四苦八苦 参
着いたのは、町から少し離れた山間の一軒家だった。
着いたぞォ、という声に目を開けると、男が真っ直ぐ見下ろしていたのでゆき乃は慌てて男の服を掴んでいた手を離した。
畳の上にゆっくりとゆき乃の体が下ろされる。
ここはどこだろう。
キョロキョロと見回していると、「俺の家だ、安心しろォ」と男の低い声が聞こえてくる。
果たしてそれが安心と言えるのかどうかは分からないが、ゆき乃はあの場を助けてくれたこの男に、多少の恐怖はあるものの警戒はあまりなかった。
むしろこの男の方が、彼女を警戒している。着物を直せないとはどういうことかと。
「近かったから連れてきただけだァ。それより、着崩れてんの直せねぇってどういう事だァ」
「え、と……ちょっと自分でやってみます」
流石に見ず知らずの男の人にそれを頼んでいいのか迷ったゆき乃は、ササッと襖の奥に隠れて着崩れた着物を直そうとした。
だが、すぐ近くに男がいる上に、早くしなきゃという焦りからか手元がもたついて上手くできない。
それどころか、さっきよりも状況は悪化している。
「あのぉ……」
申し訳なさそうな声と共に、襖から顔だけを出したゆき乃はその男に目配せした。
早くしろと言わんばかりの態度でそこに立っていた男は、彼女の態度で粗方察しがついて、思わず溜め息が漏れた。
「着せてもらえますか?さっきよりも…崩れちゃった」
「はァァァ?お前、」
どういう神経してんだァ、と続きそうになった言葉を男は直前で飲み込んだ。
この女は何の警戒もしていない。それなのに自分が意識していると思われたらその方が癪だと思った。非番なのにこんな面倒な事に巻き込まれて災難だと、男は手を額についてまた溜め息を漏らした。
「……分かったよ」
「ありがとうございます!」
パァと明るくなった彼女の顔に、男は思わず顔をしかめた。
彼女の笑顔が気に障ったとかではなく、不意な笑顔に動揺し、それを律しようとしたためそのような顔になってしまったのだ。
そんな男の事など気にすることなく、ゆき乃は「お願いします」と男の前に出た。
何をやってんだ、俺は。
思わずそう吐き出したくなるのを抑え、手際よく彼女の着崩れを直していく。
むしろどうやったらこんなに着崩れんだよと叫びたくなった。
「出来たぞォ…ほら」
「わぁ!凄い!」
「別に凄かねぇよ。つーか、何で一人で着れねぇんだァ?自分で着たんだろォが」
「…えっと、慣れてなくて」
腑に落ちないと思いながらも、別にそれ以上突っ込む必要もないと思い、彼女から視線を移すと、中身が少し見えてしまっている包みに手を伸ばした。
地面に落ちたものの、少し砂を除けば食べられるようだった。
「食えそうで良かったなァ」
「はい…あ!食べます?嫌いですか、おはぎ」
「いや、嫌いじゃねェ」
「でも助けてもらったお礼なのに落としたおはぎとか有り得ないよね……いえ!お礼はまた今度、」
「いいよコレで。十分だ」
「いやでも」
「いいっつってんだろうがァ」
男の声にビクッと肩が揺れてしまったが、それを気にすることなく、「茶でも入れるかァ」と部屋を出ていってしまった。
初めて見る男の背中。そこには、「殺」という文字が入っており、彼女は思わず身震いした。
生きて帰えれるだろうか。