れた足取りで人と人の合間を器用に縫うように闊歩し、先導していく。私ははぐれまいと、いやに目立つ黒い背広を目印に、人波をかき分けながら必死に追いかけた。男は私の方には一瞥もくれやしないのに、背中にも目がついているかのように、私が見失わないぎりぎりの距離を保ち続けている。

 どれくらい歩いただろうか。


 それは八番街スラムのなかで所狭しと家屋が立ち並ぶ、いわゆる住宅街の一角にあった。男に連れられてきたのは、その住宅街の風景によく馴染んでいる、どこにでもあるような簡素な一軒の家屋の前であった。
 ペンキで白塗りされた壁には、磨りガラスとアルミ製のドアが付けられている。屋根はトタン波板をつなぎ合わせて固定しただけのようで、家屋というよりは倉庫と呼ぶに相応しい見た目をしていた。

 伍番街スラムにも似たような建物がたくさんあったと思い出す。いや、伍番街スラムの方がもっと年季の入った建物が多かったかもしれない。自分がいた伍番街ハウスは煉瓦造りであったから馴染みがないものの、スラムにおいてはこういった造りの家に住むのが一般的なのだろう。


「ようこそ。歓迎するよ」


 男は私に中に入るよう促す。踏み留まるなら今だと、どこからともなく囁き声が聞こえた気がした。私のなけなしの善心が、この先に続いているであろう修羅の道へ、私自身が歩もうとしているのを引き留めたがっているのかもしれない。だけど私はそれを無視して、促されるまま建物の中へ足を踏み入れた。

 中には男と似たような風貌のチンピラが何人もいて、突如として現れた私に、一斉に不躾な視線を向けた、なんてことはなく。
 建物の中には誰もおらず、男の控えめな足音がこだまするほど静かであった。打ちっ放しコンクリートの壁に囲まれた、立方体の箱のような空間。広さは全体で15平米くらいだろうか。部屋の手前には事務机とパイプ椅子があった。部屋の奥には一台のパイプベッドと、小さめの棚が壁付されている。棚にはタオルや食器が収納されているようだ。さらに今いる位置から向かって左奥の角には、カーテンで仕切られた小さなスペースがあった。「かけたまえ」と、男が椅子にかけるよう促す。


「ところで君の名前を聞いていなかったね。なんというんだい」

「……エックス」


 口をついて出たのは、#ロゼ#という呼ばれ慣れた名前ではなく、咄嗟に頭に思い浮かんだ偽名だった。直感で、名前を言ってはいけないような気がしたのだ。だが、それにしたってなぜ、よりによってこの名前を。後悔するも、言ってしまったものは仕方がない。


「そうか、エックス。私のことは好きに呼びたまえ」


 男は目を細める。私を初めて見た時と同じ表情。なぜか、孤児院の本棚にある図鑑の中に載っていた蝮という生物を思い出した。だから私は彼を蝮と呼ぶことにした。


「私は八番街スラムに関しては知らないことはないと言っても過言ではないほど、この土地に精通している、という自負がある。老若男女問わず、ここに住まう者のことは熟知している。だが、君のことは今日初めて見た。君は今までどこでどうやって生きてきたんだい」


 その言葉で、彼がこの八番街スラムにおける有力者であることを察した。


「……話したくない」

「話せない、の間違いではないのか?」


 初対面の彼にそこまで語る気にはならなかったが、蝮は人の機微に聡いのだろう。言葉少なに語る私の態度から、そんな感情すらも見透かしているようだった。



 一頻り語ったあと、蝮は腕時計を見て立ち上がる。手に持っていた革の鞄からパンとペットボトルの水と鍵を取り出して机に置く。

「今日はもう遅い。具体的な仕事内容については明日教えよう。これを食べて、シャワーを浴びて眠りたまえ。戸締まりはしっかりしなさい」

「……どこで?」

「ここだよ。今日からここが君の家になる。家賃は君が仕事を始めればそこから天引きしていくシステムだ。1日20ギル。敷金礼金不要。一人暮らしは初めてだろうが、寝食をこなすだけならなにも困ることはない。シャワーとトイレはそこのカーテンの仕切りの向こうだ。キッチンはないが、スラムでは料理をする人間は少ないし、出来上がった食事が其処彼処に売っているから問題ないだろう。私のおすすめは八番饅頭だ。近くの屋台に売っている。そうだな、八番街スラムのことも近いうちに教えよう」

 
 蝮は私が質問する隙も与えず、早口で語ると「それではいい夢を、ミス・エックス」と残して、入ってきたドアからそのまま出ていった。


 怒涛の展開についていけないのは私だけだ。願ってもない幸運だが、今後、それだけ危険な仕事が課せられるということだろう。

 腹は減っていなかった。パンは手をつけずそのままに、ペットボトルの水を一口飲んだ。毒でも入っているのだろうかと少し警戒するが、特段おかしな味はしない。普通の水のようだ。それから、蝮に言われた通りドアの錠を下ろす。

 今日が生まれてこの方体験したことのないような非日常的な一日であったせいか、昨日まで伍番街スラムにいたというのに、それ自体が遠い昔の出来事のように感じた。それまで麻痺していた感覚が戻ってきたように、どっと疲れが押し寄せる。

 ベッドに飛び込んで今すぐ眠ってしまいたい気持ちを抑えて、シャワーを浴びることにした。蛇口を捻れば水ではなく丁度いい温度の湯が出てきて、意外にも設備はしっかりしているのだなと感心する。伍番街ハウスのシャワーは湯が出るまでに数分を要するのだ。頭上から降り注ぐ湯を浴びながら考えるのは、蝮のことだった。

 間違いなく裏がある。信じきるのは危険だ。だけど全てが偽りだとも思えない。善意と悪意の境界線が分かりづらい男だった。それとも、初めから境界線などなくて、ふたつが複雑に混ざり合いながら均衡を保ち、蝮という男を形成しているのか。

 目を細め、笑みを浮かべている蝮の顔を思い出す。なんにせよ、今はあの男だけが頼りだ。今後私の人生がどう転ぶことになろうとも、もう引き返せないし。

 ああ、そんなことよりも、私はなんて迂闊なことをしてしまったのだろう。

「エックス……」

 この名を名乗るつもりはなかった。先ほどまで脳裏に浮かんでいた蝮の顔が、別の顔に上書きされる。今朝夢に出てきた彼だ。エックスというのは、元々彼の名前だった。そういえば、伍番街ハウスの、時々壊れて水しか出なくなるシャワーを直していたのは彼だった。彼は老若男女問わずあらゆる人から頼られ、慕われ、愛されていた。私とは真逆の位置にいた人。

 今頃どうしているだろう。私が伍番街ハウスを出て行ったことは、もう伝わっているだろうか。いつかみたいに、私を探しにくるだろうか、なんて。

 もう、私と彼は無関係だ。『エックス』なんてありふれた名前だし、私が勝手に名乗ったところで彼に辿り着く人なんていないだろう。


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